現場
一時間半ほどで食事を終え、中華料理店を出た。
匠が美味しそうに麻婆豆腐を完食した事が、利玖には信じられなかったが、彼は利玖にも何か食べるよう再度勧めた。井領家に戻った後は、もっと食欲がなくなるような話をするつもりなのだろう。突如として浮上した三つ目の仮説が、それに関わっているに違いない。
別に、反発した訳ではないのだが、利玖は鉄観音しか飲まなかった。幸い、頭の中はともかく、体の調子は悪くない。
駐車場に車を停め、門をくぐった後は、母屋の中に入らずに塀の内側に沿って歩いた。客殿の横を通り過ぎると、視界が開けて庭の北側に出る。
〈壺〉の周りでうごめく黒装束の集団が見えた。遠目にはいかにも異質に見えたが、近づいてみると、黒いスーツの数人の男女が地面に這いつくばって、めいめいに手を動かしている所だった。
一人だけ、全体を眺めるように少し離れた所で立っている青年がいる。ラガー・マンのように屈強な体格で、筋肉に押し上げられるスーツが苦しそうだ。
透は、背後から彼に近づき、
「よっ、
と気安く肩を叩いた。
野端と呼ばれた青年が振り返り、鼻を鳴らす。
「遅いですよ、先輩」
「悪い、悪い」透はひょいと首を前に出して、地面の様子を見た。「もう、あらかた終わった?」
「ええ」野端は頷き、山手の木陰を指さす。「儒艮は、あちらに移しました。ここだと人の行き来がありますから」
野端が指さした方に顔を向けて、透は眉をひそめる。儒艮の死体はビニル・シートで密封するように指示したはずだが、むっと、饐えたような臭いが漂ってきたからだ。
その胸中を読んだように、
「腐敗がひどいですね」と野端が言った。
「ここ、確かに何だか、変に温かいですけれど……。引き揚げられて、まだ半日とかでしょう? ちょっと予想外で、手こずりましたよ」
「そう……」透は半ば上の空で答えながら、辺りを見回す。「杏平さんと藍以子さんは?」
「さあ、母屋じゃないですか。一度も見ていませんよ」
そこで、野端の視線がちょっと揺れた。
「先輩、ちょっと……」
彼が指先で作った小さなサインを見て、透は片方の眉を上げる。
「あ、煙草ね」彼女は言った。「じゃあ、ついでにわたしも一服させてもらおうかしら」
「そこの庭木戸の前が、一番近い喫煙所ですよ」後ろで佐倉川匠が指をさしている。「スタンドの灰皿があります」
「ありがとうございます」
透は、微笑んで会釈すると、野端と連れ立って歩き始めた。
途中で振り返ると、佐倉川兄妹が〈壺〉を離れ、母屋がある南側へ庭を下っていくのが山椒の枝葉越しに見えた。
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