9.文学少女のスニーキングミッション

 1時間ほどゆっくりと休憩し、ようやく苦しいほどの満腹感は無くなってきた。とはいえ、未だに満腹感自体はあるので夕飯は必要ないなと思っているくらいではあるのだけど。調辺さんもやっと目に生気が戻り、コーヒーを飲みながら談笑できるくらいには回復したらしい。


「そろそろ書庫に戻りましょうか」


「そうしようか。頭も冴えてきた頃だよ」


 満腹のあまり仕方なく休んでいたけれど、やはり小説の続きが気になる。それは調辺さんも同じようで、私の提案を聞きすぐにコーヒーを飲み干す。私も残っていた紅茶を飲み干し、調辺さんのカップとともにキッチンへ運び洗う。


 夕飯は不要であるというメモをキッチンに残し、小さな水筒に水を入れて調辺さんのもとへ持っていく。書庫には当然ながら水道設備など無いので、水分補給用に水があったほうがいい。書庫の中は空気が乾燥していますし。


「では行きましょう」


 調辺さんを連れて再び書庫への階段を降りていく。今度は書庫の案内も不要なのですぐにでも読書に戻れますね。思わぬロスがあった分、午後からはしっかり読みたいですね。書庫の扉を押し開き、私たちはもう一度書淫の楽園に足を踏み入れた。



 * * *



「黒川さん、この小説の続きが無いようだけど」


「え!?」


 調辺さんの訴えに気付き、バッと顔を上げる。調辺さんが読んでいたのは異世界ファンタジーのライトノベルだ。アニメ化もしている長編だったはずですが、調辺さんの手にあるのはその第3巻。現在刊行している全14巻の全てが揃っているはずなのですが。


 自分の読んでいた小説に栞を挟み、急いで本棚を確認しに行く。確かあの作品は入り口から右に3個目の本棚の上から5段目に入れていたはず、と思い見に行くと、確かに棚には3巻と4巻が無い。3巻は調辺さんの手元、ならば4巻はどこにあるというのか。


「――姉さんの部屋」


 記憶を辿り思い出したのは、最後にあの作品を読んでいたのは正月の休みに帰ってきていた姉だったということ。ならば姉の私室に置いてある可能性が非常に高い。姉は整理整頓という言葉を理解しているのか不思議なくらいに片付けの苦手な人だ。読んだまま元に戻さず出ていったと考えるのが当然。


「……あまり姉さんの部屋には入りたくないんですが」


 溜め息を吐きつつ暫し逡巡する。それは別に片付いていないから、というわけでなく、姉の部屋に置いてある書籍の類にあまり触りたくないから、という理由だった。私以上に幅広く様々な作品に手を出す姉の部屋には、あまり私が好まないような作品がたくさんあるのです。具体的には官能小説など、ですが。


 別に、官能小説がある事自体に大きな問題は無い。私がそのような作品の中身などを見なければ良いだけですので。問題は、そういった作品が姉の部屋にあることを望さんが把握していることだ。


(望さんにだけは、姉さんの部屋に入るところを見られてはいけない……)


 去年の夏、中等部3年生であった私が書籍収集にネット通販を多く活用していた時期のことを思い出す。所持していない作品のリストを大雑把に作成し、とにかく片っ端から購入していた私は、当時官能小説というものをあまり知らなかったのである。なので、いくつかの作品をまとめて購入した時にそのような作品が混じっていることに気付いていなかった。


 私が学校に行っている間に配達された書籍類を受け取ってくれた望さんが、気を利かせて包装を開けてくれていたことが運の尽き。学校から帰宅した私を待っていたのは購入した覚えのない卑猥な表紙の書籍と、どこかぎこちなく困ったように笑う望さんであった。そして「そういうのに興味を持つ年頃だと思うけど……ほどほどにね?」と窘められた瞬間、私は官能小説というものが、いや、そういったアダルト作品全般がトラウマになったのである。


 つまり、望さんからすれば私が姉の部屋に忍び込むということは官能小説の類を読もうとしているということになるのである。そんなことになれば、せっかく鎮静化していた私の思春期疑惑が再び浮かび上がってしまう。1ヶ月ほど続いたあの居心地の悪い空気感に戻るのかと思えば、顔も熱くなりますし脚だって重くなります。


「……今、取ってきますね?」


 しかし、私は本棚が歯抜けになっていることも、続きが気になったままの調辺さんを放置することも、どちらもそのままにしておくことは出来なかった。望さんに見つかった時に理由を明確に説明してなんとしても納得していただくこと、それさえ出来れば問題など無いのですから。



 * * *



 書庫を出た私は、望さんが仕事をしている2階の書斎の向かい側にある姉の部屋を目指す。2階に上がる途中や上がってすぐに望さんと遭遇したならば、姉の部屋の横にある自分の私室に用があるということにしてやり過ごす。そう、上手く誤魔化しさえすれば問題は無いはず。


 ゆっくり物音を立てないように階段を上がる。耳を澄ませば書斎から微かに音が聞こえるので、望さんは仕事をしているはず。このまま上手くタイミングを見て姉の部屋に入れば、まず間違いなくバレることはありませんね。


「……ふぅ」


 なんとか物音を立てずに部屋に入ることができ、私はドアにもたれ掛かって深く息を吐く。しかしまだ終わりではない。様々なモノが散乱する姉の部屋から、目的の書籍を探し出して調辺さんの待つ書庫まで戻らなければならない。チラリと足元を見れば、明らかにそういった内容であろう肌色の多い表紙がいくつか見える。直視せず、踏みつけてしまわないように慎重に足を動かす。


(……本当に、少しくらいは片付けてほしいですね)


 恐らく目的の小説が置いてあるであろう学習机を目指し、極力周囲に目の焦点を合わせないようにしながら歩く。どの方向を向いても肌色が見える、なんとも形容しがたい地獄のような空間。


(いや、何でこんなにいかがわしい作品がたくさんあるんですか、姉さん……)


 今後少し姉から距離を取ろうか、などと思いつつ、1分ほど掛けてようやく目的の学習机にたどり着く。見覚えのある配色に目の焦点を合わせると、思惑通りに目的の作品を見つけることが出来た。物音を立てないように慎重に拾い上げ、クルリと踵を返し来た道を戻る。


(あ、あとは書庫に戻るだけ……)


 再び目の焦点をズラし、抜き足差し脚忍び足。思いの外順調に事が済み、少し気が緩む。いえ、ここはまだ姉のテリトリー。油断しないようにしなければならない。そう思っていたのですが。


「め、恵ちゃん……?」


「の、望、さん……!」


 私たちは同時にドアを開けてしまったのである。

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