違和感の食卓 2

 食卓に並んだ料理は、早々に片づけられていった。

 慎の箸の動きは、目覚めて間もないとは思えないほど滑らかで、次から次へと口に運ばれていく。トーストはあっという間に食べきり、スクランブルエッグの皿もすでに空。ソーセージも最後の一本にかぶりついていた。

「ねえ、まだある?」

 そう言って、慎はジャムで汚れた口元のまま、にっこりと笑った。

 満足そうなその笑顔は、まるでこれから“食べ始める”人間のもののようだった。

「さっき食べたばかりだろ」

 新聞を折りたたみながら、悠一が苦笑する。

 慎の前の皿には、まだサラダが少しと、トーストの耳が残っている。それでも彼は、手を止めたまま、「もっと食べたい」という目で母のほうを見た。

「パン、もう一枚焼こうか?」

 美沙が柔らかい声で言った。

 母親としては自然な反応だ。ただ、その“自然さ”がどこか演技じみて聞こえたのは、気のせいだろうか。

「うん!」

 慎は無邪気に笑い、椅子の上で足をバタつかせた。

 再びキッチンからパンの焼ける匂いが立ちのぼる。タイマーの“チン”という音がやけに甲高く、部屋の空気を震わせたように感じた。

 焼きたてのトーストを口に入れた慎は、「あつっ」と言いながらも、そのままもぐもぐと食べ続ける。食欲はとどまるところを知らない。

 だが数分後、慎はパンの端を残したまま、ふと手を止めた。

「……もう、お腹いっぱい」

 そう言って、慎は皿を押しやり、椅子の背にもたれかかるように上体を預けた。

 額にはうっすらと汗がにじみ、白い肌が少し青ざめているように見えた。

「大丈夫か?」

 悠一が声をかけたとき、慎は笑顔のまま、ゆっくりと頷いた。

 が、その直後だった。

「……ねえ、パパ。お腹、すいた」

 再びトーストに手を伸ばしながら、慎がそう言った。

 目の前の皿には、ついさっき「お腹いっぱい」と言って残したパンがある。なのに、また「すいた」と言う。その表情は本気のようで、からかっている様子はない。

 どういうことだ……?

 頭の中で違和感が警鐘を鳴らす。

「食べすぎじゃないか。ちょっと休んだ方がいいぞ」

「ううん、大丈夫。ぜんぜんお腹いっぱいじゃないよ」

 慎はそう言いながら水を飲もうと、コップを手に取った。

 しかしその手が、小刻みに震えている。指先がグラスの縁をかすめ、水がこぼれ、テーブルクロスに滴り落ちた。

「慎……!」

 思わず身を乗り出す悠一。その目に、慎の指先の震えと、顔の青ざめた肌色、唇の微かな紫色が焼き付いた。これはただの“食べすぎ”ではない。

「ちょっとおかしいな。……美沙、今日は病院に連れて行こう」

 悠一はそう言いながら、慎ではなく、美沙に視線を向けた。

 父親の直感――いや、医者ではないにしても、大人としての常識からも、これは異常だ。

 だが美沙は、それでも穏やかな笑みを保ったままだった。

「子どもはね、こういう時期あるのよ。よく食べて、急に疲れて、また食べたくなって……成長期だから、きっと身体が追いついてないのよ」

 さらりとした口調だった。

 でも、その“さらり”が逆に引っかかった。

 母親ならもっと焦るはずだ。こんな様子を見たら、心配の色くらい滲むはず。なのに、美沙の笑顔は微動だにせず、口角が妙に、引きつっていた。

「……大丈夫。病院なんて、大げさよ」

 その言葉に、悠一は言葉を失った。

 冷静を装っているというより、何かを“否定しようとしている”ような気配。何かを見ないようにしている、そんな雰囲気が滲んでいた。

 慎はというと、またパンを口に運びながら、ふと口を開いた。

「でもね……食べても食べても、まだ誰かが食べてる気がするんだよね」

 パンを噛みながら、そう呟いた。

 カリッ、もぐもぐ。

 その言葉が、再びあの音と重なるように響いた。

「ん? 誰かって……?」

 悠一が問いかけようとしたその瞬間、

「そういえば、冷蔵庫の牛乳、なくなっちゃったわね」

 美沙が唐突に、声のトーンを変えて話題を切り替えた。

 その声は、会話を“強引に蓋する”かのように被さり、慎の言葉は、たちまち空気の中に吸い込まれて消えた。

「今日の帰りに買ってきてくれる? いつものじゃなくて、あの濃いめのやつ」

「……ああ、いいけど……」

 美沙の目は笑っていたが、その奥にあるものは、読み取れなかった。

 パンの端をもぐもぐと噛みながら、慎は「なんでもないよ」と笑った。

 その笑顔は、ほんとうに“子どもらしい”ものだった。だからこそ、悠一の胸のざわつきは消えない。

 咀嚼音がまたひとつ、余分に聞こえた気がして、彼は無意識にテーブルの“空いている席”を横目で見た。

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