第9話第九話『思いやりの技、その先にあるもの』
前書き
試合当日を目前に、道場の空気はいつもと違っていた。
静かな植木先生が、はじめて声を張る。
ざんしんをとれ。技を磨け。勝つことよりも大切なものがある。
柔道とは何か――
少年と仲間たちの胸に刻まれる、試合前夜の“言葉の稽古”。
本文
「ざんしんをとれ!」
乾いた声が道場に響いた。
植木先生が珍しく、大きな声で稽古を止めた。
「投げて終わりやない。引け。抜け。構えろ」
普段は寡黙な先生の言葉に、六年生のコウキたちが一斉に動きを正す。
その気配に、後輩たちも背筋を伸ばす。
植木先生は、正面の神棚の横に置かれた一枚の古い写真に目をやる。
「今日は、ちゃんと話をしておく」
道場が静まる。
「柔道はな……ただ勝つためにやるもんやない」
その言葉から始まった先生の話は、いつもと違っていた。
「昔、この国が大きな戦争に負けて、何もかも奪われた。兵も武士も、剣道も武道も、全部“禁止”された」
「でもな、そのなかで“柔道”だけは残されたんや」
植木先生は、写真を指さす。
「ある偉い先生が、海外の軍人に説明した。これは“攻撃のため”やない、“自分と相手を守るため”の道やって」
「だからこそ、柔道は世界に認められた。命の取り合いやない、“人としての道”やって」
「元は柔術という“殺しの技”や。相手を投げて、急所に体重を乗せて一撃で仕留める、そういう技が多かった」
「でも柔道は違う。
投げた後、引いて“ざんしん”を取る。
それは、相手を傷つけないための動作なんや」
「倒したまま抑え込んだり、巻き込んだり。正しい技じゃないことで勝とうとするな。そんな勝ち方は、意味がない」
「ちゃんとした技で投げられへんのなら、勝たなくてええ。
勝つためにやってるんちゃう。
“まっすぐ”やるために練習してるんや」
道場の空気が張りつめていた。
六年生のコウキも、五年生たちも真剣な眼差しで先生の言葉を受け止めていた。
⸻
それからの稽古は、いつも以上に厳しかった。
何度も打ち込み、何度も受け身をとり、ざんしんを意識しての稽古が続く。
見学の小猿も、その空気を全身で感じていた。
稽古の合間に言われた言葉一つひとつが、頭の中で繰り返されていた。
(投げたあとの気持ちが、大事なんだ……)
自分の技に“心”を乗せるということ。
それは、まだ試合に出られない小猿にとっても、大きな意味があった。
⸻
そして、ついにその日はやってきた。
春の風がまだ冷たい早朝、少年たちは集合場所に集まり、道着の帯を結び直す。
今日は「地区錬成大会」だ。
道場からは六年生三人が団体戦に出場。
五年生二人は補欠登録。
団体戦は無差別、体の小さい順に並び、五チームによる総当たり戦。
個人戦は、五年生が40kgで軽量・重量に、六年生が50kgで区分された階級別トーナメント。
各階級ともにエントリーは32名。
熾烈な初陣が予想されていた。
⸻
小猿は――当然、出場しない。
けれど、見学として同行を許された。
試合会場は、道場から歩いていける距離。
まだ朝の冷たい空気を感じながら、他の選手たちと一緒に、白帯のままの道着で会場に向かう。
ボロボロの道着。
小さな背丈。
一年生と間違われるような体格。
他の道場の子どもたちや保護者の目線が、時折刺さる。
でも、小猿は気にしていなかった。
むしろ、心が躍っていた。
(ここが、試合って場所なんだ……)
はじめて味わう空気。
張り詰めた道場の匂い。
緊張と期待が入り混じった、柔道場独特の静けさ。
⸻
試合前の全体練習には、小猿も参加を許された。
手のひらが汗ばみ、呼吸が少し早くなる。
けれどその場に立てていること自体が、何よりの喜びだった。
そして、開会の挨拶、注意事項、申し送りが終わると――
各道場の代表者たちが集められ、最後の言葉が送られる。
どの先生たちも気合いを入れて、選手たちに檄を飛ばす。
「絶対勝てよ」「一本取れ」「気持ちで負けるな」
しかし、植木先生は違った。
静かに、落ち着いた声で言った。
「……自他共栄や」
「自分だけが良ければいいなんて、そんな柔道は柔道やない。
思いやりを持って。相手を大切に。
勝っても、負けても、恥ずかしくない柔道をしよう」
その言葉に、子どもたちの顔が引き締まった。
⸻
小猿も、その光景を目に焼きつけていた。
自分はまだ試合には出られない。
けれど、きっといつかこの場に立つ日が来る。
そのとき、自分も“ざんしんを取れる人間”でありたいと、そう思った。
⸻
そして――いよいよ団体戦が始まろうとしていた。
後書き
試合当日。
勝ち負けではない、“柔道の心”を受け取った子どもたち。
厳しい稽古の先にある、静かな覚悟。
見守る少年の心にも、確かな火が灯る。
次回、第十話――ついに試合開始!
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