第22話#『塩気の理由──ホルモンうどんと祖父の教え』
前書き
四年生の終わり、小猿は「ホルモンうどん屋の娘」と心を通わせていきます。
貧しさを笑わず、そっと支える少女とその家族。
その優しさは、小猿の心に深く染みわたっていきます。
#『塩気の理由──ホルモンうどんと祖父の教え』
【第一部:はじまりの気配】
四年生の夏、小猿の暮らしは少しずつ変わり始めていた。
相変わらず給食以外の食事は乏しかったが、それでも父親の暴言や酒の匂いがないだけで、家の空気は違っていた。
水道が止まらない。電気も消えない。
それだけで、夜の部屋が少しだけ明るく感じた。
だが、変わらないのは空腹だった。
夏休みに入り、給食という「命綱」がなくなると、小猿の一日は苛烈なものになった。
柔道の稽古は続く。暑さで汗が噴き出し、帰り道には力が入らず、足取りはいつも重かった。
その日も、柔道の道着は汗でぐっしょりと濡れていた。
ふらふらと歩く帰り道。
身体は重く、気づけば足はあの店の前へと向いていた。
――ホルモン屋。
小さなとたん屋根の建物に、「ホルモン」とだけ書かれた赤い提灯。
鉄板の上から立ちのぼる香ばしい煙。
それがダクトを通じて通りに流れ出すと、小猿の胃袋がきゅうっと音を立てる。
しかし――今日は、違った。
店の前に、彼女が立っていたのだ。
【第二部:少女と祖父の言葉】
娘は汗を拭くタオルを差し出しながら、笑った。
「お疲れ様、小猿」
その一言が、砂漠の水のように沁みた。
小猿は小さな声で「ありがとう」と返し、そして続けた。
「いつもありがとう。ほんとは、こんな毎日寄らせてもらうの、良くないのは分かってる。うちは、貧乏で、食べるものもその日あるかどうかで……甘えさせてもらってるって、自分でも思ってるんだ。でも、無理だったら……ちゃんと言って」
言葉は震えながらも、真っ直ぐだった。
娘は少しだけ目を細めて、小さく笑う。
「えっとね、今日はちょっと時間があるから、そこの公園に行こっか」
少女の誘いに、小猿は戸惑いながらも、こくりと頷いた。
少女は店の奥へ声をかける。
「お母さーん、ちょっと友達と公園行ってくるねー!」
すると奥から、母親らしき人が出てきて、小猿と目が合った。
「あなたが小猿くんね。……いつも娘が世話になってるみたいで」
小猿は慌てて頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。……いつもお世話になってます。ありがとうございます」
母親は、驚くでもなく、どこか優しい顔で言った。
「いいのよ。子どもが遠慮なんかしなくて。……それより、格闘技やってるんでしょ? そんな体じゃ、壊れちゃうわよ。ちゃんと食べなきゃね」
その言葉に、小猿の目がにじむのを、少女はそっと横目で見た。
【第三部:祖父の教え】
公園のベンチに座ると、少女は話し始めた。
蝉の声が遠く、風がわずかに木々を揺らす。
「さっきの話の続きね。実は、私はずっとあなたのこと、気になってたの。……小猿はたぶん、貧乏なんだろうなって。いつも静かで、教室でも誰かと話してるの、あんまり見たことなかったから」
小猿は肩をすくめて、うつむいた。
「でもね、戦争が終わったときは、みんな貧乏だったんだって。私のおじいちゃんが、よくそう言ってたの」
少女の声はどこか懐かしさを帯びていた。
「おじいちゃん、戦後すぐ成人しててね。食べるものもなくて、毎日空腹だったんだって。それでね――“人がお腹すいてる時が、いちばん心細い”って言ってた」
彼女は空を見上げ、語り続けた。
「だからこそ、誰かの“お腹”を満たすことを仕事にしようって思ったんだって。鉄板を買って、最初はあるもので何でも焼いて売って、少しずつ材料を仕入れて。安くて、でもちゃんと笑って帰ってもらえるような――そんな料理を作る店になったのが、今のお店」
「それが……ホルモンうどん、なんだね」
小猿がぽつりと呟いた。
少女はにこっと笑う。
「そう。最初は、少しの肉と野菜、うどんが主役。お金のない時代、みんながそれを“うまい”って笑ってくれた。おじいちゃんは、ずっとそれを喜んでた。……“空腹を笑顔に変えるのが、俺の仕事”って」
その言葉に、小猿の胸が熱くなった。
「だからね。おじいちゃんはいつも言ってたの。“困ってる人がいたら、迷わず助けなさい”って」
彼女は言葉を選びながら、小猿の目をまっすぐ見て言った。
「あなたに声をかけたのも……私、すごく勇気がいったのよ。逃げられたらどうしようって思ってた。でも、こうしてちゃんと“ありがとう”って言ってくれて、ほんとに嬉しかった。……おじいちゃんが、間違ってなかったって思えたから」
【第四部:(涙の塩気)】
気づけば、小猿の目には涙が浮かんでいた。
誰かが自分のことを見ていてくれた。
心配してくれている人が、確かにいた。
その優しさが、胸に染みすぎて、言葉にならなかった。
小猿は、こくりと一礼した。
「……ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
少女は微笑みながら、少し涙ぐんでいた。
「もう……泣かないでよ。泣かれると、私も泣いちゃうでしょ……」
そう言いながら、少女の目にも大粒の涙があふれる。
その姿を見て、小猿は思わず笑ってしまう。
「ごめん。でもさ……すごく嬉しくて、あったかくて……涙が止まらないんだ」
2人して静かに泣いていた。
ふと、小猿はそっと残っていたホルモンうどんを口に運ぶ。
ほんのり、しょっぱい味が舌に広がった。
……あれ? さっきより、塩気が増してる気がする。
「……なんか、しょっぱいや」
「え? 味、濃かった?」
「ううん。……涙が入ったからだと思う」
そう言って、照れくさそうに笑った。
「きっとこの味は、一生忘れない。
涙で塩気が増した、世界で一番優しいホルモンうどんだった」
少女もつられて笑い、2人はまた少し泣いた。
やがて、日が暮れ始めた頃、少女を連れて店に戻ると、
店先には両親が出てきていた。
小猿は深く、心からの礼をした。
「……ごちそうさまでした」
涙の跡が残る彼の顔を見て、
父も母も、何も言わず、穏やかに頷いた。
──がんばって生きているあの子を、支えてあげよう。
そう、心の中で決めたのだった。
後書き
今回のエピソードは、小猿が“人の優しさに触れ、心を揺らす”大切な場面です。
そして、涙の塩気が加わった「ホルモンうどん」は、今後も彼の人生において忘れられない味となっていきます。
次回からはいよいよ五年生。
体格や環境にも少しずつ変化が訪れます。
これからの成長にも、どうぞご期待ください。
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