第25話 玄界灘へ

 翌朝、土管の中で目を覚ました富子は、自身の腕時計-今や殆ど唯一の自身の私有財産であった-を見てみた。

 時計の針は、


 ・午前8時45分


を指していた。布団もない昨日からの睡眠であった。しかし、皆で暖め合いながら、何とか眠ることはできたようである。

 「サチオ、起きて」

 富子はサチオの身体を揺すった。

 「うん?」

 サチオが目を冷ました。同時に、ヒロが目を覚まし、小さな鳴き声を発した。

 土管の外に出た富子は、サチオにも外に出るように促した。

 見れば、自身の衣服は、墨をかけたように薄黒く汚れていた。昨晩の黒い雨のせいだろう。

 雨そのものは、今朝は止んでおり、八幡製鉄所方面を見れば、既に昨晩の大火災も鎮火したようである。しかし、昨日のある時点まで、当然であるかのように、そこに存在していた高炉は、昨日までに有った-何というのか、堂々たるとでも言うべきか-風景は見るも無残に変形していた。

 「サチオ、あんた、改めて名前は何というの?」

 富子はサチオに改めて問うた。

 「アソウサチオって言うんだ」

 「アソウ、サチオっていうのね。漢字で自分の名前を書ける?」

 「今は書けない。ノートも鉛筆もないし」

 言われてみればそうだった。

 <夢>

というか、

 <悪夢>

のような状況が、正に現実であったことに、富子は、改めて気付かされた。

 つまり、何もないまま、半ば身体1つで命からがら放り出された現実があった。

 「何処へ行くの?」

 サチオが問うた。

 「何処へ行こうかしらね?」

 朝鮮に渡るなら、玄界灘に面した場所に行かなければならない。

 しかし、昨日の女将の言葉にもあったように、博釜連絡船は既に期待できそうにもない。又、不用意に朝鮮への渡航を口にすれば、かえって、脱出できなくなる危険性は、それこそ、-予測もできなかった突然の謎の大爆発によって、辛うじて逃げることができたものの-昨日の刑事達の言葉にも明らかであろう。

 しかし、この場所にいても、何等の動きも取れないであろうことも明らかである。

 広場には数台の陸軍のトラックが来ていた。同じ広場にいた人々がトラックに乗り始めた。

 「行ってみましょう」

 富子はヒロを抱え、サチオの手を引いて、トラックが来ている方向に向かった。

 トラックの周囲には数人の三八銃を肩に担いだ兵士達がいた。

 「すみません、このトラックって、何処に向かうんですか?」

 「小倉の港だよ。引揚船等が来ているんでね」

 「引揚船って、何処へ行くんですか?大日本帝国各地、或いは朝鮮」

 渡りに船である!有り難い!

 「乗ります」

 兵士は富子の声に応えて、トラックのうちの1台に乗るように促した。

 「サチオ、乗って」

 まず、富子がトラックの荷台にヒロと共に乗り、次にサチオの手を引いて彼を荷台に引き揚げた。

 暫くして、トラックのエンジンがかかり、車体が揺れ、トラックが動き出した。

 幌のない無蓋トラックの荷台から見る市街の風景はどこもかしこも、焼け野が原である。道路部分を除いて、全体として黒い色に統一的に整地されているかのようである。

 巨大な何かに、焼き尽くされた跡であった。

 そんな中、そこここを人々が行き交い、片付け作業がなされていた。黒焦げの死体がまだなお、あちこちに放置されたままである。或いは、簀巻きになった人間を火の中に2人から3人がかりで放り込んでいる姿も見られる。死体を荼毘に付しているのだろう。瓦礫の中に無造作に上がっている火であるので、昨日の大爆発による大火災の、なお鎮火していない

 <残り火>

なのかもしれない。

 未だに、何が起こったのか、よく分からない富子である。サチオや同乗の人々も同じかもしれない。但し、今回のこの爆発によって、逮捕されることからは

 <九死に一生を得た>

と同時に、謎の爆発-昨日の記憶をたどって、思い起こしてみれば、警報サイレンが鳴っていたことからして、何処かの国の爆撃であったであろう-からも、同じく

 <九死に一生を得た>

のであった。そして、ヒロも幸いに助かり、こうして今、家族たる富子といっしょにいる。

いわば、昨日、白光を感じたあの瞬間、彼女の人生、或いは逃避行の

<残り火>

は、文字通り、

<風前の灯火>

になりかけてもいた。

 しかし、偶然にも富子は空中に吹き上げられたことによって、助かり、又、ヒロが助かったのは、身体の物理的小ささ故にであった。サチオが助かったのは、その時点で屋外に居つつも爆風、熱線等を受け難い位置にいたからであった。

 おそらく、女将や2人の刑事は崩れ落ちてきた旅館の建物の中で、蒸し焼きにされて、焼け死んだのであろう。サチオの家族等も同じであろう。

 <偶然>

によって、助かる命がある。他方で、

 <偶然>

によって、殺される命がある。

 半ば、これまで、

 <非常時>

が、

 <常時>

と化している日々の中、防空演習、生活物資不足といった日々は、自身の主体性によってではなく、何か、見えない巨大な歯車の下、引きづられるような格好で、

 <生かされている>

日々であったとも言えた。今回の爆撃によって、いよいよ、それを自覚させられたと言えた。

 そんな中、権力に追われ、更には身1つの状態になったしまった富子である。彼女は、

 <大日本帝国>

内に、いよいよ、居場所はなくなっていた。

 そうした現実が、いよいよ、彼女の心中にて、強い感慨を沸き立たせた。

 「この国を棄てましょう。女の私が女というだけで、苦労ばかりだったこの国を棄てれば、自由になれる千載一遇の好機かもしれない」

 そして、富子は思った。

 「あの女将も、2人の刑事にも、きっと、確実に死んでいて欲しいね」

 これまでは、

 <自衛>

のための逃避行をして来た。しかし、これからは、

 <自由>

のための逃避行である。この旅はまさに今、始まったところである。それが妨害されることは許されない。取り戻すべき

 <自由>

は、絶対に手放してはならない。

 「警察?権力の手先なんかに連れ戻されてたまるものですか!」

 富子は心中にて、改めて強く思った。

 2人の刑事が、<旅館□□屋>を尋ねてきたのは、女将が不審に思って、密告したからであろう。目に見えない

 <巨大な歯車の>

の一端に富子は引っかかりかけていた。

 「そんなこと、またも、あったら、たまったものじゃない!」

 富子はいよいよ、怒りの感情になった。

 「姉ちゃん?」

 「え?」

 サチオが不審げに富子の顔を覗き込んだ。

 心中で発していた怒りの台詞が顔に表情となって出ていたらしい。

 「あ、ごめん、ごめん、ちょっと思うことがあって」

 富子は、適当にごまかした。心中で思っておいたことを周囲に知られてはならないのは、無論である。

しかし、その表情は、富子の強い意志の現れでもあった。

トラックは、3時間程、走ったであろうか。次第に海の潮の匂いがしてきた。暫くして、富子達の乗ったトラックは停車した。

「着いた。降車してください」

同乗していた兵士の呼びかけで、富子達は一斉にトラックを降り始めた。

「ここから、どうやって朝鮮に向かうべきか?」

 まず、朝鮮行きの船を探さなければならない。また、それのみならず、ハングルのできない富子である。

 しかし、まず、第一に、大日本帝国を棄てようとしている

 <ワケあり女>

とばれる危険はないか?

 さらに、一番怖いのが、サチオが、

 「やっぱり、俺、ここを出たくない。この姉ちゃん、俺を連れ出そうとしているんだ!」

等と、叫びだすことである。そうなったら、まさしく、

 <一巻の終わり>

である。

 <自由>

への旅は、ここに来て、いくつもの

 <関門>

が同時に、富子の前に立ちふさがる格好になっていた。

 富子は、またしても厳しい表情になった。

 「どうしたものかしら?」

 心中で呟いた富子は、サチオに言った。

 「サチオ、ちょっといい?」

 「うん」

 「これから、私の言うことを厳しく守りなさい。さもばくんば、君は何処にも行き場のない孤児になる。そうなれば、餓死するわよ」

 その台詞の内容そのもの以上に、ドスの効いた言葉にサチオは緊張というか、恐怖したのであろう。彼のこれまでの人生-まだ、かなり短いものである-の中で、おそらく、富子は今、この瞬間、サチオが接したいかなる大人よりも厳しい表情をしつつ、厳しい台詞を発したかもしれない。

 「うん」

サチオは驚きと恐怖の入り混じった表情で返答し、富子の次の言葉-あるいは、<命

令>といったほうが良いかもしれない-を固唾を呑んだような表情で待った。

 富子は、傍の建物の影にサチオを引き込んだ。




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