百年後の再会

 暗い、昏い、灰色の更に向こう側。

 漆黒。そう呼ばれた色の本来の在り方だった表現が、この世界にはふさわしい言葉だろう。

 どこまでも、見渡す限りの何もない黒が、ひたすらに広がる空間。

 もはや空間と呼べるのかもよく分からない場所だったが、しゃがんでこの絶望的な情景を目にしないよう、屈む体勢を落ち着いて取れている分には、足場が固定されているのだろう。

 私はただそこにあるだけの床をそわりと一撫でする。

 何も感じない。当然のことだ。

 万物は色味と、誰かが創造したという付加価値があってはじめて生きていると言えるのだから。

 では一体、この果てしない無の場所は誰が創造したのだろうか。

 触れても何も感じない辺り、おそらく心無い者か、それとも私のように、常識では考えらない立場か境遇を持っているのかもしれない。

 私はそんなどうでもいい空想にしばらく耽ると、ゆったりと暗闇の更に瞼の奥――深淵へと意識を落とした。

 もう二度と、目覚めることはないのだろう。

 瞳を開けたところで、瞼の裏の景色は変わらない。

 この世界は――何も変えられない。

 この世界は――何も変わらない。


 ◇


 背後から立ち上る光の柱。

 それはまたたく間に聖堂の天井までその背丈を伸ばすと、一つの大きな扉のようなものへと形を整えていく。


 血の広がる口内と、痛む体の節々が気になる中、背後の眩い昼間のような輝きは明るさを増していった。


「なんだ?」


 大男の声がする。

 どうやらこの現象を起こしたのはあいつではないようだ。


 閃光が部屋に満ちる中、私はその巨大な扉へと目を向ける。


 中から――三本指の鋭利で大きな爪が、その淵をがっしりと握る。

 そのまま、爪の主がその体躯を扉から覗かせた。


 上半身は美しい純白の鱗で覆われ、雪の景色に溶け込めば息を吞む美しさを醸し出す雰囲気を漂わせる。その言葉の答え合わせと言わんばかりに、体表からはパラパラと輝く透明の結晶が降り注いでいた。


 それは体、翼からと、世界そのものを浄化せんとばかりの美しさの白い光を放つ。

 私はその姿に思わず見惚れ、目の前の邪神がどれだけ禍々しい邪気を放っていようと、この――


 巨大な飛竜を目の前にしては、どんな偉大な神ですら顔負けするのは至極必然の迫力と荘厳さがあった。


「私、名前を――」


 その名は以前、師匠から耳にしたあの子の名前。


 庭園での会話の翌日、師匠は姿を消した。

 その後、ドルムアに渡って生活を初めて研究に励むも、諜報ギルドの目が怖くなって身の危険を感じた。


 翼を立派に生やした頃、安全のためにゼオラシア北東のとある人物の元へとその子を預けていた。


 あれからおよそ百年余り。

 一体どのような手段を使って現れたのか。


 知る由も手段も皆無だが、これだけははっきりと言える。


 『その名を呼びなさい』


 師匠の言葉を信じた結果がこの成長っぷりとは。


 私はゆっくりと上体を起こす。


 巨体を誇る白い竜が、私を静かに見つめていた。


 手を伸ばすと、竜は私の手に吸い寄せられるように顔を近づけてくる。

 ひんやりとした感触が伝わる。


 百年近く待たせてしまった申し訳なさが、この子の鼻を撫でた途端に一気に胸へと押し寄せてくる。


 今もあの極寒の大地に、この子は生きているのだろうか。諜報ギルドから命を守るため、大地の果てへと隠居した私を恨んではいないだろうか。


 私は百年の孤独と寂しさを掬い上げるように、この子の顔を両手で抱きしめる。

 竜は優しく瞳を閉じ、私の抱擁に安らぎを感じているようだった。


「ああ、ディアン――ようやく会えました……師匠」


 師からのメッセージを受け取り、私は再会に身も心も癒されるようだった。


 許してほしいとは言わない。


 それはこれから、ゆっくりと補っていくつもりだ。


 私は己の空白を埋めると、背後に立つ金の瞳の少女を見た。

 隣にはこの子が、ディアンが支えてくれる。


 私たちは隣同士で百年ぶりに並び立った。


 ◇


「なぜだ!」


 大男が叫ぶ。

 彼が驚くのも無理はない。


 この世界におけるモンスターの種族、その頂点に君臨する種族、竜。


 彼らを生命の系統樹に当てはめると、竜の種類は八つに分かれている。

 その種族名は長ったらしく、覚えづらいため、魔法学で彼らの落とす素材を使う実験などがあれば頭を抱えたものだ。


 また彼らは人間と契約を交わすこともできる。

 人間と契りを結んだ竜はそこから頭角を現し、更なる強さを得るという。


 そんな超常とも言える幻の存在を、私の師匠は大昔に卵として手に入れていたようだ。


 一体どこから拾ってきたのかは大体想像つくが、裏の世界にはいい思い出があまりないため、たとえ想像であろうと詮索はやめておくことにしておいた。


「その竜が一体何かは知らんが……よもや邪神と渡り合えるなどと思ってはいまいな?」


 大男は戸惑いを隠せずにいた。


 手元の書物を捲る手が震えている。

 どうやらディアンの存在に怯えているようだったが、やはり邪神というのは大したものなのだろう。


 詳細は知らないが、私のディアンは負けない。

 それに――彼女を救わなければならない。


 私は隣にいるディアンの顔へと手で触れる。


「力を貸して。ディアン」


 そう声に出す。

 すると、ディアンはそれに応えるように、私の背広を口でつまみ、易々と持ち上げる。


「わわわ……!」


 まるで現実のクレーン車に持ち上げられているかのような体感と高度を味わう。


 そのままひょいと、ディアンの背中へと乗る。


 背に乗った私に顔を向ける。


 優しい瞳に私を映し、ディアンは再び正面を向いた。


 そのまま自らの顎を天井へと向ける。


 口元から、青い炎が溢れんばかりに迸った。

 ぼう、という炎が揺らめく音が鳴り、地面が青い炎で満たされていく。


 やがて炎は私のいた地面をあっという間に蹂躙した。聖堂全体が青く染め上がっていく。


 その炎の中には、青い火の輝きに溶けていく少女の姿があった。

 この炎は果たして安全なのか。


 旧時代とはいえ、ほとんどの魔法を熟知している私でさえ、このような魔法は初めて目にする。


 青く焼き尽くされた聖堂の床を見る。


 大男の姿はない。どうやら近くの扉から炎の照射と共に逃げたようだ。


 一方、少女は私たちの足元に転がっている。


 私は思わず背中から降り、彼女の安否を確認するべく少女の元へ駆け出した。

 ディアンのこの炎は一体何なのかは分からない。


 だが私はディアンを信じるべきだと、あの言葉を告げた瞬間にそう思えたのだ。

 私は少女を抱きかかえ、ぼそぼそと寝巻の上でくすぶる青い炎の残滓を払う。


 不思議と炎は熱くない。

 むしろ炎とは名ばかりの、不思議な温かさを感じる。


 まるで春の日差しに干した布団を抱きしめた時のような温もりだった。

 以前までの禍々しい覇気のようなものは、すでに少女から消えていた。


 最初にベッドで触れた時に感じた温もりだけが、彼女の中にはあった。

 しかし、依然として少女は瞳を開かない。


 私は名前も知らない――ゆうじんと瓜二つの少女の前髪をかき分けながら、彼女の頬を優しく撫でた。


 そのまま優しく床に寝かせると、ディアンの方を見る。


「ディアン」


 私は囁くように名前を呼ぶ。


 白い竜は頭を寄越し、私へと頬釣りする。


 ひんやりとするが、それとは裏腹に彼の頬は温かった。

 私にはそれがディアンの溢れ出る優しさのように思えた。


「この子を、ワイルドハントのみんなのところに連れていって」


 私は撫でながらディアンに告げる。


 そうして少女の背広を先ほどの私のように噛みながら背中へと乗せる。


 私には最後の仕事が残っていた。

 あの――閉じこもった世界から抜け出すための、最後の仕事が。


 ディアンは名残惜しそうに私の方へと顔を向けている。

 私は彼に微笑み返し、手を振りながら白い竜のいる聖堂を後にした。

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