うわさの猫さま

伏谷洞爺

うわさの猫さま

江戸は下町の片隅、浅草橋の外れに古びた長屋が十軒ほど並んでいた。朝の陽ざしが低く差し込む通りには、履き古した下駄の音、行商人の呼び声、犬の遠吠え、そして小鳥のさえずりが入り混じり、いつも賑やかだった。長屋の住人たちは顔見知り同士で、助け合い、時には小さな言い争いをしながら日々を暮らしていた。


大家の源右衛門は六十を過ぎた小柄な男で、少し腰が曲がり気味だが、気さくで人情深かった。朝早くから長屋を巡り、戸締まりや火の元を確認するのが日課である。


「おはようございます、源さん」

「おう、おはよう、タケさん。今日も元気そうで何よりじゃ」


八百屋の竹吉は笑顔で応える。長屋の住人たちは竹吉の野菜を信頼し、彼の小言も愛嬌のように受け止めていた。


長屋には、年頃の娘およね、手先の器用な左平、酒好きの権八、いつも寝不足気味の小僧まる吉、そして猫さまに目を付けた子どもたち――十人あまりが暮らしていた。およねは毎朝長屋の掃除をし、子どもたちに読み聞かせもする世話好きの娘だ。左平は編み物や木工が得意で、細かい作業で町の評判になっている。権八は酔うと大声で歌い始めるが、酒の肴の工夫だけは町一番であった。まる吉は夜更かしばかりだが、どこか憎めない小僧だった。


ある朝、長屋の子どもたちの間で妙な噂が立った。

「ねえ、聞いた? 縁側の猫が夜になると金を数えるんだって!」

「そんなわけあるかい。猫が金を?」


子どもたちは目を輝かせ、半信半疑ながら毎晩縁側を覗くようになった。やがてその噂は大人たちの耳にも届き、住人たちの間で話題になった。



その黒猫は、長屋の最も古い棟の縁側に座っていた。漆黒の毛並みは夜の闇に紛れるほど深く、目だけが夜光のように光っていた。人々は「猫さま」と呼び、恐れと好奇心を抱いた。


子どもたちは猫の周りで遊び、時折撫でようと手を伸ばす。しかし猫はじっと座ったままで、警戒するようでもあり、どこか悟ったような目をしていた。


「ほんとうに金を数えるのか?」

「うちの菊さん、夜中に金をつまんでいるんじゃ……」


住人の噂は日増しに大きくなり、猫さまはいつしか長屋の顔となった。



縁側を囲むと、住人たちは日常の愚痴や喜びを語り合うようになった。

「今日、八百屋で安い大根を見つけたんだ」

「おお、それは良いこと。猫さまも喜ぶだろう」


猫はまるで話を聞いているかのように、じっと座布団の上で微動だにしなかった。


ある日、隣の家で火の手が上がる小さな騒ぎがあった。住人たちは協力して消火し、猫はその場に落ち着いて座っていた。

「ほら、猫さま、君は何もしていないが、皆の心を見守っているんだな」


その夜、縁側で住人たちは小さな宴を開いた。権八が酒を振る舞い、左平が木製の器で酒を注ぎ、およねは茶菓子を並べる。まる吉はおつまみの盗み食いをして注意されながらも、猫さまの前に座り込み、じっと見つめていた。猫は時折尾を揺らし、まるで宴を楽しむかのように振る舞った。



源右衛門はある夜、意を決して縁側に座った。

「ほれ、猫よ。お前、金を数えるのか?」


猫はゆっくりと近づき、源右衛門の前に小さな巻物を差し出した。源右衛門は手に取り、巻物を開いた。


「金は数えられぬ。されど、人の心を見よ」


源右衛門は目を丸くした。翌朝、長屋の者たちに話すと、みな口々に笑った。

「猫が心を説くとは、面白いではないか」



それからというもの、長屋では夜になると、猫の周りに住人が集まり、日々の愚痴や嬉しいことを話すのが習慣になった。猫は金を数えることはできないが、住人たちは猫の存在を通して互いの心の動きに気づくようになった。


ある日、まる吉が川で遊んでいると、足を滑らせて流されそうになった。権八が即座に飛び込み、左平や竹吉も手を貸して無事に救出した。猫さまは縁側で一部始終を見守っていたかのように、微動だにせず座っていた。



長屋ではさらに小さな事件が起きた。ある晩、子どもたちが隣家の壊れかけた瓦屋根で遊んでいると、瓦が崩れ落ちそうになった。およねが急いで駆けつけ、竹吉と協力して瓦を固定した。猫さまはその騒ぎを縁側から静かに眺めていたが、時折小さく鳴いて注意を促すかのようだった。



春になると、長屋の庭先に菜の花が咲き、通りの小川には鯉が泳ぎ始めた。住人たちは猫さまと共に庭を掃き、草を刈り、春の香りを楽しんだ。左平は小さな鯉の餌やり用の籠を作り、まる吉は猫さまに餌を差し出すとき、つい声をかけて話しかけた。


「ほら、猫さま、鯉も元気じゃ」


猫はその声に反応するように目を細め、尾を揺らした。住人たちは顔を見合わせて笑った。



夏には子どもたちが縁側で風鈴を鳴らし、夕涼みを楽しんだ。猫さまは風鈴の音を気にするでもなく、ただ縁側に座って夜風に当たっていた。ある夜、雷が鳴り響き、雨が激しく降ると、住人たちは猫を抱き、縁側の隅に布団を敷いて一夜を共にした。猫さまは驚くこともなく、安心した様子で丸くなって眠った。



秋になると、長屋の住人たちは収穫を祝った。竹吉が買ってきた栗を煮ると、権八は酒を振る舞い、左平は木製の器を並べた。およねは子どもたちに栗の剥き方を教え、まる吉は猫さまに小さな栗をそっと置いた。猫は匂いを嗅いで丸く座り、しばらく眺めたあと、静かに丸くなった。


住人たちはこの日も、猫さまを中心に和やかな笑い声を響かせた。猫さまは金を数えることはできないが、心を映す鏡として長屋を温かく包み込んでいた。



冬のある朝、雪がちらつく中、縁側の猫はいつものように座布団の上で丸くなっていた。住人たちは暖を取りながら、昨夜の話やこれからの暮らしを語った。およねは子どもたちに編み物の手ほどきをし、左平は小さな木製の人形を作り、権八は酒を振る舞いながら昔話をした。まる吉は猫さまの前に座り、じっと見つめている。


「お前さんがいるだけで、長屋は丸くなるんじゃな」

源右衛門がつぶやくと、住人たちは笑い、猫さまも静かに鳴いた。


そして江戸の下町、浅草橋の小さな長屋には、今日も猫さまと人々の静かで温かな日常が流れていくのだった。

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