第6話

ルゥフさんが何か言いたげに口を開きかけた、その時だった。彼の真剣な金色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「……工房の裏、俺の部屋に来てくれ」


彼の低い声には、切羽詰まったような響きがあった。普段の彼からは想像もつかないほどの焦燥が滲んでいる。


「怪我をした子供がいるんだ。俺では、どうにもできなくて……」


私はすぐに事態を察した。彼の居住スペースは、この店の裏手にあって、工房の勝手口と繋がっている。私がパンを焼いている間に、何かがあったのだろう。


「わかりました、すぐ行きます!」


私はエプロンを外し、ルゥフさんの後を追って彼の部屋へと向かった。彼の部屋は、必要最低限の家具しかない、殺風景で質素な部屋だった。森での暮らしが長い彼らしく、部屋には乾いた薬草や木の匂いが微かに漂っている。その部屋の中央に敷かれた毛皮の上に、小さな生き物がぐったりと横たわっているのが見えた。


それは、真っ白でふわふわの毛玉のような、もふ綿ウサギの子供だった。市場で見た、汚れを寄せ付けないという聖なる布の元になるウサギだ。その片方の後ろ足が、赤黒く、痛々しく腫れ上がっている。おそらく、森で猟師が仕掛けた古い罠にでもかかってしまったのだろう。呼吸も浅く、小さな体が小刻みに震えていた。


「森の巡回中に見つけたんだ。だが、俺が触ると暴れてしまって、手当てがうまくできない」


ルゥフさんは、自分の大きな手を悔しそうに見つめている。彼の体は大きく、力も強い。その力で、かえってこの小さな命を傷つけてしまうことを恐れているのが痛いほど伝わってきた。優しい彼らしい悩みだった。


「私に任せてください」


私はそっとウサギの子供のそばにしゃがみ込んだ。怯えさせないように、ゆっくりと、優しく。そして、腫れ上がった足に、そっと両手をかざした。


「大丈夫よ。もう痛くないからね」


心の中で語りかけながら、私は生命魔法を最大限に集中させる。私の手のひらから、温かい金色の光が溢れ出し、ウサギの子供の体を優しく包み込んだ。

(この温かい感覚は、ホカちゃんの時と同じ…。あの時は魔法の力が馴染みやすい粘土だったけど、今度は本物の生き物。私の力は、生き物にも直接使えるんだ)

光に触れたウサギは、最初はびくっと体を震わせた。しかし、魔法の温かさに危険がないと悟ったのか、やがて体の力を抜き、気持ちよさそうに目を細めた。


魔法の光が、傷ついた細胞に直接働きかけ、修復していく。壊れた骨が繋がり、裂けた肉が再生するイメージを強く思い描く。痛々しく腫れていた足は、みるみるうちに元の大きさに戻り、傷口も綺麗に塞がっていった。ほんの数分で、手当ては完了した。


ウサギの子供は、何が起こったのかわからないという顔で、自分の足を見つめている。そして、ぴょん、と軽やかに立ち上がると、私の手にすり寄ってきて、感謝を示すように鼻先をくんくんと鳴らした。


その光景を、ルゥフさんは息を飲んで見つめていた。彼の金色の瞳が、驚きと、そして何か別の感情で揺れている。


「……すごいな」


ぽつりと、彼が呟いた。


「俺の力は、何かを壊したり、狩ったりすることしかできない。だが、お前の力は……命を生み出し、癒やす、優しい力なんだな」


彼はどこか寂しそうに、そして、羨むようにそう言った。私は立ち上がって、彼に向き直る。


「そんなことないですよ。ルゥフさんの力があったから、この子をここまで無事に連れてくることができたんです。その力で、森の生き物たちを守っているんですよね? それは、とても優しくて、立派な力だと思います」


私の言葉に、ルゥフさんは少しだけ驚いた顔をした。そして、照れたように視線を逸らす。彼の尖った耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっているように見えた。


「さあ、この子もお腹が空いているでしょうし、ルゥフさんも、何か温かいものを食べませんか? お礼、というわけではないですけど、私に何か作らせてください」


私はウサギの子供を優しく抱き上げると、工房へと戻った。


私はまず、市場で手に入れたばかりの新鮮な野菜をたっぷり使って、栄養満点のスープを作ることにした。棚から取り出したのは、甘みの強い人参と、ほくほくした食感の芋、そして香りづけのハーブ。鍋でことこと煮込むと、工房中に野菜の甘い香りが広がる。仕上げに生命魔法をそっとかけると、スープ全体が淡い光を帯びた。


そして、そのスープに合うように、外はカリッと、中はもちもちの食事パンを、かまどで温め直した。


ウサギの子供には、すり潰した野菜とミルクを混ぜた、特製の離乳食を用意した。これも、もちろん魔法をたっぷり込めてある。


「さあ、どうぞ。たくさん食べて、元気になってくださいね」


店のテーブルにスープとパンを並べると、ルゥフさんは少しだけ戸惑ったように、椅子に腰掛けた。ウサギの子供も、私の足元で、夢中になって離乳食を食べている。


私たちは、言葉少なにお互いのスープをすすり、パンをちぎって口に運んだ。静かだけど、とても温かい時間が流れていく。工房に響くのは、スプーンと皿が触れ合う音と、薪がはぜる音だけだった。


「……美味い」


ぽつりと、ルゥフさんが呟いた。


「ユイの作るものは、腹が満たされるだけじゃない。……なんだか、心の中まで温かくなる」


その素直な言葉が、私には何より嬉しかった。


この出来事をきっかけに、私はお店の新しいメニューを考えることにした。温かいスープとパンのセット。そして、もっと手軽に、外でも食べられるサンドイッチ。この町の、外で働く人たちの力になれるかもしれない。


私は早速、フェンウィック先生の元へ相談に向かった。先生は、この世界の食文化にとても詳しく、私のアイデアに興味津々で耳を傾けてくれた。


「ほう、サンドイッチですな。パンに具材を挟むという発想は、この町にはありませんでした。実に合理的で、素晴らしいアイデアだ」


先生は、この土地で手に入る食材で、パンに合う組み合わせを、いくつも提案してくれた。燻製にしたお肉とチーズ、新鮮な野菜とハーブを効かせたソース、甘いフルーツとハニースライムの蜂蜜を挟んだデザートサンドイッチ。私の頭の中は、新しいレシピでいっぱいになった。


数日後、私の店「陽だまり」の店先に、新しい看板が加わった。「特製サンドイッチと日替わりスープ、始めました」


この新メニューは、すぐに町の人々の間で評判となった。広場の木々が少しずつ色づき始めた頃、陽だまりのサンドイッチは職人さんたちの定番の昼食になっていた。特に、日中、外で仕事をしている職人さんや農家の人たちに、大いに歓迎された。


「陽だまりのサンドイッチは最高だぜ! 仕事しながらでも手軽に食えるし、何より美味くて、腹持ちがいい!」


ボルギンさんは、鍛冶仕事の合間に食べるのがすっかりお気に入りになったらしく、毎日違う種類のサンドイッチを、楽しそうに買っていってくれる。


「まあ、素敵! これなら、天気の良い日に、お花畑でピクニックができるわね!」


エララさんも、花を摘みに行く時に持っていくのだと、嬉しそうに言っていた。


ハーフリングの三つ子たちは、フルーツサンドの虜になってしまったようだ。


「お姉ちゃんのフルーツサンド、毎日食べたい!」


お店は以前にも増して、毎日たくさんのお客さんで賑わった。自動こね鉢とホカちゃんのおかげで、増えた注文にも十分対応できている。私のパンが、この町の人々の日常の一部になり、みんなを笑顔にしている。その事実が、私をこの上なく幸せな気持ちにさせてくれた。


パン工房「陽だまり」は、いつしか、このコリコの町に無くてはならない存在になっていた。広場のベンチでは、私の店のサンドイッチを頬張る人々の姿が、あちこちで見られるようになった。町の空気が、以前よりも少しだけ、明るく、温かくなったような気さえする。


そんな、穏やかで充実した毎日が続いていた、ある日の午後だった。店の棚に並んだ、いつもと同じパンたちを眺めながら、私はふと考え込んでしまった。


店は繁盛し、お客さんはみんな「美味しい」と言ってくれる。これ以上ないくらい幸せなはずなのに、心のどこかに、小さな物足りなさがあった。

毎日、同じパンを焼き、同じ笑顔を見る。その繰り返しは尊いけれど、私のパン職人としての成長は、ここで止まってしまうのだろうか。


(このままで、いいのかな……)


もっと人を驚かせるような、心を揺さぶるような、新しいパンが焼けるのではないか。まだ知らない材料、まだ試したことのない製法。私の知らないパンの世界は、もっともっと広いはずだ。


今の私に足りないものは何だろう。新しい挑戦がしてみたい。

そんな思いが、胸の奥で静かな熱となって燻り始めていた。

私は、夕暮れの光が差し込む工房で、棚に並んだ陽だまりロールをじっと見つめていた。

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