第21話 思い
「朝鮮か」
同階の別室から聞こえる2人の声を聞いていて、富子は思った。
「どうしても行き場が無いなら、いっそのこと、玄界灘を通って、半島に逃げるべきかしら?」
富子が東京で女学校に通っていた時、朝鮮半島出身と噂される生徒もいた。但し、当時、日本領となっていた朝鮮出身者は、日本式の通名で生きていたのである。
その後は満州国は崩壊し、又、日本本土には、北海道、東北に
<日本人民共和国>
が成立したことによって、情勢は一挙に緊迫した。朝鮮そのものに中立国とした
<朝鮮人民共和国>
が成立し、
<中立国宣言>
を行ない、日本から独立することによって、日本領として失われていた。
富子は、自宅ラジオで、この話を聞いていた。両親が今後について、何かしら、不安げな顔をしていたのが、強く印象に残っていた。富子自身とて、その時の表情は同じものであったであろう。
つい、先日までの祖国
<大日本帝国>
は、
<無敵皇軍>
を支えられ、鉄壁の守りを固めた存在として、
<神州不滅>
が言われていた。否、
「言われていたはずだった」
と言うべきであろうか。明治維新以来、膨張を続け、それこそ無敵であったはずの大日本帝国は、ソ連の対日参戦、侵攻によって、あっさりと、
<膨張>
から、
<縮小>
へと、目に見える形で、反転したのであった。明治以来の歴史、或いは、女学校等で、
「神武天皇の建国、創業以来、2600年以上の長きに亘る、誇りある皇国・日本は・・・・・」
と教え込まれてきたからこそ、
「長きに亘る」
歴史からすれば、それこそ、一瞬で、
<天地がひっくり返る>
ような状況だった。それこそ、映画を見ているかのような感覚だった。
しかし、この感覚は、それこそ、多くの人々にとって、心中に留め置かれている存在
であった。
多くの人々にとって、隣組等によって統制されつつ、ただ、日々の生活に追われていた。生活物資を入手し、日々の生活というよりは、飢えないように、或いは、現在以下の生活とならないように、それこそ、
<命>
をつなぐことが、人々にとって、
<戦争>
であった。それが一貫して、
<非常時>
が言われる体制の下での人々の
<常時>
だった。政府や軍部の標語は、勿論、物理的には、回覧板や町内の壁等に貼られたポスター等々のかたちで存在はしていた。しかし、
「ただ、存在している」
だけであった。普段は、誰に気をつけられる存在でもなく、その前を人々に往来されるのみの存在だった。
そうした標語が、人々に改めて注目されたのが、まさに、
<天地がひっくり返る>
事態になった当時だった。
富子が所属していた隣組から来た回覧板には、
「赤魔に一部の領域が奪われたからといって、本会の方々におかれましては、決して動揺なされませぬよう」
「皇軍、今日なお、健在、朝敵<北>を討つべく臨戦態勢、銃後の婦女子も、備えを怠ることなく、心構えをなさいますよう」
等の語句が並んでいた。
富子は、正直これらの語句を見た時、何と言ってよいのか、分からなかった。
<臨戦態勢>
は既に、物心ついた時から続いていた。
「一体、何時まで、この状況が続くのかしら?」
と出られないトンネルのような状況を思いつつ、他方では、物心続いた時から続いていたことから、半ば、気にもならない何時ものことであった。だので、何の言うべき感想も思い浮かばず、何と言ったら良いのか、分からなかったのかもしれない。
あるいは、
<皇軍>
は、これまで、
<無敵皇軍>
等と、度々、表現されていたように、
<無敵>
のはずだった。それならば、大日本帝国軍が、ソ連軍に負けるはずがなかった。大東亜戦争での昭和17(1942)年、米、英軍に対する実質的勝利も、そうした思考を後押ししていた。
そうであったにもかかわらず、まるで映画を見ているかのように、
<天地がひっくり返る>
有様になってしまった。
しかし、なんと言うべきか、戦争映画のようでありながらも、
<現実>
を見せられてもなお、興奮し、騒ぎ立てるものは、少なくとも表面上は、富子の周囲にはいなかったようにも思われた。
主戦場は、北海道、東北であり、戦火は帝都・東京には及んでいなかったからである。
東京の市民からすれば、日々の実際の戦争は、
<生活苦>
なのであり、故に、北海道、東北での戦火は、なにか他国での出来事のように思えたのかもしれない。
或いは、現実の生活として、特高、憲兵、或いは、一般の警察のほうが戦火よりも恐怖の対象であった。
こうした具体的権力に睨まれては、それこそ、具体的には、日々の生活は、
<逮捕>
という形で破壊されてしまう。あるいは、そうでなくても、隣組等での配給停止等に追い込まれれば同じく生活の破壊、破滅以外の何物でもなかった。あるいは、そうした日々が大日本帝国憲法の下、
<臣民>
とされた各個人にとっての生活を自衛するための
<戦争>
とも言うべきものであったであろう。この戦争の戦線から降りれば、生活が破壊され、破滅する以上、この戦場からは離脱できなかった。
しかし、富子は現在、離脱せざるを得ない立場に置かれ、それ故に、
<破滅>
の瀬戸際に追い込まれていることは言うまでもないことだった。
富子は、唯一の家族というべきヒロを見つつ、改めて言った。
「朝鮮か」
このままであれば、手持ちの資金も底をつき、身を隠す場所もなくなり、
<逮捕>
という文字通りの
<破滅>
が待つのは火を見るよりも明らかである。それが嫌なら、
<大日本帝国>
という枠組みから逃れるほかはない。現実的な可能性があるのは、やはり、玄界灘を超えて、朝鮮に渡ることであろう。
とは言うものの、一抹の不安と恐怖の存在も又、現実であった。
<朝鮮独立>
が為された時、隣組から廻されて来た回覧板には、
「この時期、皆様に置かれましては、皇国の銃後の担い手として、しっかりと、思慮ある対応が求められます。その中には、今回の朝鮮独立による不逞鮮人等に対する対処等も含まれます。各隣組ごとに、竹槍等での非常時武装をご考慮願います」
との一文があった。
確かに、富子も当時、正直に言って、それが怖かった。
しかし、朝鮮半島出身者による大規模暴動等の話を聞くことはなかった。
実際には、何らかの騒乱等はあったのかもしれない。しかし、憲兵、警察等に封じ込まれていたのであろう。富子をはじめ、
<社会>
として、それを期待していた感があり、その点では、暗黙の
・社会-「上部構造」(政治権力)との一体化
というべき状況にあったとも言えたかもしれない。
しかし、今や、富子にとって、その朝鮮半島以外に、行き場はなかった。最早、意を決する他はないであろう。
こうしたことについては、既に先例があった。
<北>
こと、日本人民共和国に亡命したと思われる富子の女学校時代の友人・江口涼子の例である。
「涼ちゃんも意を決して、勇気を持って、この国から逃げたんだろうね」
涼子がそうならば、自身も意を決すれば、なんとかなるかもしれない。
但し、朝鮮は<北>とは異なり、言葉の通じない異国である、という不安もあるが。
そうこうしているうちに、夜の帳が下り、部屋は暗くなっていた。
「疲れた、今はとにかくねましょう」
富子はヒロと眠りについた。眠ることが、とにかく今は、最優先の彼女にとっての自衛のための任務と言えた。
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