クマさんに出会った?

「どうかね? 今夜、食事でも」

「・・・いえ。明日は早朝から出掛ける予定が有りますので・・・」

 ヘアリキッド? のにおいがくさい。

 髪に触れようと伸ばされた手をスルリと躱し、身体を舐めるように絡みついていた上司の視線から、私は逃げ出した。

「チッ。辛気臭い行き遅れに声を掛けてやったのに」

 逃げ出してきたばかりの給湯室の奥から忌々し気な中年オヤジの呟きが聞こえ、何かを蹴っ飛ばしたらしき音が無機質な廊下に響いてくる。


 しつこい。

 気持ち悪い。


 口数が少なく地味で陰気な私なら、都合の良い女として性欲の捌け口にできると思ったのだろう上司に、馴れ馴れしく口説かれたのは、もう十数度目になる。

 私って、人と話すのが苦手だから、言葉を探しながら話すせいで喋るのがトロいんだよ。

 新人類ジュニア世代だとか呼ばれる、少子化が加速し続けて止まらなくなったことが認識された頃に生まれた世代で中途採用組の私は、同期OLの中でも頭ひとつ飛び抜けて年上だから浮いているし、「あいつなら口説けば落ちますよ」と、三つ年下の同期が下心満載のスケベ親父を焚きつけている節もある。

 家庭環境が複雑だった私は陰湿なイジメなら学生時代にも散々に遭ったし、対処法なら心得ているけど、この会社にいるのもそろそろ限界かな、と思う。

 以前の勤め先でも、同じようなことが有って、何度か転職を経験しているので、転職すること自体には、もはや躊躇いは無い。

 今の職場は自宅の賃貸マンションからの通勤が、電車の乗り換えが無くて楽だったのだが、粘着質な男に言い寄られるのは私の心が耐えられない。


 男なんて、みんな死ねばいい。

 女もみんな、死んでしまえばいい。

 人間なんて嫌いだ。

 私のことなんて、放っておいてくれればいいのに、人間の悪意だけは、どこまでも私を追ってくる。

 溜息が出る。

 引きこもりで生きていければ最高だけど、生きていくには、最低限は人間との関わりを持って働かざるを得ない。

 この月末を迎えれば、私は31歳になる。

 さっさとババアになれれば少なくとも男は寄って来なくなるのに、と、いつも思う。

 愛想も良くなくて高卒の事務職だけど、こつこつと何かをしたり、整理したりするのは得意な方だし、子供の頃から暇潰しで色々と勉強したから学業の成績は悪くなく、学生時代の内から年齢的に取れる資格は取れるだけ取っているし、独学だけど語学も数か国語は片言レベルで話せるから、新しい転職先は何とか見つけられるだろう。

 大学? 家庭事情で行く余裕なんて無かったけれど、高望みをしなければ、低学歴でも生きて行くぐらいは出来るもんだよ。


 ヨシ、会社を辞めて転職しよう! と心の中で決意をしたら、鬱屈しかけていた気持ちが楽になった。

 季節は春。

 世間も別れと再出発の季節だから、転職しても、何ら、おかしくない。

 明日の休日は朝から、テントを持って一泊二日の山菜採りに出掛けるのだ。

 まだ夜は冷えるだろうけど、天気が崩れる気配は無いから綺麗な星空も見られるはず。

 寒さが緩んで暖かくなった日差しに草木の新芽が萌えて、人間社会の澱んだ空気とは違う清々しい野山の空気を、胸いっぱいに深呼吸するのだ。

 連休ではなく通常の週末だから、ワナ猟でジビエ料理をする予定は無いけど、採れたての山菜で天ぷらでも揚げようかな。

 熱々サクサクの天ぷらでキンキンに冷えた缶ビールをキューっとやる。

 よしよし、ちょっと元気が出てきたから、定時退勤の時間まで仕事を頑張ろう。




(・・・で。こんな終わり方なのかあ・・・)

 頸椎に損傷を負ったのか痛みも感覚も無く、視覚を失っていて耳しか聞こえないけど、バキボキ、くちゃくちゃ、と、何かを嚙み砕く音と、柔らかいものを咀嚼する音、そして、獣の荒い息遣いだけが聞こえてくる。

 振り返った一瞬しか見えなかったけど、ヒグマだったと思う。

 ツキノワグマは何度か遭遇したことがあるけど、明らかに大きさが違った。

 タラの芽を摘んでいて、何かが枯れ葉を踏む小さな音に気付いて振り返ったら、頭に強い衝撃を感じて意識が飛んだ。

 本州には生息していないはずなのに、なんでヒグマが? と思うけど、もう、どうでもいいよね。

 だって、私、食べられちゃってるんだもの。

 はぁ・・・。

 生き残るために、いっぱい努力してきたのになあ。

 そんなことを考えているうちに、私の意識は闇の底に沈んで消えた。


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