第27話 離国、棄国

 小倉の港には、大小数隻の船が来ていた。

 「大発(日本陸軍上陸用舟艇)だ、南九州方面に行く奴は、この大発だ」

という声が聞こえた。

 富子達が行くべき場所は、南九州ではない。玄界灘を渡った朝鮮である。この大発の他にも数隻の船が、大日本帝国の各地方に向かうものらしい。

 富子は人々の整理にあたっている<憲兵>の白い腕章をした憲兵に聞いた。

 「すみません、朝鮮に行ける船はないでしょうか」

 「ん?朝鮮?何のことだ?」

 憲兵は、富子を睨みつけた。既に外国となっている朝鮮にわたろうとすることに不審を抱いたのであろう。昨日の刑事と同じであった。

 「貴様、朝鮮に何の用だ?」

 「この子とこの猫以外、家も財産も昨日、みんななくした朝鮮人なんです」

 「何?朝鮮人は、朝鮮独立の際、多くが故郷に帰ったと聞いているが」

 「はい、ただ、私の一家は、生活の拠点が大日本帝国内にあったうえに、私も日本で生まれて育ったんで、朝鮮の言葉ができない不安もあって、一家で帝国内にとどまっていたんです」

 不安げに話す富子であった。不安気な表情は、現実の感情の反映でもあった。富子は今、脱出にあたっての最後の関門にあると言っても良かった。

 その憲兵の近くに、別の憲兵が来た。

 「どうした?」

 彼は、その憲兵の上官らしい。

 「はっ、この女は、在日の朝鮮人とのことですが」

 上官の憲兵が改めて、富子に問うた。

 「名は?」

 「はい、私は、キン・タエコ、この子はキン・サチオです」

 幸雄には、自分に従うように厳しく注意した富子であったものの、幸雄が真実を口にすれば、まさに、

 <一巻の終わり>

である。富子は二重の不安と恐怖に襲われた。

 「身分を証明できるものは?」

 「有りません、昨日の突然の爆撃で、全て燃えてしまったんです」

 全て燃えてしまった、ということは、富子達にとって、偽りのない事実あった。故に身ぐるみ1つなのである。富子の左腕の腕時計のみが、唯一の財産であった。

 「この女、なんですかね?もしや、何処かの諜報員かも」

 「うむ」

 富子は無論、スパイなどではない。しかし、本名の

 <柴崎富子>

がバレれば、

 <黒川慎一氏殺人容疑者>

として、逮捕されてしまう。

 ここに至って、またしても逮捕の恐怖が立ち現れた。

 富子は心臓が高鳴った。彼女の左手に抱かれているヒロも富子の心臓の鼓動を感じているのか、何かしら緊張しているらしい。ヒロも身体が何かしら伸縮していた。

 周囲の人混みは、富子達のこととは無関係に、お構いなく進んでいる。

 「どうします?」

 上官の憲兵は、部下の憲兵の問いに答えて言った。

 「ちょっち、その外套を脱いでくれるか?」

 「はい」

 寒い中ではあるものの、富子は素直に外套を脱いだ。

 「調べろ」

 「はい」

 部下の憲兵が、富子の外套を調べたものの、怪しい物品は出て来ない。

 「ちょっと、靴も脱いで」

 「はい」

 靴からも何も出て来なかった。

 上官の憲兵は、衣服の上からとはいえ、富子の身体を触り始めた。富子は不快に思ったものの、耐えた。

 「怪しいものはないようだな」

 「はい、そうですね」

 外套は富子に返され、憲兵は言った。

 「朝鮮に行く船なら、先日、朝鮮から偶然に来ていた貨客船が朝鮮政府の指示で臨時に希望者を乗せている。あの船で、釜山行きだ」

 部下の憲兵がそう言うと、一隻の黒い大型船を指さした。

 「有難うございます」

 富子は、一言言うと、

 「さ、幸雄、行こう」

 富子は幸雄の手を引いて、その大型船の方に向かった。

 背後で、先程の2人の声がした。

 「逃して良いんですか?」

 「まあ、朝鮮人なんて、いないほうがいい。我が皇国は今なお、非常時だ。朝鮮は独立した以上、我が国の管轄が及ばない。いよいよ、皇国に対する諜報活動がやりやすくなっているからな。朝鮮経由の諜報員に協力する可能性のある者はいないほうがいい」

 スパイ活動に関係する可能性のある者は、半ば、一方的に追放するほうが良い、ということなのであろう。

 しかし、キン・タエコこと柴崎富子その人からすれば、

 「逃して良いんですか?」

という台詞には、言うまでもなく、

 「黒川慎一氏殺人容疑者たる柴崎富子を逃して良いんですか?」

という意味がある。この意味があるからこそ、富子は逃避行を続けて来た。

 しかし、昨日からの混乱状況は、彼女を逮捕する好機を「上部構造」(政治権力)の側に逸させたようであった。

 朝鮮政府派遣の船に乗る際、憲兵に接せられた時と同じく、

 <事情>

を説明し、タラップを上がり、乗船名簿には、


 ・金 多恵子


 ・金 幸雄


と記入した。

 暫くすると、出航を意味する銅鑼が鳴らされ、汽笛が太く鳴った。船は、ゆっくりと岸壁を離れ始めた。

 釜山までは大した距離ではないものの、まだ、冬が終わっていない今の季節の空気は肌寒い。富子と幸雄の2人は、船内に入った。

 嬉しかったのは、船内で風呂が沸かされ、身体を洗うことができたことである。

 富子は身体を洗いながら、思った。

 「何とか、日本国内の関門は全て乗り越えられた」

 今日の風呂は、これまでのすべてを洗い流し、新しい生活に向かっていくための禊のようなものかもしれない。

 「これからは、幸雄やヒロと新しい生活ね」

 そう思うと、自身の身体を洗わんとする自身の力も、今までの過去という

 <垢>

を落とすべく、自然と強まって来るようであった。

 暫くして、風呂を出た富子は、同じく男湯から出て来た幸雄と会った。さっぱりした2人は、混み合う船室の中から、玄界灘を眺めた。

 中途、艦尾に旭日旗を翻した、対馬沖に停泊している帝国海軍の巨艦が見えた。

 そこが対馬だと分かったのは、乗客の1人が、

 「対馬だ」

と日本語で言ったからであった。

 古代から日朝間の国境の島であり、日本側の最前線であるこの島は、1968年の今日も、大日本帝国の最前線である。戦艦は、ここが大日本帝国領であることを顕示すべく、朝鮮側を威圧せんとそこに錨を下ろしているのだろうか。

 海の城のような戦艦は、富子等が乗った船も威圧しているかのように見えた。

 しかし、ここを過ぎれば、朝鮮・釜山である。しかし、容疑者とされたこれまでの恐怖に加えて、昨日の爆撃の恐怖等から、以前には、ある種の恐怖でもあった朝鮮は、富子にとっては、いよいよ、この地に向かって進むしか無い状況に置かれていた。

 「しっかりなさい。これからでしょ」

 富子は、心中にて自身に言い聞かせた。ここで、失敗したら、これまでの全てが、本当に、

 <一巻の終わり>

であろう。

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