第23話 禍物がいなければ

 上野公園で花の窮地を救ってくれたのは、百合塚孝臣――しかし、花の知っている「孝ちゃ」とは別人だった。


「どうしました? 以前お会いしたことが?」

「い、いえ……失礼しました。知人によく似ていたもので。他人の空似でした」


 花は赤くなって下を向いた。目の前にいる孝臣は、元の世界の彼と寸分違わない。仕立てのいいスーツを粋に着こなし、俳優のように端正で女性が放っとかない見た目をしている。でも何か、言葉にできない違和感がわずかながらあった。

 

(いきなり孝ちゃに会うなんて……! こんなことってある? 一体何の因果なの?)


 戸惑いながらもじもじする花だったが、さっきのお礼をまだ言ってないことに気がついた。


「あのっ! さっきはありがとうございました。とても助かりました」

「僕は何もしてないよ。ただ声をかけただけですよ」


 変に気取らないところも孝臣らしい。突然知らない世界に放り込まれた花は、彼のそばから離れたくないと思い、何とか引き留めようと試みた。

 

「あの……つかぬことをお聞きしますが、どうしてここにいらしたんですか? 尋ね人を探してるんですか?」

「ああ、職場の同僚が行方不明になったんだ。高木と言うんだが。どうやらここにもいないらしい。実家に帰ったんならいいんだが」


 孝ちゃの同僚の高木さんだ! ここでも知ってる人の名前が出て、花は動揺を隠せなかった。花が知っている高木は、面倒見のいい誠実な青年だ。まさか、彼の身に何かあったんじゃ……別世界の別人だと割り切ることができず、さっと血の気が引く。


「どうしました? 何か気になることでも?」

「いえ……ただ、お友達が無事であればいいなと思いまして」


 赤の他人に対して急に顔色を変える花を怪訝に映ったのだろう、孝臣は、わずかに眉をしかめた。


「大丈夫ですか? 突然の大地震でお気持ちも不安定でしょう」

「ええ……そうですの……ごめんなさい……実は、ショックが大きくて地震前の記憶がないんです」

「えっ!?」

「途方に暮れてここに来たのですが、知り合いもいなくてどうしたものかと困っていて……」

「本当に何も覚えてないんですか?」

「名前以外は。自分がどこの出身か、家族親戚に至るまでの記憶が抜けているのです」


 嘘を言ったつもりはない。突然知らない世界に放り込まれて、頼れる人がいないのは事実だ。本当は別人だとしても、元から知ってる人に助けを求めるのは自然なことだった。


(孝ちゃならこういう時放っとける人ではないはず……こちらの孝臣さんもどうかそうであって!)


 花は祈る気持ちで、孝臣の答えを待った。


「分かりました。そういうことでしたらうちにいらしてください。記憶が戻るまで滞在して結構です」

「そんな! でもいいんですか?」

「うちは広いから余った部屋ならいくらでもあります。一人増えたところで大したことではありません」

「ありがとうございます……なんとお礼を申せばよいのやら……」


 やはり孝臣は孝臣だった。安堵感で思わず熱いものがこみ上げる。世界が変わっても、花が一番求めるのは孝臣であることに変わりはなかった。


「自己紹介がまだでした。東堂花と申します」

「百合塚孝臣です。花さん、とお呼びすればいいですか?」

「ええ、私からは孝臣さんと呼ばせていただきますね」


 花さんという他人行儀な呼び方に、心がちくんとしないと言ったら嘘になる。でも目の前の彼は孝臣であって「孝ちゃ」ではないのだ。彼にとっても「花さん」であって「ハナちゃん」ではない。後に、花はそれを嫌というほど思い知らされることとなった。



 鉄道網も壊れているため、孝臣はタクシーで上野まで来たようだ。帰りも同じく二人でタクシーに乗った。


「うちの方は幸い被害は大したことなかったんだ。松濤なんだけどね」


 やはり、今の孝臣は実家住まいなのだ。松濤の実家なら花もよく知っている。


「そうなんですね、ご家族とお住まいなんですか?」

「そう。母と兄と三人暮らし。父は数年前に亡くなった。二人ともいい人だから花さんのことも快く受け入れてくれると思う」


 少年が「二つの世界は大体同じ」と言ってたのを思い出す。ここでも、摂子と光治と一緒なのだ。しかし、大きく違う点が一つあった。


(二人ともいい人、か……こちらの孝臣さんは、家族との確執はないんだな。禍物がいないとこんなに違うものなの?)


 そんなことを考えてるうちに、タクシーは百合塚家に止まった。見覚えのある二階建ての和風の邸宅。よく知ってる場所のはずなのに、初めて訪れる緊張感に包まれるのは不思議な感覚だった。


「緊張しなくていいよ。うちの家族はみんな気さくだから。国難に当たっては、困ってる人を助けるのは自然なことだし」


 気さく? 花の知ってる百合塚家とは大きく違う。花は、孝臣の後に続いて表玄関から入った。顔馴染の使用人たちが二人を出迎えるが、当然向こうは花を知らない。孝臣は、使用人に摂子を呼ぶように言った。


「孝臣遅かったわね? あら、どちらのお嬢さん?」

「上野公園で会ったんだ。何でも地震の衝撃で記憶を失ったらしい。若い女性が一人きりでは何かと不安だ。しばらくうちにいてもらってもいいかな?」

「初めまして! 東堂花と申します。突然お邪魔して申し訳ありません!」


 考えてみれば、不躾な訪問である。元の世界の摂子だったら、何処の馬の骨とも分からぬ花に疑いの眼差しを向けたに違いない。だが、目の前の摂子は、あらあらと驚きはしたが、花に同情的な態度を示した。


「どうぞどうぞ。未曾有の非常時ですもの、臣民同士助け合わなくては。大したおもてなしはできないけど、我が家と思って過ごしてくださいな」


 花は目を丸くして、摂子をまじまじと見つめた。こんな優しい人だったかしら? それどころか、知らない人間を引き取るなんて、お人好しにも程がある。


「あの……本当にいいんですか? せめて、ここにいる間は働かせてください」

「何を言ってるの? うちのお客様としてもてなしますわ。今まで心細かったでしょう。どうぞお上がりなさい」


 ここまで来ると、花はあんぐりと口を開けるしかなかった。これではまるで別人だ。信じられない気持ちで家に上がると、早速風呂の準備をしてくれた。一番湯に浸からせてくれた上、風呂から上がると食事の用意がしてあった。いくら何でもと恐縮していたところに、室内着に着替えた孝臣が顔を出したので、花は慌てて腰を浮かせた。


「あの……本当にありがとうございます。お風呂まで入らせていただいて……お礼のしようもありません」

「かしこまらないでと言ったでしょう。本当は兄もいるんだけど、今日は仕事で遅くなるそうなので先にいただきましょう」


 光治のことだと花は思ったが、ここでは知らないふりをした。


「仕事の同僚を探しに行ったとおっしゃってましたが、孝臣さんはどこにお勤めなんですか?」

「僕は内務省の社会局に勤めています。今回の地震で大手町の建物も倒壊してしまった。しばらく混乱が続きそうです」

「そんな! 一大事じゃないですか! お仕事の方は大丈夫ですか?」


 上野公園に行ったり、家でくつろいだりする暇などあるのだろうか。花はびっくりして、晩酌を始める孝臣を見つめた。


「今日は特別に休暇を貰ったんです。高木のことも心配だったし。幸い上も気を遣ってくれました。いい仲間に恵まれて幸せです」


 それはつまり、孝臣が華族の出だから配慮されたという意味ではないのか。花の知っている孝臣は、「華族」かつ「禍物祓いになれなかった弟」だったから、逆にやっかみや嘲笑の的となった。彼ががむしゃらに働いた背景にはそういった背景がある。


(普通なら、休暇を取るくらい簡単にできる立場なんだ……でも孝ちゃは家にすら帰れなかった。どれだけ辛い立場だったんだろう……)


 そんな花の心などつゆ知らず、孝臣は悠然と酒を飲みながら話をした。

 

「でも明日からは楽してはいられない。仕事に手を抜くわけにはいかないのでね」

「そうですね。高木さんも早く見つかるといいですね……」


 辛い立場にあった孝臣の側にいてくれた高木を思い出して、花はしんみりした気持ちになった。この世界の高木はまた別人ではあるが、やはり優しい人間なのだろう。どうか無事であってくれと心の中で祈った。


「会ったことのない高木の心配までしてくれてありがとう。あなたは情け深い人ですね」

「い、いえ……誰であっても無事でいてほしいだけです」


 孝臣がこちらを見る視線が熱いような気がして、花は慌てて目を逸らした。本当は知ってる人なんですなんて口が裂けても言えない。


 夕食をいただいた後、花は客間に通されて休むことになった。すでに布団が敷かれ、誰もいないのに恐縮しきりだった。


 とにかく色々あった。元の世界の孝臣と喧嘩別れして、少年の計らいでもう一つの世界に来て、地震の惨状を目の当たりにし、百合塚家に引き取られている。元の世界にいた頃がだいぶ昔のことに思える。少年からもらった懐中時計を見てみたが、月はまだ欠けた様子はなかった。


 今はまだいいが、月の形が変わってきたら、平静な気持ちのままでいられるか自信がない。


(これでいいんだろうか……私は間違ってないだろうか……)


 考えることは山ほどあったが、そろそろ体力の限界に来ていた。ものの五分としないうちに、花はすっかり寝入っていた。


 翌朝起きたのは、太陽が高く上った頃、時計を見ると九時を指しておりあわてて飛び起きた。厄介になってる身で寝坊しては恥ずかしい。慌てて身支度を整えて家族に挨拶に向かう。


「あのっ、おはようございます! 遅くなってしまいました!」

「あらおはよう。花さんと呼んでもいいかしら? 孝臣はすでに仕事に行ったのよ。さっき、入れ違いで兄の光治が戻ってきたの。光治にはまだ会ってないわよね?」


 光治、と聞いて一気に緊張する。元の世界で最後に見た光治は、大怪我をしてベッドに横たわっていた。その痛ましいイメージのままだったから焦ったのだが――。


「孝臣が拾ってきた子猫とは君のことかい?」


 突然背後から声をかけられて花は飛び上がった。いや違う。花の知ってる光治は、こんな軽い言葉を吐く人物ではない。あまりの落差に腰を抜かすほど驚いた。


「こらっ! 光治! 何てことを言うの!」

「ごめんごめん。冗談だってば」


 目の前の光治は朗らかに笑ってから、表情を改めて花に向き直る。表情豊かな光治が新鮮すぎて、花の頭は混乱した。


「東堂花さん、でしたっけ? 孝臣の兄の光治と言います。今回は大変な思いをされましたね。ここを我が家だと思ってゆっくりして行ってください」


 情に厚いのは同じだが、それ以外はまるで別人だ。孝臣も摂子も光治も――。一体どうなっているのだろうか。


(もしかして、禍物の存在はそれだけ百合塚家を苦しめていたってこと? 禍物がいなければ、孝ちゃだけでなく、奥様も光治さんも、自由に伸び伸びと生きられた? 何てことなの……)


 禍物は帝都を攻撃するだけじゃない。それに関わる人々の心までも翻弄していたのだ。あまりにむごい運命にやるせなくなって、花は必死で表情を取り繕った。

 

 

 

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