先生、また明日
塩見花
早川-1
大学を卒業して2回目の春、私は立ち上がることができなくなった。
ワイシャツのボタンをとめる度に汗が吹き出す。靴べらに当てた
大粒の涙が流れ、足下を濡らした。横隔膜が痙攣して大きく肩を振るわせる。限界だった。私は一体何をしているのだろうと思った。ひとしきり泣いた後、ほんの少し残っていた冷静さを手繰り寄せて携帯電話を操作する。受話器を取ったのは母だった。
「今日にでも帰ればいいのよ。お父さんにも言っておくから」
懐かしい口調と、久しく触れていなかった人の優しさに、枯れたかと思っていた涙がまた溢れた。いくつになっても親に頼る自分が、なんだか情けなかった。
退職代行を使って一方的に会社を辞めた。必死に働いていた時は、急に辞めたらどんなに気持ちがいいものかと考えていたけど、そこにカタルシスなんてものはなく、時間をかけて、ただ虚無感だけが残った。病名がついたら立ち直れなくなる気がしたから、病院には行かなかった。
今後のことをしばらく考えて、学生時代から住んでいた安アパートを引き払って地元に戻ることにした。数人いた友人は働き詰めの生活の中、だんだんと疎遠になった。だから東京にはなんの未練もない。
桜花爛漫の美しい日、私の5年間はあっさりと幕を閉じた。
父と母は、優しく迎えてくれた。いつまでもいていいからな、なんて厳格な父には似合わない言葉が少しだけ気持ち悪かった。人の優しさすら悪い方向に見えてしまうのはきっと私が疲れているからなのだろう。それから
ある日、母校である小学校が閉校していることを聞いた。閉校こそしているものの、地元の人に対して自由に開け放してあるそうだ。たまには外の空気でも吸ってみたら、という母の言葉に従うことにした。どうせやることなどない。ただ、時間が会社と上司のことを風化させるのを待っているだけなのだから、私自身が風化しないように動かないといけないのかもしれない。そんな思慮を巡らせながら、簡単な支度をした。
学校までは徒歩30分程度離れている。その道のりをゆったりとした足取りで歩を進める。白線が引き直されたばかりのアスファルトの端を歩く。少し横にそれたら田んぼの泥がついてしまうから、気をつけて、まっすぐに進む。久しぶりの外はなんだか二日酔いの後のような、別世界に目覚めてしまったような感覚を覚えた。別世界なら願ったりか。と小さな声で呟いた。
忌々しい携帯電話はあの日から電源を切ったままだ。もっとも退職は完了しているのだから連絡がくることもないだろうが、兎に角着信音が嫌だった。今思えば、子供の頃から着信音に怯えていた。理由はよくわからない。学校で悪さをやらかして、小学校からの連絡が家に来たとか、そんな原因だったような気がする。
昔のことを思い出しながら、ほんの少しの小銭だけを持って、歩く。いつかの自分に戻ったような、なんとなく清々しいような気持ち。小学校は好きではなかったし、もはや記憶も薄いが、この道のりとこの風景は好きだ。水の張った田んぼは山々を写し、さながら逆さ富士のように光る。青鷺が何かを
具合を悪くしてから、少し感傷的になっているのかもしれない。最早後の祭りではあるが、地元で適当に進学して、適当に就職した方が幸せだったのではないか、なんて後悔にもならない想像をした。
小学校は当時と変わらぬ姿で、そこにあった。厳密には、プールの高い壁に閉校記念の絵が書いてあるとか、昇降口が閉鎖されていて職員入口から入るようになっていたとか、そういった閉校に伴う差異こそあるが、そのほとんどは記憶の中にあったままに残っていた。職員入口には「ご自由にどうぞ」と張り紙がされていた。緊張しながら引き戸に手をかけ、一呼吸おいてから半分程度開く。中に人はいなく、スリッパが詰められた段ボール箱が置いてあった。なぜか少し安心して、靴を脱いだ。
内装もあの時のままだった。いつかの記憶を引っ張り出して対比させる。賑わっていたはずの空間に、音もなく、人もいない。時が止まっているようだった。子供の頃の夏休みに、鶏小屋当番で学校に来た日を思い出す。何もかもが不安だった。本来休校の日に登校したら怒られるんじゃないか、とか。鶏たちの世話の手順は本当に間違いがないか、とか。餌に毒虫が紛れていて、一羽残らず全滅してしまうのではないか、とか。何かを常に恐れていた。そういった性分だった。それはきっと今も変わっていないのだろう。現に私はまだ緊張している。大人が急に出てきて怒声をあげられる想像が頭にこびりついて離れない。居もしない敵をそこにみていた子供の頃の心のまま、立ち止まっている。12歳か15歳か、それとも18歳かはわからないが、
こわばった足を少しずつ動かす。ここに怖い大人はいない。そう自分に言い聞かせて緊張を解くように促す。まったくやりづらい精神をもってしまった。
廊下を真っ直ぐに進むと、図書室があり、その隣には中庭へ繋がるデッキがある。ガラス戸の足元にはサンダルが二足用意されていた。中庭もご自由にお入りください、ということなのだろう。
デッキに出ると、柔らかな日差しが肌を照らす。毛布をかけたように程よく暖かい。中庭は、中央が開けており、北側に小さな池がある。その隣には立派な木が立っている。図工でスケッチをする時に定番のスポットだった。私も例に漏れず、ここで筆を持った経験がある。図工の成績は凡だったが、絵を描くことは嫌いではなかった。懐かしみ、この風景を描いた時のようにじっと木を見つめる。ほどよく手入れされた枝には、春らしく青々とした葉が茂っている。
カサ、と樹の皮で何かが動いた。どうやら虫がついているようだ。近づいて様子を見ると、セミの幼虫であった。今の季節は春、カレンダーは5月のはずだ。あまりに季節外れなそのセミはいそいそと上へ上へと登り、背中を割る場所を探している。
いつもであれば虫が好きではない私が、なぜこの時に限ってそうしたのかは分からない。いや、いくら虫好きであろうとそんなことしないのだろうが、その時は、限りなく、そうしなければならない気がしていた。私はそれを持ち上げて、口の中へ運んだ。
セミを生まれて初めて食べた。殻は思いの外柔らかく、噛み切るのが難しい。仕方なく奥歯ですり潰すようにして咀嚼した。ほとんどは土の匂いに覆われて本来の味はあまり分からなかった。長い前足が口の中に刺さり、少し痛い。正直あまり美味しくない。何故人はこんなものを食べるのだろう。いや、セミは一般的に食べるものだったろうか、そうだとしても刺身で食べるものなのだろうか。レシピ本に記載があっただろうか。そもそも現代日本では虫食はほとんどしないのではないか。
何故、私は。思考を巡らせていると、ぼんやりとしていた意識が少しずつはっきりする。口の中にふかふかした感触とモニモニとした何か柔らかい感覚がある。その瞬間、ラジオの周波数がピタリと合った時のように、一気に脳が冴えた。瞬間、その場で嘔吐した。鼻にこびりついた強烈な土の匂いがさらに吐き気を増幅させる。
全く意味がわからなかった。今私は何をしているんだ。ただ、木にセミが昇っているのを見ていただけだ。私はおかしくなってしまったのか。たまらずトイレに駆け込み気の済むまで吐き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます