第19話
長く続いた冬も、ようやく終わりの兆しを見せ始めていた。
分厚い雪の下から少しずつ黒い土が顔を出し、空を渡る風も心なしか温かい。
陽だまりカフェの窓辺に飾られたエララさんの花も、春の訪れを告げる明るい色のものが増えた。
町の人々の話題は、自然とこれから始まる春の畑仕事のことで持ちきりになっていた。
「いやあ、今年の冬は本当に長かったなあ」
「うむ。これだけ雪が深いと、畑の土もすっかり凍てついているだろうな」
カフェに集まった農家の人たちが、少し心配そうな顔で話している。
私もコーヒーを運びながら、その会話に耳を傾けていた。
「一番の問題は種籾だ」
食料品店を営むポポさんが、深刻な顔で言った。
「今年の冬は寒さが厳しかった上に、日照時間も極端に少なかっただろ? そのせいで春に蒔くために蓄えておいた種が、なんだか元気をなくしているんだ。このまま蒔いても、例年通りに芽吹くかどうか……」
その言葉に周りの農家の人たちも、重々しく頷いた。
このままでは今年の収穫はあまり期待できないかもしれない。
そうなれば次の冬、町は本当に食料不足に陥ってしまうだろう。
カフェの中の和やかな空気が、少しだけ不安の色に染まった。
種が元気をなくしている。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中にあの雪の夜に聞いた女神様の言葉がはっきりと蘇る。
『あなたの力は、種が芽吹くのを助けたり、痩せた土壌を豊かにしたり……。この大地そのものをこね上げ、新しい命を育むことさえできるでしょう』
これだ。
私の力が、今こそこの町のために役立つ時だろう。
食べるためのパンじゃない。
この町の大地とそこに蒔かれる種に、直接生命の力を届けるための特別なパン。
「……あの、皆さん!」
私は思わず声を上げていた。
カフェにいた全員の視線が私に集まる。
「私に考えがあります。私のパンで、皆さんの畑と種を元気にすることができるかもしれません!」
私の突拍子もない提案に、皆きょとんとした顔をしている。
パンで畑を元気にする?
無理もない。
私自身、半信半疑だったからだ。
けれど私の目は真剣だった。
私は女神様から聞いた、自分の力の新たな可能性について皆に説明した。
私の生命魔法が、ただパンを美味しくするだけでなく生命そのものを育む力を持っているかもしれない、と。
「つまり、嬢ちゃんは畑に食わせるためのパンを作るってことかい?」
ボルギンさんが、面白そうに目を細めた。
「はい。私の生命魔法を最大限に込めて焼いたパンを細かく砕き、肥料のように畑に撒くんです。そうすればパンに宿った生命力が、直接大地と種に届くはずです。きっと、元気な芽がたくさん出てくると思います!」
私の計画に最初は半信半-疑だった町の人々も、私が今まで起こしてきたパンによる小さな奇跡の数々を思い出し、次第に顔に期待の色を浮かべ始めた。
「……ユイ殿の言うことなら、試してみる価値はありますな」
フェンウィック先生が静かに頷いた。
「そうよ! ユイさんの魔法ならきっとできるわ! 私も手伝う!」
エララさんがぱっと顔を輝かせる。
「俺もだ。必要なものがあれば何でも言ってくれ」
いつの間にか私の隣に来ていたルゥフさんが、力強く言ってくれた。
彼のその一言が、私の決心を固めてくれた。
こうしてコリコの町全体を巻き込んだ「春を呼ぶパン」計画がその日から始まった。
それは誰か一人の力では成し遂げられない、大きな挑戦だ。
まずルゥフさんが森の奥深くから、栄養分をたっぷりと含んだ黒々とした腐葉土を大きなソリで何往復もして運んできてくれた。
彼の力強い足は、まだ雪の残るぬかるんだ道でも少しも歩みを止めない。
「この土を混ぜれば、畑の力がより一層強くなるはずだ」
次にボルギンさんが、改良型の新しい農具を工房にこもって何日もかけて作ってくれた。
それは硬く凍てついた土を効率よく耕すための鍬と、砕いたパンを畑全体に均一に撒くための特殊な散布機だった。
「へっ、どうだ。ドワーフの技術に不可能はない。これさえあれば作業効率は今までの倍以上だぜ」
エララさんと町の女性たちは、畑に撒くパンの効果をさらに高めるために発芽を促す効果のある特別な薬草を、雪解けの始まった野山からたくさん集めてきてくれた。
「この薬草をパンに練り込めば、きっと種たちも喜んで目を覚ますわ」
そしてハーフリングの子供たちも、自分たちにできることをと一生懸命に畑に残った雪かきを手伝ってくれた。
小さな体でスコップを手に、楽しそうに雪を運ぶ姿は見ているだけで心が温まる。
町のみんなが心を一つにして、春を呼ぶための準備を進めていく。
その光景に私の胸は熱くなった。
私は一人じゃない。
みんなの思いが私の力になってくれている。
そして私は工房で、計画の要となる「春を呼ぶパン」の試作に全力を注いだ。
材料はこの町で採れたものだけを使った。
一番生命力の強いささやき小麦、ルゥフさんが運んでくれた腐葉土を少しだけ混ぜ込んだ水、そしてエララさんが集めてくれた薬草。
生地をこねながら私は祈った。
この町の未来を、この大地に生きるすべての命の輝きを。
私の持てるすべての生命魔法をこのパンに注ぎ込む。
「目覚めなさい、大地。春はもうすぐそこですよ」
私の手のひらから放たれる金色の光は、今までになく強く温かかった。
生地は私の魔法に応えるように、それ自体が生きているように力強く脈打ち、鮮やかな緑色に輝き始めた。
数日後、すべての準備が整った。
町の外れに広がる広大な畑に、町中の人々が集まっていた。
まだ冬の寒さが残る空気の中に、人々の期待と少しの不安が入り混じっている。
私はみんなが見守る中、焼き上がったばかりの「春を呼ぶパン」を大きな籠に入れて畑の中央へと運んだ。
パンは生命力に満ち溢れ、内側から淡い緑色の光を放っているようだ。
「……行きます!」
私はパンを高く掲げると、それを細かく砕きボルギンさんの作ってくれた散布機の中に入れた。
そしてゆっくりと畑の中を歩きながら、パンの欠片を大地へと撒いていく。
まるで大地に希望の種を蒔いているようだった。
パンをすべて撒き終えると、私は畑の中央で立ち止まり黒い土の上にそっと両手をかざした。
みんなの思いをこの大地に届けて、と願う。
私は目を閉じ意識を集中させる。
私の体を通して、みんなの温かい心とこの星そのものが持つ生命力が、手のひらから大地へと流れ込んでいく。
その瞬間、奇跡が起こった。
私の手のひらが触れた場所から、金色の温かい光が波紋のように畑全体へと広がっていった。
硬く凍てついていた大地が、優しい温もりに触れたようにみるみるうちに解けていく。
そしてパンの欠片が撒かれた場所から、ぽつり、ぽつりと小さな緑色の芽が顔を出し始めた。
一つ、また一つと増えていくその芽は、やがて連鎖するように畑の至る所から一斉に芽吹き始めたのだ。
「……おおっ!」
「芽が出たぞ!」
「すごい……! 本当に、春が来たんだ!」
畑を囲んでいた人々から、どよめきと割れんばかりの歓声が上がった。
枯れ草色だった大地がほんの数分の間に、目に鮮やかな若葉の色ですっかりと覆い尽くされている。
その力強い生命の息吹は、見ているだけで心が震えるほどだった。
目の前に広がる奇跡の光景を、涙で滲む目で見つめていた。
隣に立つルゥフさんが、私の肩を大きな手でそっと抱き寄せてくれる。
畑の向こうでは沈みかけた太陽が、最後の光で芽吹いたばかりの若葉たちを、祝福するように照らし出していた。
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