第4話

 翌朝、山田さんの顔色は土気色だった。


 朝の検温の時、山田さんの手が小刻みに震えていた。

 顔色も悪く、目の下には深いくまができていた。


「山田さん、体調はいかがですか?」


 看護師が尋ねたが、その声には心配というよりは事務的な響きがあった。


「別に……普通だよ」


 山田さんの声は掠れていた。


 看護師が去った後、山田さんは僕に小声で話しかけた。


「翔太くん……来たよ」


「え?」


「ハザマさんが来た」


 山田さんの声は震えていた。


「昨夜、何時だったかは覚えてないが……最初は足音だけ聞こえてきた。カタカタって、不自然な歩き方で」


 山田さんは布団を強く握りしめた。


「そして壁の向こうから……俺を呼び始めたんだ『ろぅいちぁう……ろぅいちぁう……』って」


 山田さんの声がかすれた。


「それって、山田さんの事ですか?」


「恐らく……最初は小さな声だった。でも段々大きくなって、最後には枕元で囁くような声で『ろぅいちぁう』って呼んだ」


 山田さんは頭を抱えた。


「それで終わりかと思ったら……また壁の向こうから同じように呼び始めるんだ。何度も何度も」


 山田さんは震える手で水を飲んだ。


「『ろぅいちぁう』って呼んだ後、急に静かになったんだ。もう帰ったのかと思った」


 山田さんは布団を強く握った。


「そしたら……『クスクス』って笑い声が聞こえてきたんだ」


 僕は息を呑んだ。


「まるで面白いことを見つけたみたいに……」


 山田さんは頭を抱えた。


「楽しんでる……」


「そうなんだ。俺が恐怖で震えてるのを見て、面白がってるんだ」


 山田さんは不安そうに僕を見た。


「どの条件なんだ?点滴の音の数だけで来たのか?それとも他の条件も満たしていたのか?」


 山田さんの目に、深い混乱があった。


    ◇


 翌朝、山田さんはほとんど眠れていないようだった。

 昼食の時、山田さんは箸を持つ手が震えて、うまく食事ができずにいた。


「山田さん……」


「翔太くん」


 山田さんは僕の手を握った。

 その手は氷のように冷たい。


「呼び方が変わったんだ」


「変わったって?」


「『うぃちろぁい』って」


 山田さんの顔は青白かった。


「新しい呼び方を試してるんだ。『うぃちろぁい……うぃちろぁい……』って何度か呼んで、今度は『ケケケケ』って笑った」


 僕は恐怖で身震いした。


「まるで飽きないように工夫してる。『ろぅいちぁう』の時は『クスクス』、『うぃちろぁい』の時は『ケケケケ』」


 山田さんは虚空を見つめた。


「それだけじゃない。しばらくすると今度は『いぁちうろぅ』って新しい呼び方を始めた。その時は『ヒヒヒ』って笑ったんだ」


 山田さんの手の震えが止まらない。


「呼び方を順番に使い分けて、それぞれに違う笑い方をする。まるで俺の名前で遊んでるみたいだった」


    ◇


 三日目の朝、山田さんは明らかに限界だった。

 体重も目に見えて減り、話すのもやっとの状態だった。

 看護師たちの山田さんに対する態度も、日に日に冷たくなっていた。


「山田さん、お薬飲みましたか?」

「食事を残さないでください。体力が落ちますよ」


 まるで機械に話しかけるような無機質な対応だった。

 一方で、僕に対する態度は相変わらず親切で、この差があまりにも露骨だった。


「昨夜は……」


 山田さんの声はかすかな囁きだった。


「呼び方が増えた。『ろぅいちぁう』『うぃちろぁい』『いぁちうろぅ』『ちろぅいあ』『うろぃちあ』……」


 山田さんの手は制御不能なほど震えていた。


「それぞれに違う笑い方をして、『クスクス』『ケケケケ』『ヒヒヒ』『フフフ』『アハハハ』……」


 山田さんの声は絶望に満ちていた。


「昨夜は、わざとらしく考え込むような間を空けてから『あ、そうだ』とでも言うように新しい呼び方を試して、一人で満足そうに笑ってた」


 僕は恐怖で言葉が出なかった。


「『フフフ……楽しい』って、満足そうに呟いてから去っていった」


 山田さんは僕を見つめた。


「あいつにとって俺は、ただの遊び道具なんだ」


    ◇


 その夜、僕は山田さんが廊下をふらつきながら歩いているのを見た。

 

 僕は心配になって追いかけた。


 山田さんは非常階段の前で立ち止まった。


「山田さん」


 僕が声をかけると、山田さんは振り返った。その表情には、深い絶望があった。


「翔太くん……俺は……」


「一緒に病室に戻りましょう」


 僕は山田さんの腕を取って、病室に連れて帰った。


「ありがとう」


 山田さんは小さく微笑んだ。


「一つだけ教えてくれ」


「何ですか?」


「あの噂の中で……どれが本当の条件だと思う?」


 山田さんは僕を見つめた。


「僕にも分かりません……」


 それが山田さんと交わした最後の会話だった。

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