第3話 内臓ぶら下げの夜 ― ピー・クラスー

バンコク郊外の古い住宅地。高層ビルが立ち並ぶ都心部から車で1時間ほど離れたこの一帯は、開発の波に取り残された昔ながらの木造家屋が密集している。狭い路地が迷路のように入り組み、夜になると街灯の光も届かない暗がりが随所に生まれる。


佐藤ケイとナンディーは、携帯電話に表示された座標を頼りに、この住宅地の奥深くへと車を進めていた。イサーンでの体験から二日。二人の間には、既に強い信頼関係が築かれていた。


「この辺りですね」ナンディーが地図を確認しながら言った。「でも、なぜこんな住宅地に...」


その時、佐藤の携帯電話が異常な振動を始めた。画面には、またしてもドイツ語のメッセージが表示されている。「Das Kind ist verschwunden(子供が消えた)」そして、その下に小さな写真。5歳くらいの男の子の笑顔が映っている。


「子供の失踪事件」佐藤は眉をひそめた。「ピー・クラスーが関与しているということでしょうか」


二人は車を降り、住宅地を歩き始めた。すると、遠くから泣き声が聞こえてきた。女性の声だった。佐藤とナンディーは声の方向へ急いだ。


古い二階建ての木造家屋の前で、30代の女性が近所の人たちに囲まれて泣いていた。彼女の名前はスニー。話を聞くと、5歳の息子ノンが夕方から行方不明になっているという。


「いつものように外で遊んでいたんです」スニーは涙を拭きながら説明した。「でも、夕食の時間になっても帰ってこなくて...近所中探したんですが、どこにも...」


佐藤とナンディーは顔を見合わせた。これは明らかに超自然現象が関わっている事件だった。


その時、近所の老婆が震え声で言った。「昨夜、あれを見たんです...空に浮かぶ女の生首を...」


「ピー・クラスー」別の住民が恐怖に満ちた声で呟いた。「内臓をぶら下げて飛ぶ化け物...子供をさらうという噂が...」


佐藤は老婆に詳しく話を聞いた。彼女によると、昨夜の午前2時頃、窓の外に異様な光を見たという。見上げると、女性の生首が長い内臓をぶら下げて夜空を漂っていたのだ。


「その生首の表情はどうでしたか?」ナンディーが医師らしい冷静さで質問した。


「悲しそうでした」老婆は震えながら答えた。「まるで、何かを探しているような...そして、とても苦しそうでした」


佐藤の携帯電話に新しいメッセージが表示された。「Sie sucht ihr verlorenes Kind(彼女は失われた我が子を探している)」


「やはり...」佐藤は理解した。「ピー・クラスーも、クラウスの扇風機の影響で狂気に陥った母親の霊なんです」


ナンディーは医師として分析を始めた。「子供を失った母親の grief(悲嘆)が、死後も残り続けている。そして、その悲しみが他の子供への執着に転化している」


日が暮れると、二人は住宅地をパトロールすることにした。もしピー・クラスーが現れれば、ノンを救出し、同時に彼女の魂も救済しなければならない。


夜の10時を過ぎた頃、異変が起こった。住宅地の上空に、薄ぼんやりとした光が現れたのだ。佐藤とナンディーは息を呑んだ。そこには、確かに女性の生首が浮遊していた。


その顔は美しかったが、表情には深い悲しみが刻まれている。首から下には確かに内臓のようなものがぶら下がっているが、よく見るとそれは透明で、光る糸のような物質だった。まるで、魂そのものが物質化したかのように。


「ママ...ママ...」生首が呟いている。その声は風に乗って地上まで届いてきた。「私の赤ちゃんはどこ?」


佐藤とナンディーは慎重に後を追った。ピー・クラスーは住宅地の上空を漂いながら、まるで何かを探すように家々を見下ろしている。そして、小さな子供がいる家の前で停止した。


「危険です」ナンディーが囁いた。「あの家にも小さな子供がいるはずです」


その時、家の二階の窓が開き、3歳くらいの女の子が顔を出した。ピー・クラスーは歓喜の声を上げて降下し始めた。


「待って!」佐藤は大声で叫んだ。「あなたが探しているのは、その子じゃない!」


ピー・クラスーは動きを止め、佐藤を見下ろした。その目には、狂気と悲しみが混じり合っている。


「あなたの本当の名前は何ですか?」ナンディーが優しく問いかけた。


生首は空中で揺れながら答えた。「私は...私はマライ...私の赤ちゃんが...私のカーンが...」


佐藤の携帯電話に詳細な情報が表示された。マライ・チャイヤサーン、25歳。3年前に交通事故で息子カーンと共に死亡。しかし、事故の際、息子の遺体だけが発見されず、マライは死後も息子を探し続けているという。


「カーンは見つかったんです、マライ」ナンディーが事実を告げた。「彼は既に安らかに眠っています。あなたも、彼のもとに行く時です」


しかし、マライの狂気は深く、言葉は通じなかった。彼女は再び女の子に向かって降下し始めた。


その時、住宅地の奥から子供の泣き声が聞こえてきた。ノンの声だった。佐藤とナンディーは急いでその方向に向かった。


古い廃屋の中で、ノンが一人で泣いていた。彼は無傷だったが、ひどく怯えている。


「おばけが...おばけが僕を連れてきた」ノンは震えながら説明した。「でも、僕はカーンじゃないって言ったら、とても悲しそうにして...」


佐藤は理解した。マライは息子カーンを探す過程で、年齢の近いノンを連れてきたのだ。しかし、ノンが息子でないと分かると、彼を置いて別の子供を探しに行ったのである。


「マライは混乱しているんです」ナンディーが分析した。「死の衝撃で、現実と幻想の区別がつかなくなっている」


三人が廃屋から出ると、マライが戻ってきていた。今度は、先ほどの女の子を抱えている。女の子は恐怖で泣いているが、マライは優しく子守唄を歌っている。


「私のカーン...やっと見つけた...」


「マライ!」佐藤は叫んだ。「それはあなたの息子じゃありません!」


しかし、その時、予想外のことが起こった。女の子がマライの腕の中で、突然笑顔を見せたのだ。恐怖が消え、まるで本当の母親に抱かれているかのような安らぎの表情を浮かべている。


ナンディーは医師として観察した。「あの子...何か特別な能力があるのかもしれません。純粋な子供の心が、マライの狂気を和らげている」


女の子は小さな手でマライの頬に触れた。「おばさん、悲しいの?」


その瞬間、マライの表情が変わった。狂気の光が消え、代わりに深い悲しみと、そして...母性愛が戻ってきた。


「私は...私は何をしていたの?」マライは困惑した。「この子は...私の子じゃない...」


女の子は優しく答えた。「おばさんの赤ちゃんは、お空にいるよ。キラキラ光る星になって、おばさんを待ってるの」


マライの目から涙が流れ始めた。それは、3年間封じ込められていた、本当の悲しみの涙だった。


「カーン...私のカーン...」


ナンディーは女の子を受け取り、マライに向かって言った。「あなたの愛は、間違っていません。でも、その愛を他の子供たちを苦しめることに使ってはいけません。カーンも、きっと悲しんでいます」


佐藤の携帯電話に最後のメッセージが表示された。「Der Junge wartet im Himmel(息子は天国で待っている)」


その時、夜空に新しい光が現れた。それは温かく、優しい光で、その中に小さな男の子の姿が見えた。カーンだった。彼は母親に向かって手を振っている。


「ママ、僕はここにいるよ。もう探さなくていいよ」


マライは歓喜の声を上げた。「カーン!私のカーン!」


母子は空中で抱き合った。3年間の分離が、ついに終わったのだ。


「ママ、一緒に行こう」カーンが母親の手を取った。「もう、寂しくないよ」


二人の姿は光に包まれ、徐々に薄くなっていく。マライは最後に、佐藤とナンディーに向かって深々と頭を下げた。


「ありがとう...ありがとうございました...」


光が消えると、住宅地には平和な夜が戻ってきた。女の子は母親の元に帰り、ノンも無事に家族と再会できた。


「また一つ、魂が救われましたね」ナンディーは疲れた表情ながらも満足そうに言った。


佐藤は頷いた。「でも、まだ終わりじゃありません」携帯電話には既に次の座標が表示されている。「今度は...マハーブット寺」


「マハーブット寺?」ナンディーは驚いた。「それは、ナークの寺として有名な...」


「そうです。愛の幽霊ナークが現れる場所。でも、彼女もまた、クラウスの扇風機の影響を受けているのでしょう」


車に乗り込みながら、佐藤とナンディーは今夜の出来事を振り返った。科学と超自然、現実と幻想、そして何より、人間の愛と悲しみが複雑に絡み合った事件だった。


「佐藤さん」ナンディーが運転しながら言った。「あの女の子の能力...医学的には説明できませんが、確実に存在していました」


「純粋な心の力でしょうか」佐藤は答えた。「子供だからこそ持っている、偏見のない愛の力」


二人の絆は、また一つ深まっていた。科学者と超自然現象の専門家という異なる背景を持ちながら、共通の目的に向かって協力する中で、互いの価値観を尊重し合う関係が築かれていた。


バンコクの夜景が車窓に流れる中、二人は次の戦いに向けて心の準備を始めた。マハーブット寺で待ち受けるナークとの対峙。それは、これまでで最も困難な挑戦になるかもしれない。なぜなら、ナークの物語は、タイ人にとって最も愛され、恐れられている幽霊譚だからだ。


しかし、佐藤とナンディーには確信があった。どんなに強力な怨念であっても、愛と理解の力があれば、必ず救済の道が見つかる。クラウス・シュミットの遺した闇を浄化する戦いは続く。そして、その戦いは、決して絶望的なものではないのだ。

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