第26話 船着き場
富子は厳しい表情で言った。
「サチオ、あなたはもう、私の息子なの。昨日、家が焼け落ちる時、あんたのお母さん、言っていたよね。この子をおねがいしますって」
そう言うと、更に一言、加えた。
「分かった?」
富子の相変わらず厳しい表情と声に、サチオは
「うん」
と一言だけ言って、同意せざるを得なかった。
「あんた、改めて聞くけど、自分の名前、漢字でどう書くの?」
「麻に生きるの生き、幸せに、英雄の雄」
「年齢は?」
「10歳」
「そう、分かった。私はエグチタエコ。これから、昨日言ったように、私達はこれからこの国を棄て、朝鮮に向かうから、在日朝鮮人のふりをするのよ。あなたは私の言ったようにするの。分かった?」
富子は、幸雄が万が一、殺人容疑者としての
<柴崎富子>
を知っている可能性を考え、女学校時代の友人である江口涼子と藤倉妙子の2人を混ぜ合わせた偽名を名乗った。
「うん」
相変わらず、
「うん」
の一言しか言えない幸雄である。10歳の彼は、大人の厳しさには未だ逆らえない年齢であろう。加えて、頼れる大人が殆どいなくなってしまった今となっては、富子と行動を共にする以外、生きる道はないであろう。
「じゃ、これから、船に乗るから。但し、もう分かってるよね。変な真似をしたら、私は君を殺す」
幸雄は再び恐怖からであろう、表情が引きつったようであった。改めて、
<死>
が身近なところにあることを感じさせられたのであろう。相手が女とはいえ、殺されそうになっても、非力な少年では抵抗できないであろう。
今、ここまで家族の悲惨な死を見、又、死体が大量に転がっている具体的な
<死>
の恐怖を味わってきたのである。それは幸雄の心中にどれほどの傷になっただろうか。少年はこれ以上の死の恐怖を味合いたくなく、富子に従っているのかもしれない。
また、自身の本来の家族が全滅したであろうことから、心中にて、空白状態ができており、半ば無抵抗に、富子の言葉を受け入れているのかもしれない。
この先、これから、何が待っているのか?
幸雄少年には、その手綱がないことは、取り敢えず、明らかであった。
かといって、今、この場で傍らにいるタエコという女性に逆らえば、
<死>
が待っているのは、間違いないであろう。
見上げてみれば、タエコの表情は相変わらず厳しい。無言ではあるものの、
「私に逆らうことは許さない」
と、その表情は無言のうちに、堅い意志を示していた。
2人は建物の影から出ると、人々の群れている方向に向かった。
乗り場は大勢の人々でごった返していた。
ひどい怪我や火傷の人も少なくない。冬の季節でありながら、コンクリートの床の上にゴザ等を敷いただけで寝かされている者も少なくない。そこここから、そうした者達の呻き声が上がっている。
軍医や看護婦等が、手当に当たっているものの、包帯を巻くか、傷のひどい部分は切断以外、手の施しようはないようである。
しかし、麻酔等もないのであろう、手術等については、大勢の看護婦が患者を押さえ込み、医師が執刀に当たるという状態である。
「ああ、嫌だ。もう殺してくれ!」
ある男性が叫んでいた。重症患者だろうか。
「麻酔なしに、足の切断だなんて、死んだほうがマシだ!」
富子と幸雄は、改めて、背筋が凍る思いがした。沢山の死体を見てきたにもかかわらず、改めて生きた人間の恐怖の叫びを聞く恐怖は、如何ばかりであろう。
「こらえてください!前線の皇軍将兵の皆さんは、こうした苦しみを乗り越えておられるんですよ!」
お定まりの標語というべき台詞である。ろくに麻酔もないのであれば、こうして、
<精神力!>
で何とかする以外に、どう仕様もないのであろう。
さらにもう1人の看護婦が言った。
「元気になって、家族の皆さんのもとに戻りましょう。一時的な苦しみです」
<家族>
という語句、身近な愛する存在によって、何とか、
<精神力>
を持たせようとしたのであろう。
大勢に押さえつけられた、その男性患者は、しかし、その周囲中に響くような激しい悲鳴を上げた。昨日の爆撃によって倒壊した家屋にて蒸し焼きにされたり、爆風で叩き殺された人々の悲鳴に勝るとも劣らないものであったかもしれない。
直後、しかし、叫びは嘘のように収まった。
看護婦の1人が言った。
「先生、だめでしたね」
「うむ、麻酔無しで、こんな手術、そもそも無理だ」
「姉ちゃん、あの男の人、死んじゃったの?」
幸雄にとっては、未だ、タエコと名乗った富子が新たな母になったことが飲み込めないのであろう。会ったばかりの時と同じ呼びかけ方をした。
「そうね」
富子は、一言だけ答えた。
<死>
で、幸雄を連れ子とするべく、彼を恐怖で押さえ込み、つまりは、
<死>
を、連れ子を統御する手段とした富子であった。しかし、改めて、現実の
<死>
が具体的な恐怖の姿となって現れると、自身も逆にその感情によって支配されるよであった。
無論、昨日の爆撃の際の火の海の際とて、死の恐怖によって感情は支配されていたであろう。しかし、炎に巻かれる中、逃げることによって、
<生>
を、その場で維持するのに半ば、必死だった。そして、あまりにも突然に発生した
<死の恐怖>
を自身で受け止められなかったのであった。だからこそ、逃げることに必死ながらも、
「じゃ、お芝居?映画?」
と、置かれた立場を確認して、自身を納得させようとしていたのであろう。
しかし、その時点での
<死>
から逃れ、改めて何とか現実としての
<生>
を感じ得る状態に立ちかえると、それと対立する概念-あるいは感情-である
<死>
に直面すれば、生を奪うものとして、改めて恐怖の感情になるのかもしれない。
先の男性の悲鳴はあまりにも激しかったので、大勢の周囲の人々がそちらに関心を向けたものの、直後、すぐに、元の状態に戻った。大勢が重傷や火傷を負っていたとしても、各々の
<生>
があるのである。それが最優先なのである。あるいは、最早、昨日からのあまりの精神的衝撃で、そもそも、関心すら持てない放心状態の者もいたかもしれない。
軽症者を含めて、どうにか動ける人々は、行くべき場所へ行かねばならない。そのために船乗場に集まっているのである。
相変わらず、そこここから、重傷者等が<治療>を受けている。悲鳴や呻き声が聞こえ、絶えない。中には、寝かされたまま放置されている者もいる。少ない医療品等の現実の前、放置され、そのまま、
<死>
を待つしかないのであろう。
多くの人々が、その傍らを気に留めることもなく、半ば、放心状態で通り過ぎていた。左手でヒロを抱き、右手で幸雄の手を引く富子もそうした群れの一員であった。
歩いている途中、
「お母ちゃん!」
と、幸雄と同年齢くらいの男児が泣いており、そして。か弱く泣いている乳児がいた。コンクリート床に仰向けになっている母親らしい女性は、全身に重度の火傷を負っていた。
母氏は、何らかの形で2人の子を連れて、逃げてきたのかもしれない。しかし、力尽きて、事切れたのであろう。
富子も含めて、その子達に構うものはいない。軍医や看護婦も、その女性が重傷故に、辛うじて逃げて来れたものの、その時点で
「もはや、手を施せない」
と、見放し、そのまま、事切れたのかもしれない。
富子は、乗るべき船を見つけるべく、群れの流れと共に歩けば、乗船現場に辿り着けるだろうと、ヒロと幸雄と共に、憑かれたように、とにかく動いた。
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