第24話 会話
市内の一隅にあるこの広場は、建物疎開の為に建物等を解体してつくられた空間らしい。
<平和>
に慣れすぎたからか、こうした空間が有用になる日が来るとは、多くの人は思っていなかったかもしれない。しかし、建物疎開で造られた空間だとしたら、結果として、有用になったことによって、大日本帝国がなお、
<非常時>
にあり、それが
<常時>
であることを改めて、思い知らされたかもしれない。
「天災は忘れた頃にやって来る」
といった人がいた。しかし、自然現象ではない
<人災>
とでも言うべきものが、
「忘れた頃にやって来た」
ようなものであった。
そのうちに、日が暮れ、空は暗くなった。自然現象としてのいつもの夜である。
しかし、八幡市内のあちこちから炎が上がり、赤く夜空を照らしていた。各方面の火災が未だに収まらないようである。
時々、八幡製鉄所方面からは爆発音も聞こえた。工場の燃料タンクに引火している音だろうか。黒煙がとめどもなく上がっているのも見える。火災の赤い火が夜空と照らしているからである。
「一体、何が起きたのか?」
この広場に集まった人々の殆どが、何が起きたのか、分からないであろう。
なにしろ、この前まで、-東北、北海道を奪われたとはいえ-この周辺の地域は未だ、なにかしら
<平和>
な状態だった。昭和17年の戦勝以来、
<空襲>
もなければ、
<艦砲射撃>
もない日々であった。
一般市民としても、空襲や艦砲射撃といった軍事用語は、一応は知っていても、それは日々の生活とは縁遠い、ただ、回覧板等で目にするのみのごくであると言っても良かった。
或いは、それでも、日々の生活として、
<防空演習>
等では、身近なものだったかもしれない。しかし、その防空演習とて、いわば、マンネリ化した存在だった。富子の居た東京でも、一応は定期的にこうした演習は為されていた。そして、
<北>
こと日本人民共和国が成立(昭和32年、1957年)したことによって、その時は、緊張感が高まり、
<演習>
とはいえ、それ以前よりはある種の緊張感を以て為されたものの、大東亜戦争中からのバケツリレー等であり、その後は、今日まで<北>の対南侵攻もなかったことから、何と言うか、意味不明の単なる
<習慣行事>
とでも言うべき存在となっていた。
というか、こうした活動はむしろ、
<仲間意識>
を隣組内で確認し合い、体制に忠実であるかどうかを観測するための装置とでも言うべき存在とかしていた。
体制という名の
<天>
つまり、お上の持つ
<気>
換言すれば、「上部構造」(政治権力)の意向に、各自が忠実であるかどうかを観測する
<天気(への市民各自の態度を観測する)観測装置>
とでもいうべき存在と化していた。
これに逆らえば、隣組に統制された日々である以上、生活がどうなるかは分からなかった。或いは、悪い噂が立つかもしれない。
それが嫌で、嫌々ながら参加するといったことも少なくないのである。そんな中で、隣組内に嫌な隣人等がいれば、それこそ不快な話でしかないであろう。
その意味で、防空演習等は、定期的にやって来る悪しき
<天気>
であった。実際の天気が晴天であっても、である。
故に、実際の天気が悪天候になり、雨天になると嬉しいものであった。防空演習が中止になり、心中の悪天候は否定されるからである。
富子もそうした思いを持つ人物の1人であった。最近では30代になっていた彼女には、独身であることによって、周囲から
「行き遅れ女」
といった言葉を遠回りに投げかけられているようにも思われたのである。
実際、防空演習に参加していると、
「富ちゃん、良い人はいないの?」
「早くしないと、嫁の行き手がなくなるわよ」
等、私生活への無神経な干渉が為されたものであった。
周囲は特に他意もなく、ただ、所謂、
<常識>
として、富子に語りかけただけかもしれない。
しかし、富子にとっては、内心踏み込まれる、不快この上ない行為だった。
他方で、富子自身としても、女学校時代の友人・藤倉妙子が結婚し、子を持ったことを見て、何か、
<行き遅れ女>
になっている、という焦りのようなものも有った。
故に、黒川慎一と出会えた時は、とても嬉しかった。新たな人生への道が開けたかのようで、日々、暗い、それこそ、
<闇>
に包まれたかのような生活の中で、一筋の
<光>
が差し込んだかのようだった。
そうだからこそ、彼の正体がわかった時の驚きと恐怖は、これまでの人生の中で、これ以上にないものだった。
<光>
から、それこそ、これまで以上の
<闇>
に、突き落とされた、と言っても良いだろう。そして、咄嗟に、
<闇>
の恐怖から逃げようとして採った行動が、結果として、今の状態となっていた。
改めて周囲を見れば、放心したような人々、弱々しく泣く赤子、倒れたまま動けなくなった人々でいっぱいである。
富子は、多くの人々と同じく広場の一隅に座り込んでいた。サチオも同じであった。ヒロも疲れていたのであろう、鳴き声も発さなかった。
不意に、富子は頭や肩に冷たいものを感じ、思わず、空を見上げた。
雨だった。
広場では、所々、焚き火がドラム缶の中等で焚かれていた。火災で半ば赤く染まっている夜空ではあるものの、焚き火は広場での唯一の目印的存在である。
焚き火は雨水にいつまで対抗し、燃え続け得るだろうか。雨脚が強まれば、この広場は、近く、
<闇>
に包まれるだろう。
「ああ、水だ」
誰かが叫んだ。火傷に苦しんでいる人々等からは、
「水を」
という、水を求める声が上がっていた。それ故に、この雨は
<天>
の
<気(分)>
が人々に恵みをもたらす方向に動いてくれたと言えるかもしれない。
雨が激しくなりだした。富子はサチオとヒロを連れて、傍のコンクリートの土管の中に入り込んだ。
暫くして、土管の外では、
「何だ!?」
誰かの声がした。
「この水、黒い!」
「墨みたいだ・・・・・」
何が何だか、訳が分からない。しかし、富子、サチオ、そして、ヒロの2人と1匹に、今、できることは、土管の中で雨の難を避けることだけであった。寒さを凌ぐこともできないような状態であるものの、本当にそれ以外にできることはなかった。
富子はサチオとヒロを抱き寄せ、外套を自分たちにかぶせてくるまった。これ以外に、寒さ対策はなかった。
「姉ちゃん」
「うん?」
「俺の母ちゃん、きっと、死んでしまったよね」
「そうね」
あの状態では、間違いなく、彼自身の言うとおりであろう。
「サチオ君には、他に兄弟はいないの?」
「兄ちゃんがいる。軍に徴収されて、今、この街にはいない」
「今、お兄さんは何処にいるの?」
「わからない。南方に動員されて、音信不通なんだ。手紙も1年くらい来ていない」
「お父さんは?」
「戦死したかもしれない」
「どこで?」
「それも分からない」
「そう」
「お姉ちゃんは、どうなの?」
「まあ、色々、有ってね。多分、もう、日本には居られないかもしれない」
「俺ももう、日本には居られないかも」
「どうして?親戚の人とかはいないの?」
「小さい頃に会ったことがあるけれど、列車代もないから、最近は全然、会えて無い。どうなっているかも俺にはわからない」
「父ちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんも近所に住んでいるけど、きっと死んでしまった」
「どうして、分かるの?」
「2人とも足が悪いんだ。姉ちゃんと一緒に逃げる時に、おばあちゃんたちの家のある方はもう火の海になっていた。きっと焼け死んでしまった」
そう言って、サチオは泣き出した。彼は一瞬で孤児になってしまったのであろう。
「私ね、さっき言ったように、もう、この国には居られない事情があるの。できれば、別の国に行こうと思う。私と一緒に来れる?」
しかし、沈黙の時が流れ、土管の中が静かになった。
数分後、サチオは、
「うん」
と一言だけ返事し、同意した。彼にとっても、富子と行動をともにする以外に選択肢は無いであろう。
「なら、明日、次の行動を考えましょう」
富子がそう言うと、2人と1匹は、眠りについた。
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