第15話
翌朝、私は焼きたてのライ麦パンをいくつか紙袋に詰めると、ボルギンさんの鍛冶屋へと向かった。喫茶室を作るという大きな計画を成功させるには、彼の持つドワーフの確かな技術がどうしても必要だった。彼の工房からは朝早くから、カン、カン、というリズミカルな金属音が響いてくる。
「ボルギンさん、こんにちは! 少し、ご相談したいことがあるのですが」
私が工房に顔を出すと、ボルギンさんは汗を光らせながらハンマーを振るう手を止め、ちらりとこちらに視線を向けた。その目には、いつものように職人としての厳しい光が宿っている。
「……おう、嬢ちゃんか。また何か妙な道具でも作ってほしいのか?」
彼のぶっきらぼうな口調には、どこか面白がっているような響きがあった。私が以前、自動こね鉢という前代未聞の依頼をしたことを覚えているのだろう。
「ふふ、今日は道具じゃないんです。お店の改装をお願いしたくて」
私は、店の隣の物置を改装して小さな喫茶室を作りたいという計画を、熱を込めて語った。お客さんたちがもっとゆっくりとパンを楽しめるように。この町の人々が、もっと気軽に集まれる場所を作りたい、と。そしてそのためには、ボルギンさんの持つ木や石を扱う最高の技術が必要なのだと、まっすぐに伝えた。
私の話を黙って聞いていたボルギンさんは、やがて腕を組み、ふむ、と唸った。彼の職人としての興味が、私の計画に向けられたのがわかった。
「……喫茶室、だと? なるほどな。パンを食わせるだけでなく、場所も提供しようというわけか。面白い。実に、面白いじゃないか」
彼の職人魂に火がついたようだった。彼は手に持っていたハンマーを台の上に置くと、私の持ってきたライ麦パンを一つ無造作に掴んで大きな口でかぶりついた。
「よし、その話、乗った! お前のパンに見合う、最高の空間を作ってやる。任せとけ!」
力強い彼の言葉に、私は心から安堵した。
「本当ですか! ありがとうございます、ボルギンさん!」
「ただし、だ。作るからには中途半端なもんは作らねえ。材料も、設計も、俺が納得できる最高のものでやらせてもらう。いいな?」
「はい、もちろんです!」
こうして、喫茶室の改装計画は心強い棟梁を得て、本格的に始動することになった。
その日の午後、さっそく設計の打ち合わせをするために、ボルギンさんが私の店にやってきた。物置だった場所を隅々まで検分し、壁を叩いて強度を確かめ、床板を一枚一枚慎重に調べている。その目は、獲物を前にした狩人のように鋭い。
「ふむ。基礎はしっかりしてるな。これなら壁を抜いて窓を大きくすることもできるだろう」
彼は持参した羊皮紙の上に、木炭で大まかな設計図を描き始めた。その手つきは、普段の荒々しい仕事ぶりとは裏腹に驚くほど繊細だった。
「まず、構造を支える柱と梁には一番硬くて丈夫な『鉄木』を使う。床板は、何十年経ってもびくともしねえように厚い樫の木だ。壁は断熱効果の高い石材と漆喰を組み合わせる。ドワーフの技術というのはな、見かけの美しさよりまず第一に、百年先まで使える堅牢さなんだ」
彼は自分の仕事に絶対の自信と誇りを持っている。その姿は、とても格好良かった。
ちょうどその時、店のドアベルが軽やかに鳴った。
「ユイさん、いる? 喫茶室を作るって聞いたわよ! 私にも何か手伝わせて!」
エララさんが、いつもの明るい笑顔で店に入ってきた。彼女は私の新しい計画を聞きつけて、自分のことのようにわくわくしているらしかった。
「エララさん! 来てくれたんですね。今、ボルギンさんと設計の相談をしていたところなんです」
「まあ、素敵! ボルギンさん、どんなお店になるの? 私、内装を考えるのが大好きなのよ!」
エララさんはボルギンさんが描いている設計図を、興味津々で覗き込んだ。そして、彼女の目が輝いた。
「そうだわ! 壁には、森の蔦が絡まるような美しい彫刻を施すのはどうかしら? 窓辺には季節の花を飾れるような、大きめの飾り台を作るの。テーブルや椅子も、ただ頑丈なだけでなく、エルフの工芸品のように流れるような曲線を持った意匠にしたいわ!」
彼女の頭の中には、すでに華やかで美しい店のイメージが広がっているようだった。しかしその言葉を聞いたボルギンさんの眉間に、深い皺が刻まれた。
「……彫刻だと? 曲線だと? そんなひょろひょろした飾りに何の意味がある。家具というのはな、どっしりと安定していて実用的なのが一番なんだ。無駄な装飾は軟弱者のすることだ」
ボルギンさんの低い声には、明らかな不満の色が滲んでいた。
「まあ、軟弱ですって!? ボルギンさん、あなたには繊細な美しさがわからないのね! 人が安らぐ空間には、心を豊かにする芸術性が必要なのよ! ただの石と木の塊に囲まれて、心が休まるわけないじゃない!」
エララさんも一歩も引かずに言い返した。普段は穏やかな彼女だが、こと美意識に関しては強いこだわりがあるようだった。
質実剛健を是とするドワーフの価値観と、繊細な美を愛するエルフの価値観。生まれも育ちも、そして美しさの基準も全く違う二人の意見は、完全な平行線をたどっていた。
「だいたい、エルフの作るもんはいちいち細かすぎるんだ! 椅子一つ作るのに、何日かけるつもりだ!」
「ドワーフの作るものは、何もかもが無骨で可愛げがないわ! あれじゃ、まるで砦の中で食事をしてるみたいよ!」
二人の間には、ぴりぴりとした空気が流れ始める。これは私が想像していた以上に、根深い問題なのかもしれない。けれど、私は二人の職人としての情熱を素晴らしいものだと感じていた。どちらの意見も、それぞれの種族が長い年月をかけて培ってきた誇り高い文化そのものなのだ。
このままでは計画が進まない。私は二人の間に割って入ると、にっこりと微笑んだ。
「ボルギンさん、エララさん。お二人とも少し落ち着いてください。お二人の素晴らしい案は、どちらも素敵すぎて私には一つになんて選べません」
私の言葉に、二人は少しだけ気勢を削がれたように押し黙った。
「だから、こうしませんか? お二人の案、どちらも採用するんです」
「「どっちも、だと?」」
二人の声が、綺麗に重なった。
「はい。例えば、ボルギンさんが作ってくださる鉄木を使った頑丈な柱や梁に、エララさんが考えた美しい蔦の彫刻を施すんです。ドワーフの力強さとエルフの優雅さが、一つになるんです。素敵だと思いませんか?」
私の提案に二人は顔を見合わせた。ボルギンさんは腕を組み、エララさんは顎に手を当てて考え込んでいる。
「ボルギンさんの作るどっしりとした樫の木のテーブルに、エララさんが選んだ美しい布をかける。ボルギンさんが作った石壁の暖炉のそばに、エララさんが育てた温かい色の花を飾る。力強さと繊細さ。無骨さと華やかさ。違うものが組み合わさるからこそ生まれる、新しい美しさだってきっとあると思うんです」
私は自分の思いを一生懸命に伝えた。私のパン作りも同じだ。力強いライ麦も繊細な花の蜜も、どちらも大切な材料で、それらが合わさるからこそ新しい美味しさが生まれる。
私のその言葉に、二人の表情が少しずつ和らいでいくのがわかった。
「……なるほどな。ドワーフの技術と、エルフの意匠の融合、か」
ボルギンさんが、ぽつりと呟いた。
「……違う文化が合わさることで、新しいものが生まれる……。確かに、そうかもしれないわね」
エララさんも、静かに頷いた。
「ちょうど今、お二人のことを考えながら新しいパンを焼いたんです。よかったら、それを食べながらもう一度お話ししませんか?」
私は工房から二つの特別なパンを持ってきた。一つはナッツとドライフルーツがぎっしり詰まった、ボルギンさんのためのどっしりとした黒パン。もう一つは食用花と花の蜜をたっぷり使った、エララさんのための華やかなブリオッシュ。
「これは、大地のパンだ」
「まあ、こちらはまるでお花畑のよう……」
二人はそれぞれのパンを手に取ると、まずはお互いのパンをじっと見つめ、そしてゆっくりと味わい始めた。
「……ふん。悪くねえ。甘ったるいだけかと思ったが、しっかりとした小麦の味がする」
ボルギンさんがブリオッシュを味わって、ぶっきらぼうに言った。
「こちらの黒パンも、とても力強い味わいですわね。噛むほどに大地の恵みを感じます。こういう実直なパンも、素敵ですわ」
エララさんも黒パンを味わって、素直な感想を口にした。
パンを食べながら、二人は自然と互いの故郷の話や職人としてのこだわりについて語り始めた。ボルギンさんはドワーフの地下都市で、いかにして頑丈な建築物が作られるかを語り、エララさんはエルフの森の都で、いかにして自然と調和した美しい工芸品が生まれるかを語った。
話しているうちに、二人の間にはいつの間にか互いの文化への敬意と、職人としての共感が生まれていた。
「……よし、わかった!」
ボルギンさんがパンをすべて食べ終えると、こね台をバンと叩いた。
「嬢ちゃんの言う通りだ! ドワーフの技術とエルフの知恵、どっちが上かなんて比べても意味がねえ! それならいっそ二つを合わせて、この町で一番、いや、この大陸で一番の喫茶室とやらを作ってやろうじゃねえか!」
彼のその言葉に、エララさんも満面の笑みで頷いた。
「ええ、そうこなくっちゃ! 私も最高の意匠を考えるわ。ボルギンさんの頑丈な骨組みを、世界で一番美しく飾ってみせる!」
こうして二人の頑固な職人は、私のパンを通じて見事に和解した。それどころか互いの力を合わせることで、これまで誰も見たことのないような素晴らしいものを作り出そうと、新たな情熱に燃えていた。
その日から、店の隣の空き部屋で喫茶室の改装作業が始まった。ボルギンさんが指揮を執り、エララさんが意匠の細部を指示する。時には小さな意見の相違もあったけれど、その度に二人は互いの意見に真剣に耳を傾け、より良い方法を探っていく。
その噂を聞きつけた町の人たちも、次々と手伝いに来てくれた。屈強な鉱夫たちがボルギンさんの指示で重い石材を運び、ハーフリングの子供たちがエララさんの周りで楽しそうに花の飾りを作っている。私のパン工房の喫茶室作りは、いつしかこのコリコの町に住む異なる種族の人々の心を一つにする、大きな共同作業へと変わっていった。
私はそんな活気あふれる作業風景を眺めながら、働くみんなのために毎日たくさんのパンを焼いた。汗を流した後にみんなで食べるパンは、格別に美味しかった。ルゥフさんも森から丈夫な木材を運んできてくれたり、重い荷物を軽々と運んだりと、黙々と作業を手伝ってくれている。彼の広い背中を眺めていると、私の胸は温かい気持ちで満たされた。
完成まではまだ少し時間がかかりそうだ。けれどこの喫茶室が、ただの店ではなく、この町の温かい心の象徴のような特別な場所になることは、間違いなさそうだった。
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