放課後、あの教室で…。
月乃綾
第1話「成瀬君がいない日」
高校二年生の初秋のことだ。
黒板の端に、白いチョークで書かれた二つの名前が並んでいる。白地に黒々と「日直」と印刷されたプラスチック、その下に二枚の名前。並んでいるのは「成瀬」と「伊藤」。この千葉の公立校では、出席番号が誕生日順で決められているから、私と成瀬君が日直になったのはただの偶然にすぎない。だが偶然が、しばしば人の心にささやかな意味を付与することは、昔からあることだ。成瀬君と私が同じ日に日直──私はその偶然を、わずかに色づけて眺めていたい気分でいた。
成瀬凛。バスケ部に所属し、勉強もそつなくこなし、容貌も端正。教室という閉じられた世界の中で、それだけの条件をそろえれば、人気の的になるのが自然の理だろう。けれど近頃は、彼に霊感があるらしいと噂が流布してから、女子の囁き声は少しずつ色を変えた。畏怖と好奇。けれど、そのどれもに彼は振り向かず、ただ涼やかに笑っているように見えた。
木曜日の朝は重たい。週の終盤に差しかかる倦怠感と、まだ終わらない二日間への憂鬱が、靄のように教室を覆っている。あくびを噛み殺しながら入ってくる担任が、その空気に拍車をかける。私は視線をそっと後ろへ送る。教室左の最後列、成瀬君の席。だが、そこには人の姿がない。
「成瀬は体調不良で今日は欠席だ。」
担任の声が、乾いた板書の粉と同じくらい淡々と響く。その一言で、黒板に残された名前の片方──自分の名前だけが、不意に浮き上がって見えた。白いチョークの冷ややかな文字が、どうしようもなく無機質で、それを眺める胸の奥がわずかに沈む。
同時に、自分の中に潜んでいた小さな落胆に気づき、苦笑する。日直が一緒だからといって、特別なことなど何もないはずなのに。
だが現実には、号令も黒板消しも連絡事項も、今日一日はすべて私一人の肩にかかる。 そのことを思うと、さっき胸をかすめた感情がいっそう取るに足らないものに思えて、苦く笑いたくなった。 結局残るのは、ただの面倒くささと小さな溜息だけだった。
一限が終わり、チャイムが鳴る。ざわめく気配の中、私は仕方なく立ち上がる。
「起立、礼」
声はわずかに上ずり、教室の壁に反響して戻ってくる。座り直すと、頬に熱が残った。窓の外の光はまぶしいほどに明るく、けれど私の一日は、もうすでに最悪なものになる予感がしていた。
休み時間の喧騒が広がる。椅子のきしみや笑い声、廊下を駆け抜ける靴音。そんな中で教室の扉が横に開き、の和樹が顔をのぞかせた。私がなんとなくそちらを見ていると、あちらも私に視線を合わせてきた。
「伊藤ちゃん、成瀬いる?」
一ノ瀬和樹。2年5組の生徒で、私の幼馴染だ。成瀬君と同じバスケ部で、同じく霊感を持つ男。和樹は成瀬君とは比べるまでもなく、私よりも霊感は弱いのだが、彼のコミュニケーション力は私らと比べ物にならないほど高い。私は反比例の図を自然と頭の中で想像した。
名前を呼ばれて、不意に言葉が詰まる。
「今日休みなのよ」
「そっか」
諦めたように和樹は応じたが、なぜか教室から出ていかない。怪訝な視線を向けると、にかっと笑った。
「じゃあ、千鶴さんはいるかな?」
私は窓際左後方にいる千鶴の方を右手の人差し指で指した。和樹の表情から、最初から千鶴の居場所を把握していたのだろうと思った。つまり、彼は一人だとなんとなく話しかけづらいので、千鶴の親友の私に同行を求めているのだろう。
私は立ち上がり、和樹と共に窓際の千鶴の席へと歩み寄る。彼女はすでに本に夢中で、椅子に深く腰を下ろしている。その横顔は、わずかな揺らぎも許さぬほど凛としていて、彼女の生きざまを物語っていた。
二ノ宮千鶴。私のクラスメートだ。霊感持ちでスピリチュアルな成瀬君とは違い、千鶴は現実的で、具体的な事実や広い知識に基づいて思考するタイプだ。2人は似てるところもあるが、犬猿の仲と言っていいほど仲が悪い。私はこの二人のどちらかと一緒にいるときはもう一方の名前は会話に出さないように配慮しているくらいだ。
声をかけると、千鶴は手元から視線を外し、私と和樹を捉える。その表情は出会ったばかりのころより柔らかなものだ。
和樹は傍らの椅子を引き寄せ、続いて私の椅子も用意してくれた。私はそこにすとんと腰を下ろす。微かな興味を胸に。和樹がまた成瀬君や千鶴に相談事を持ち込んできたのだ。これは今日が少し楽しくなるかもしれない。
「うちのクラスで変な現象が起きていることは知ってるか?」と和樹が私たち2人に尋ねる。
千鶴は「知らん」と素っ気なく返す。だがその声色に、わずかに探るような気配が混じっていた。
和樹の話はこうだ。三日前から、和樹のクラスである2年5組の生徒が毎日二人ずつ立て続けに怪我をしている。しかも、その組み合わせには特に共通点がなく、仲の良い友人でもカップルでもない。むしろ接点の薄い組み合わせばかりだという。
初日──木村君が突き指をし、青木さんが膝をすりむいた。どちらも日常でよくある小さな怪我だ。
二日目は、北条君が腕を打撲して青あざを作り、西牧さんが手首を捻挫してテーピングをしていた。
そして三日目、牧野君が部活でひどい捻挫を負い、篠原さんは顔に目立つ大きな痣を作っていた。ここにきて、ようやく誰の目にも明らかな怪我が現れたということになる。クラスの人は皆まだその違和感を感じてないらしい。
三日間で合計六人。偶然にしては規則的すぎると思わないか、と和樹は言う。
「確かに3日連続っていうのは変だね」
私は和樹の意見に賛同する。
「そして、これらの各日の事件の共通点は2人ずつ怪我したってだけじゃない」
そういって、和樹は指でピースを作ってから、中指を折った。
「まず、事件はすべて放課後に起きているということだ。さっき言った人全員が放課後に怪我をしているんだ」
そして、もう一つと言って和樹は人差し指を振りながら千鶴の方をちらりと見た。試すような視線だ。
「男女一人ずつ怪我をしていることか」
「その通り」
和樹は満足そうにうなずいて言った。確かに初日は木村君、青木さん、2日目は北条君、西牧さんと、男女一人ずつである。
「僕はさ、みんなの怪我に何かしらの共通の原因というか、一連の現象を起こしている要素があるんじゃないかと思ったんだよ、で、成瀬か千鶴さんに話してみようと思ってな」
自分一人では何が起きているか分からないので、知恵を借りに来た、ということらしい。私と和樹は答えを求める視線を千鶴に向けた。
成瀬君の名前を出したとき、千鶴の眉毛がピクリと動いた。しかし、千鶴はすぐにすました顔になる。
和樹ほどの人なら、千鶴の前で彼の名が禁句であることは当然知っているはずである。和樹の心の端に潜む滅多に見せない意地悪が、ひそやかに顔をのぞかせたのだろう。私は非難の視線を向けると、彼は軽く目を逸らした。
千鶴はしばらく沈黙し、こめかみに指をあてて思考を巡らせている。そして難しい顔をしながら結論を口にした。
「第一勘は、錯誤相関だな」
偶然の重なりを、ひとつの因果として見てしまう錯覚。つまり和樹は、たまたま続いた怪我を「連続現象」と思い込み、共通の原因を探しているだけではないか、と千鶴は説明した。
和樹は「なるほど」と笑い、「確かに初日の二人の突き指や擦り傷なんて、事件というにはくだらない」と軽く認める。
だが千鶴は、そこで言葉を切り、視線を鋭くした。
「ただ、それだと説明できないことがある。一ノ瀬。お前はまだ私たちに言っていないことがあるな?」
空気が変わった。
千鶴が指摘したのはこうだ。三日目の怪我はともかく、突き指や擦り傷のような些細な怪我を、どうして和樹は「初日の二人」と断言できたのか。普通なら気づきもしないような小さな傷だ。和樹がそれらの怪我を把握できた、ということ自体がおかしい。人の怪我を逐一確認する趣味でもない限り。しかも同程度の怪我をした生徒は他にもいるかもしれないし、その程度の傷は本人たちもいつ怪我したかなんて覚えていないのが普通だろう。そのため、事後的に3日前の怪我した人物を特定するのにも通常は困難が伴う。
さらに違和感があるのは和樹が「三日間」と言い切ったことだ。四日前や五日前にも怪我人はいただろう。ささくれや擦過傷など、数え上げればきりがない。にもかかわらず、和樹は三日間だけを取り上げて、この3日の怪奇現象を一つの事件として説明したのだ。
私は背筋に嫌な汗を感じて和樹を振り返る。彼は笑みを浮かべたままだったが、その目は妙に輝き、期待に満ちているようにさえ見えた。
「さすが千鶴さんだ。頭がきれる」
和樹はうんうんとうなずき、心底感心したように笑みを浮かべていた。
千鶴は褒め言葉を受けても微動だにせず、むしろ「もったいぶらずにさっさと話せ」と言いたげな表情をしている。和樹は一瞬逡巡したようだった。しかし、彼は言葉を飲み込んだように見えた。前に、自分の不用意な発言で私や成瀬君を厄介なことに巻き込んでから、彼は言葉を慎重に選ぶようになったと思う。
「──ちょっと二人とも、来てくれるか」
和樹は椅子を引くと立ち上がり、私たちを置いて教室を出ていった。思わず顔を見合わせた私と千鶴も、その背中を追う。
廊下を歩きながら、和樹は前を向いたまま小さくつぶやいた。
「次に怪我するのは……間宮さんと高野だ」
「え?」思わず声が漏れる。
「おい、待て。一ノ瀬。どうしてそんなことが分かる」
千鶴の声にも、わずかな驚きがにじんでいた。
やがて私たちは二年五組の前にたどり着く。ここが、連日二人ずつ怪我人を出しているクラスだ。閉ざされた扉の向こうに何が待っているのか。胸の奥にざわりとした緊張が広がる。
和樹は私と千鶴を振り返り、私たちの疑問に答える代わりに、ガラガラと扉を開け放った。
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