秩序なき世界への侵攻
ここがどこなのか分からない。
目の前には一冊の本がポツンと置かれている。
その角ばった黒い書物を手に取る。
表紙にはこう書かれていた。
『読み終わると死ぬ』
別に――今死んでいるか生きているかも分からない自分には、どうでもいい警告だった。
もしかしたらこの本のタイトルかもしれない。
私は臆さず本の表紙を開く。
なんてすばらしい語彙の数々。
本の見せる美しくも壮大な世界に、私は心から感銘を受けた。
あっという間の五百ページ。
私は静かに本を閉じる。
途端、天地が一瞬にしてひっくり返った。
そうか。死んだのか。
本のタイトルは本当だった。
私は来世での教訓を得ると、ゴロンと大地の触感を愛しく感じた。
忠告は――聞き入れるべきだ、と。
◇
「ぐあーっ! もうダメだ~! 全然解けやしない。解ける前に私の脳みそが溶けてゲル状になっちゃいそう……」
私は懐かしくも難解な本をいつものようにバシバシと叩く。
この体に宿る、私を生かし続ける不老の魔法、『
その魔法の発見と行使は、世界の禁に触れる絶対法則。
この事実を知る者は、世界でも指の本数に収まりきるほどで、身内話程度の影響範囲で収まっている。ということになっているのだが、実際はどうなのかは検討もつかない。
何しろそれは百年前、私が地上のゼオラシア大陸からここ、アビスエンドの深奥にやってくるまでの認知度だ。
広く大陸に知られれば、上に戻った際には私の首は皮すら痕跡を残さないだろう。
本日も進展なしと本に栞をはさみ、書斎の部屋を閉じる。
寝室には相変わらず少女がスースーと寝息を立てながら眠り続けていた。
ネムリの病。
歴史的に何度も世界を混乱と狂気に陥れた流行り病。
その症状はシンプル。ただひたすら眠り続けるというもの。
どんな外的要因――おそらく死も――であろうと、病に罹った者が起きることは決してない。
ベッドへと忍び込み、私は少女の隣へと這い寄った。
「おやすみなさい……アルビーに似た誰かさん」
ここにはいない
私のところへ来たのはおそらく偶然ではない。
彼女が助けを求めている。
この子を見た時、そんな気がした。
であれば、親友として助けるのは当然のことだ。
それにこの少女がいなければ、あの日ベッドの上で固めた『何もしない日々とおさらばする』という決意表明ですら地盤を保てずに瓦解し、今頃は何もしない日々に逆戻りだっただろう。
三日坊主の
「おやすみなさい」
私は少女に小さくそう告げると、彼女と同じ夢が見れるよう願い、自然と重くなる瞼に身も心も任せて夢の世界へと静かに飲まれていった。
◇
今日も今日とて解析が始まる。
いつになったら禁忌の研究から逃れられるのか。
そんなことは本の内容を理解できるまで続くのだと自分に言い聞かせ、今日も書斎の机へと腰を下ろす。
本を開き、ペラペラと過去の自分という、亡国の失われた古代言語のような書物の解読に取り掛かる。
ふと、私は本の中身に違和感を覚えた。
奇妙な欠落や意味不明な違和感、という悪い方の意味ではない。
明らかに昨日とはまったく見え方が違うのだ。
よく分からない奇跡のような光明に縋りつつも、心の中でガッツポーズを決め、私は本の中身を読み進めていく。
魔法学と同じだ。
一つの魔法――例えば火属性の低級呪文――を修めれば、数珠つなぎに次の上位魔法へと挑戦する。
その理由は明確だった。
前座となる魔法の感覚を引き延ばしてあげるだけでいい。
コツを掴めば世界が広がる。
あっさりとした理由だが、私の経験上この法則に従って間違えたことは一度としてない。
そして直感が言っていた。
あの子を助けられる。
私はこの本の内容が解けるという喜び以上に、あの子の生還を望んでいた。
――もう少し。もう少しで。
ページを捲る手が止まらない。
一つの言葉を理解できれば、文字や文章のノリと雰囲気、当時の私が書きそうな痛々しい魔法的表現や独自言語が思い浮かぶ。
胸がツンと痛くなる言葉も多々あったが、それは若気の至りということで目を瞑ることにした。
――分かる。
世界が広がる。
私は書斎の本に釘付けになっていた。
ページ数が間もなく五百を切ろうかと言った瞬間だった。
それは突如として飛来した。
窓の外の庭園で、花弁が舞っている。
土煙が吸光窓に照らされてキラキラと輝いている。
まるで舞台劇の演出のようだと、その煙と花弁の光景を視界に映しながらふと思う。
その煙の中から、複数人の人影が隊列を組んで現れた。
彼らの規律を重んじるような金属の甲冑が、朝日で銀色に照らされていた。
遠目からでも分かる、その鎧と腰に帯刀した剣の鞘。頭部を覆い隠す兜は、彼らがどこかの国に属する騎士であることを物語っていた。
先頭に立つ人物が背部のマントを翻す。
鎧の胸の部分にはとある紋章――二本の錫杖と中央に星のマーク――が刻印されていた。
忘れもしない。
学生時代からの因縁に端を発し、それ以降も私の行く先々で彼らとの接触はあったが、おそらくこの世界で生を得たことが間違いだったと誤認させられるほど、死への恐怖心をあおる存在が今、私のいる塔の眼前に姿を見せていた。
王立魔法協会、
私が最も相手にしたくない、協会がほこる最強最悪の犬畜生共である。
◇
鍾乳洞が天井から水分とともに生い茂る、薄暗寒い洞窟を俺たちは隊列を組んで歩いていた。
先頭に俺ことウルフェン・グレイスロート。
後方には俺の愉快痛快な仲間たちが控えている。
「急げ。いつここの番犬が出てもおかしくない。それでもワイルドハントかこのノロマども」
「でもさでもさ団長! アタシたち確かに実態はないよ? でもこの深さと敵の多さはやっぱ異常だって! いや、すでに千年近くワイルドハントにいるんだけどさ」
調子のいい奇天烈な声を上げている、最後尾に立つ団員はかぶったマントの内側で騒ぐ。お前の十倍古株の団員もいるから今のうちに反省しとけ。
「同感だ。これ以上この洞窟にとどまっていると鳥肌が止まない。低体温症は避けねば。不健康なのはすこぶる不愉快だ」
マント越しにブルブルと肩を震わせる団員。
さっき体にしこたま保温用の護符貼ってたのを俺は見逃してないからな。
「団長」
俺の背後に続く団員が、背中越しに囁いた。
コイツが俺を呼んだということは、接敵の合図であることを俺は認識している。それこそ、俺すら見逃す微小な魔力の流れでさえ、コイツは感じ取ることができる。
探知魔法が団員の中で俺に告ぐ絶級の練度を誇るのと、こういったモンスターがうじゃうじゃいる地域に連れてきて正解だったと渋々思う。
「数は?」
「六。
「オーケー。次の座標は?」
最後の確認を取るべく、三列目に立つ団員――自分を認識させるための髭をなぜか実体化させている――に声をかける。
「吾輩の推測によると、おそらくじゃが団長――これから吾輩たちが遭遇するやつが、その座標から漏れた魔力に充てられた番人じゃな」
しわがれた声で髭をもしゃもしゃといじりながら答える。
これだから年寄りは――と言いたいところだが、古株には稀に俺でも分からない感覚のやつがいるから侮れない。
「お前ら覚悟決めろ。シエラ叩き起こす手段はすぐそこだ!」
正面を向く。
そこには巨大な影が複数体、岩陰からその頭と赤く輝く双眸をぬっと突き出していた。
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