七日後の食卓

@no_na_me

第一章 違和感の食卓

違和感の食卓 1

 その朝は、湿った曇り空が空を覆っていた。

 まるで雲が空の蓋となって、世界の色味から青を奪ったような、どこかしら鈍い光。窓から射す自然光は弱く、カーテン越しに広がるリビングには、朝らしい清々しさよりも、一歩手前の黄昏のような影がうっすらと漂っていた。

 家は郊外の住宅街にある一軒家。周囲には同じような家が立ち並び、小さな庭や垣根で区切られている。季節は初夏に差し掛かる頃で、本来なら朝の鳥たちのさえずりがにぎやかに響くはずなのに、その日は妙に静かだった。

 聞こえてくるのは、遠くの電車の通過音と、かすかな風のうなり声。かろうじてホトトギスの声が一度聞こえたきりで、それもすぐに消えてしまった。

 キッチンからは香ばしい匂いが漂ってきていた。パンが焼ける匂いに、バターと卵の香り、ソーセージの脂がじんわりと空気に溶け込んでいる。朝の食卓が、ゆっくりと形を成していく。

 白い食器に盛られたトースト、ふわふわとしたスクランブルエッグ、焼き目のついたソーセージ、新鮮なレタスとトマトのサラダ、そしてテーブルの中央にはコーヒーポットから注がれたばかりの、湯気の立つマグカップが三つ。

 父・悠一は、椅子に腰掛けて新聞を広げていた。

 だが、紙面を目で追ってはいるものの、内容はほとんど頭に入ってこない。頭の片隅には仕事のことが、さらに奥には、昨晩の妻の言葉が薄く残っている。いや、言葉というより、言わなかったことの方が、気になっていた。

 ふと顔を上げると、向かいに妻の美沙が立っていた。エプロン姿のまま、テーブルの並びを確認して、コーヒーの位置を少しだけ直す。

「ありがとう、美沙。……いつも、助かるよ」

「何言ってるの。家族の分、当たり前でしょ?」

 そう言って微笑む美沙の顔は、いつも通り穏やかで、きれいに整った前髪の隙間から覗く目元は、相変わらず優しげだった。けれどどこか、いつもより声が静かすぎる気がして、悠一は言葉を継がず、また新聞に視線を戻した。

 息子の慎は、すでに席についていた。小学校の低学年に上がったばかりで、まだランドセルが背中に馴染んでいない。眠たそうに目をこすりながらも、手はしっかりと動いている。トーストに、たっぷりとジャムを塗っていた。

「慎、それ……かけすぎじゃないか?」

「いいじゃん、甘い方がおいしいんだよ」

 パンの端までジャムを伸ばして、さらにもう一匙。甘い匂いが濃くなった気がする。

 悠一が呆れ顔で見ていると、横から美沙がフォローを入れる。

「ちゃんと全部食べればいいのよ。ね?」

 そうして慎は頷くと、さっそくガブリとパンにかぶりついた。

 ――カリッ、もぐもぐ。カリッ、もぐもぐ。

 パンを噛む音、卵を咀嚼する音、ソーセージの皮がわずかに破れる音。

 それぞれの口の中で進行していく“朝のリズム”。不規則なようで、奇妙に調和していた。

 悠一もトーストに手を伸ばし、ひと口かじった。ちょうどいい焼き加減。少し硬めの耳が、奥歯に触れて、微かに響く。

 そのときだった。

 ――あれ? 今、音……ひとつ、多くなかったか?

 一瞬、音が四つに聞こえた。

 三人分の咀嚼のリズムは理解している。美沙の柔らかな咀嚼、慎の早食い気味な歯音、自分の噛みしめるテンポ。

 だが、今――たしかに、もう一つの咀嚼音が、重なるように混ざっていた気がした。

 気のせいか? と、自分に言い聞かせる。

 気配を探るように、目だけをゆっくり動かす。壁にかかった時計が、淡々と秒を刻んでいた。カチ、カチ、カチ……。

 新聞をめくるふりをして、テーブルの中央を見やると、コーヒーの湯気が、わずかに揺れていた。

 それだけなら普通のことだ。だが、その揺れ方が、まるで何かに引き寄せられるように、横に流れている。

 しかもその方向は――空席になっている、あの椅子のほうだった。

 ひやりとしたものが背中を這った。

 何の風もない室内で、湯気が一方向に揺れる理由などないはずだ。エアコンも止まっている。扇風機もない。

 悠一は、無意識のうちに目をそちらへ向けた。

 もちろん、椅子には誰も座っていない。だが、その空間が“空”だと信じるには、ほんのわずか、視界に重みのようなものを感じた。目では見えない、しかし確かにそこに何かがあるような……。

「冷めないうちに、どうぞ」

 美沙の声が、いつもの調子で空気を割った。

 その声をきっかけに、空気がリセットされるように、慎がまたパンにかじりつく。悠一も新聞をたたみ、表情を整えてマグカップに手を伸ばした。

 再び朝の音が満ちる。カチャ、もぐもぐ、ジャムを塗るスプーンの音。

 すべてが、よくある朝の風景に戻ったようだった。だが――

 胸の奥には、確かに小さなざわめきが残っていた。

 それは心の隅で膨らんだまま、言葉にもならず、ただ静かに揺れていた。

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