それは戦の前夜災

 何もしない人がいた。

 その人はいつも、自分の周りが白くボヤけて見えていた。

 外には何もない。

 自分の周りにある空間こそが世界のすべてだと、その人は思っていた。

 それから数十年の時が流れた。

 何もしない人は――何もできない人になっていた。

 周囲へと手を伸ばす。

 世界のすべてだと思っていた自分だけの空間スペースは、たった一つのベッドへと凝縮されていた。

 骨と皮だけになった震える五指で、隣の机に置いてある手鏡を手に取る。

 そこには何もしてこなかった人がいた。

 今更世界の外に出ようという思考には至りたくない。

 何もすることができなくなった人は手鏡を机に裏向きでそっと戻すと、自分の世界へと帰っていった。


 ◇


 私は昇降機で塔の階下へと降りていく。


 ちん、と音がして正面の扉が開くと、籠っていた外の声が鮮明に聞こえてくる。


 やはり百年という時間はあらゆることが変化してしまうようだと、私は目の前の面子を見て、時の流れの残酷さをしみじみと肌で感じた。


 そこには、横並びで立ち尽くす騎士制服に身を包んだ六人の姿がある。

 肩に担いだ大剣を地面へと深く突き刺す長身の大男。そしてその周りに銀の甲冑と鎧、兜へと身を包む騎士たち。


 どうやらこの場所に穴をあけたのは真ん中の大男らしい。


「まさか、こうも早く見つかってしまうとは思わなかったよ。デイブレイク騎士団。最悪の再会だ」


「禁忌違反者、レイカ・アイザワ。お前の罪を王立魔法協会が見逃すとでも思ったか?」


 大剣を握る大男が切り出す。

 やはりバレていた。


 書斎に置いてきた書物――痛々しい研究ノート――と私の存在を許さない者たちがいつまで経っても来ないため、あっけなく見逃されたものだとばかり思っていたが。


「禁忌違反者には制裁を与える。それが王立魔法協会の掟であり絶対だ」


 大男が大剣を地面から引き抜き、担ぐ。それを合図にチィィィと、刃を鞘から抜き去る音が、大男の周囲で立て続けに鳴り――携えた剣を構える。


「殺せ」


 大男の声を皮切りに、六人の騎士が一斉にかかる。


 騎士たちの足元にはぶぅんと、白みがかったオーラ。どうやら速力上昇の支援魔法の使い手がいるようだ。


 一気に背後、真横、正面を塞がれる。


 退路は――ない。殺意が、全方位から迫った。


 私は静かに唱えていた詠唱を終え、手を地面へとかざす。


「我が内なる聖炎よ、敵を討て。”灼熱炎壁”!」


 眼前へと刃の群れが襲来する。


 だがそれらがことごとく軌道を逸らすと、騎士たちは一斉に後退する。


 六人のうち五人は退いたが、一人は勢いを止めることができなかった。


 そのまま炎の壁へと阻まれ、私の陣地で悲鳴を上げ、苦しみ悶える。


 人間の肌が焼ける臭いを久しぶりに直近で嗅いだ気がした。


 こんがりと焼けた騎士の一人の亡骸など意にも介さず、私の周囲には炎の壁が悠々と立ちふさがっていた。


 火属性中級防御魔法、”灼熱炎壁しょうねつえんへき”。

 火属性の魔力を壁として生成し、近づく者、通り抜けようとする者をすべて焼き尽くす。


 そこに風属性の検問所を併設し、展開する。


 こうすることで何が起きるのか。

 私の周囲へと燃え立つ炎の壁が、風の力を借りて通常よりも高火力かつ強烈な熱風を辺りに撒き散らす。


 これにより、風圧プラス炎の壁という二重の障壁が敵の行く手を阻むのだ。

 私は両手を見やる。

 体からふつふつと湧き上がる久々の闘気に胸躍らせながら、前方へと視線を移した。


 クイクイと、相手を煽るように四本指を折る。


 挑発とはこうやるのだ、後輩にして宿敵諸君。


「後悔しても知らんぞ」


 大男以外が跳躍の構えを再び取る。


 来る。


 私は久々の戦いの高揚感を肌で感じ、展開する壁の中で新たな詠唱を始めた。


 この時、私は完全に油断していた。

 百年前の――アイツがいないデイブレイクなど砂上の楼閣だ、と。

 

 ◇


 騎士たちは詠唱を始める。


 どうやら炎の前では無力だと悟ったのか、彼らの全身を青色の輪郭が巡っていく。


「水の鎧よ、我らを潤す盾となれ。”水鎧潤装”!」


 その詠唱の響きを久々に聞いた気がした。


 水属性中級支援魔法、”水鎧潤装すいがいじゅんそう”。


 体を水属性の魔力で覆うことで、火属性カット率を大幅に上昇させるものだ。

 このカット率は魔法の等級と比例することから、長らく魔法使いの間で重宝されてきた。


 だが所詮は中級。


 この炎の壁を中和できるとはいえ、そこから先は裸の王様同然だ。


 敵は一斉に、展開する”灼熱炎壁”へと斬り込んでくる。


 それらの足元から花たちが散り、空へと舞い上がった。


 まず盾へと斬り込んできたのは、先ほどの六人の騎士たち。


 彼らは帯刀していた剣をしまうと、背中へと装備していた得物を手に取り、炎と風が織りなす二重の障壁へと無謀にも突っ込んでくる。


 私はそれら武器へと魔力を集中させる。


 騎士たちが炎の壁へと得物を突き出した。


「「はああああ!」」


 無駄なことだった。


 だが私はただで教訓を与えるつもりはない。


 集中させた魔力を解き放つと、彼らの武器がふと消失した。


 私は右手を依然として握りしめている。


 この手が何を意味しているのか、彼らは知るまい。


 騎士たちは周囲を警戒。


 腰の剣を抜き、再び私を斬るタイミングをうかがっている。


 私は握り込んだ掌をぱっと開いた。


 中で渦巻いていた何かが放たれたような感覚を掌に感じる。


 騎士たちが詠唱している間、すでに私も同じように済ませておいたのだ。


 最後の一句を唱える。


「魂宿りて、この場を蹂躙せよ。剣城槍蓋!」


 声を皮切りに、頭上と地面からいくつもの光の円が展開。


 その円の中央から柱――無数の剣と無数の槍が勢いよく突き出し、天と地上から降り注いだ。


 混沌属性上級魔法、”剣城槍蓋けんじょうそうがい”。


 私が作り出した上級魔法の一つ。

 違う属性同士が合わさることで未知の反応を示す混沌属性の魔法。

 金属を触媒とする魔法であり、火、水、土属性の魔力を掌へと収束。そこから新たな刃を錬成し、魔力で複製。周囲の空間から私の魔力の続く限り、剣と槍の雨を延々降らせる。


 血しぶきが舞い上がる。


 一度の刺突では止まらず、無数の剣と無数の槍は騎士たちの肉体を蹂躙していく。


「ぐあああああ!」


 私は無情にも欠伸あくびをしながらその光景を眺め、事が終わるのを待つ。


 やがて魔力の放出が終わると、剣と槍に溢れた光景が周囲には広がっていた。


 刃は彼らの血で濡れ、世界に静寂が訪れる。


「終わりか?」


 静かなはずの世界で、ふと声がする。


 灼熱炎壁は消えており、私を守る壁はない。


 すぐさま声のする方を見やる。


 そこには騎士たちの頭目――大剣を担いだ大男が立っていた。


 先ほど部下たちの散る姿を見て動じない辺り、思いやりのない奴か。そもそも信頼関係すら大したことのない無能な指揮官か。

 どちらかで私の意見は割れたが、そんなことを気にする必要などないため、即座に頭を切り替える。


「大したことないな、魔法使い」


 私は臨戦態勢を取るべく、右手に魔力を集中させる。


 手の中にふわりとした感触が乗ると、次第にそれは輪郭を帯びて私の手の中へと収まった。


 混沌属性中級攻撃魔法、”剣現けんげん”。


 手の中へと火、水、土の混沌属性を集約させて練り上げる魔法。

 先ほどの上級魔法が周囲の空間に対してやった事とは逆で、こっちはそれを凝縮して限りなくコンパクトにした応用編。


 大男が大剣を振り下ろす。


 私は両手で魔法剣を構えると、相手の一撃を迎え撃つ。


 足元の地面に亀裂が走った。とんでもない力の押収が全身を駆け巡る。


 剣現けんげんと同時に、全身を覆う中級支援魔法”魔鎧まがい”が悲鳴を上げていた。


「見せてやろう」


 その発言と共に、相手の大剣が輝きを増していく。


 以前のような無機質の塊だった刀身は、虹色の閃光を放ち始めた。


 私の握る魔法剣が――突如として瓦解する。


 形状を保てなくなり、魔力が霧散。


 私は困惑を隠せずにいると、目の前を銀の一閃が走った。


 私の体に強烈な痛覚が迸る。


 最初は全身を稲妻で貫かれたような熱があった。


 しばらくすると、久々に自身の生命のあかいろが、勢いよく胸元から噴き出す光景を目にする。

 私は背中から崩れ落ち、空っぽの空を見上げた。


 何もかもが白濁し、意識が飛びそうになる。


 地面に触れる。


 赤い染みが――私の手を真っ赤に染めていた。


 ◇


 一体何が起こったのか。


 状況の説明がつかずとも、体が悲鳴をあげていることだけはわかる。


 私は無我夢中で、斬りつけられて悲惨な状態の体を修復すべく、治療魔法を自らの体にかける。


 だが、それは痛みを和らげてはくれなかった。


 いや、できないのだ。


 私は傷と痛覚から意識を逸らすと、体内の魔力炉心――体の中で魔力を生成する工場のようなもの――へと意識を集中させる。


 魔力が一切感じられない。


 体からは一切の力が抜けていた。

 まるで自分が魔法使いであることを忘れてしまったような気分へと陥る。


「そこで昼寝でもしていろ」


 大男の声がする。

 追撃が来ると予測し、頭をわずかに起こした。


 だが大剣の一撃が迫ることはなく、そのまま私の隣をすさまじい斬撃の波が通過する。


 背後の塔が瓦解した。


 塔の表面の石材が大胆に崩れると、瓦礫の中に見覚えのある少女が一人、地上へと落下してくる。


「駄目!」


 私は精一杯叫んだ。

 しかし体は言うことを聞かない。


 これ以上動けば死ぬ。

 そう訴えること以外、今のこの体には何もできることがなかった。


 少女が地面へと落ちる。

 それを大男が捕らえ、軽々と肩に担ぐ。


「貰っていくぞ。”神の器”」


 そう私に告げ、大男は剣と槍の大地を颯爽と歩き去っていった。


「待……て」


 私は仰向けの姿勢から無理やり体を起こし、大男の後を追うべく地面を這う。

 次第に目眩と強い眠気が襲ってくる。


 私は本能で、動いては駄目だと悟った。


 情けないと思いながらもその場に倒れ、三重に歪む視界を前方へと向ける。

 震えながら手を伸ばす。


 私は星空が消えていく様を――ただ眺めていることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る