三十五睡目 終業と睡眠と(夏)

 終業式の日。

 蒸し暑さと眠気がないまぜになった体育館の空気の中、校長先生の声がマイク越しに響いていた。


 「みなさん、それぞれの目標をもって、この夏休みを有意義に……」


 マイク越しの大きな声なのに、どこか遠くに霞んで聞こえる。長々と続く言葉は熱気に溶け、誰の耳にも届かないまま宙に漂っているみたいだった。

 天井の扇風機がうなりを上げて回ってはいるけれど、熱気をかき混ぜるばかりで風は一向に届かない。背中にはじっとりと汗が張りつき、制服の襟は重く、息苦しく感じられる。


 あちこちの列から、抑えきれないため息や、椅子のきしむ音が絶え間なく漏れていた。前の方の男子が制服の裾で首筋を仰いでいるのを見て、私も思わず同じことをしたくなる。けれど、――やめた。

 隣の鳴古が、まぶたを半分閉じながらも、ちゃんと壇上を見ていたからだ。


 いつもと同じ眠たげな横顔。けれど、瞬きの合間に視線を真っ直ぐに上げる仕草は、不思議と真面目に見えた。汗で額に貼りついた前髪を、無造作に指先で払う動作も妙に自然で――そんな些細な仕草にさえ、目を奪われてしまう。

 

 眠そうなのに、真面目で。だるげなのに、ちゃんと立ち向かっている。そんな矛盾した姿が、なんだか可愛らしくて。


 「それでは、生徒指導の先生から――」

 

 校長先生がようやくマイクを置いたかと思えば、今度は別の先生が登壇する。ざわりと広がる落胆の空気。体育館そのものが、さらにもう一段、重く沈んだような気がした。


 「長いね……」

 

 心の中で小さくつぶやいたときだった。

 視界の端で、鳴古があくびをかみ殺すのが見えた。口元を手で隠して、肩が小さく上下する。


 その姿を見た瞬間、どうしようもなく笑いがこみあげてきた。


 結局、終業式は一時間以上も続いた。ようやく「これで終わります」という言葉が聞こえたときには、体育館の空気全体がほっと息をついたように揺れた。椅子の脚が床を一斉にきしませ、列がぞろぞろと動き出す。だるい空気が大きく揺れて、ようやく閉じ込められていた時間から解放されるような気分になった。


 扉が開かれると、眩しい夏の光がいきなり差し込んでくる。むっとするほど熱を含んだ風も一緒に流れ込んできて、でも体育館のこもった空気よりはまだましで、みんな一斉に深く息を吐いた。


 「ふぅ……やっと終わったね……」

 

 思わずこぼした私の言葉に、隣で鳴古が小さくうなずいた。

 

 「……長かった。校長先生、話長い……」

 

 声まで少し眠たげで、語尾が溶けるように曖昧だ。


 「確かに、ちょっと長かったかも。」

 

 汗で重くなった制服の袖をぱたぱたさせながら答えると、鳴古は欠伸を噛み殺すみたいに目を細める。

 

 「……半分寝てた。」

 

 「やっぱり。」


 思わず吹き出した。

 眠そうな目元に、まだ熱気に当てられたけだるさが残っていて――それでも靴を履き替える仕草は妙にゆっくりで、本人なりに頑張っているのが伝わってきた。


 昇降口を抜けると、アスファルトが陽炎を揺らすような真夏の光景が広がっている。眩しさに目を細めながら、私たちはようやく外に踏み出した。


 夏の空はどこまでも高く、じりじりと照りつける太陽が眩しかった。アスファルトの道に揺らぐ陽炎の向こうに、見慣れた帰り道が続いている。


 「ねえ、夏休み……」

 

 私が言いかけると、鳴古は横目でちらりとこちらを見た。

 

 「……なに、鳴古専属係の真白。」

 

 「ちょ、なにそれ!」

 

 「……夏休みも、係の仕事あるのかなって。」

 

 「そんな係、ないから!」

 

 思わず頬が熱くなる。でも、こうやって笑われるのも嫌じゃない。


 「いっぱい、一緒に遊ぼうね。」

 

 自然に言えた。気負わず、でも心の奥にずっとあった気持ちを。


 「……遊ぶって、何を?」

 

 「うーん、プールとか……夏祭りもあるよね。あと、花火! 一緒に見たいな。」

 

 「……真白、浴衣似合いそう。」

 

 「え、なに急に?」

 

 「……いや、想像しただけ。」

 

 鳴古の声はいつもの半分眠そうな調子なのに、目だけがほんの少しだけ笑っていた。


 「宿題は早めに終わらせて、時間いっぱい使って……そうだ、どこか遠出するのもいいかも。」

 

 「……真白、計画詰め込みすぎ。」

 

 「だって、楽しみだから。」

 

 「……じゃあ、私は真白の計画に文句つける係。」

 

 「え、なにそれ?」

 

 「……うそうそ。ちゃんとついていく。」


 思わず笑ってしまう。

 鳴古は、ほんの少し口角を上げてこちらを見ていた。その笑みはからかい半分、けれど確かに隠しきれないわくわくがにじんでいる。


 「プールって、朝から行くの?」

 

 「うん。どうせ混むし、早い方がいいよ。」

 

 「……眠い。」

 

 「ダメ。朝から行って、お昼はアイス食べて、午後も泳ぐの」

 

 「……真白のスパルタ計画」

 

 「スパルタじゃないよ、楽しむ計画!」


 「夏祭りは……浴衣か。」

 

 「着るよ。今年は新しいの出そうかなって思ってて。」

 

 「……真白が浴衣着たら、人混みで見失いそう。」

 

 「え、なんで?」

 

 「……可愛すぎて。」

 

 「な……っ」

 

 耳まで熱くなるのを自覚しながら、思わず足を速める。でも鳴古は気にせず、眠そうな足取りで追いかけてきた。


 「……花火は?」

 

 「一緒に見たいね。」

 

 「……それは、同意。」

 

 短く言ったその声が、不思議と真剣で。胸の奥がじんと熱くなる。


 「……うん。真白となら、どこでもいい」


 その短い返事に、胸が熱くなる。蝉の声が一斉に響く中、私たちの影は並んで夏の道に伸びていた。

 からかわれているはずなのに、そこに隠しきれないわくわくが混じっているのが分かる。

 ワクワクと、少しだけ不安もある。けれど確かに、私たちの夏は今、始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る