中華料理店

 昼食を食べておらず、夕食もまだだと伝えると、透は目を丸くして「あらま」と言った。

「ひとっ走りして、何か買ってきましょうか。お弁当でも、カップ麺でも」

「いえ……」匠は首を振る。「息抜きに、外で食べようと話していた所です。候補がないので困っていますが」

「この辺、ちょっと探索にコツがいりますよねえ」透はころころと笑って、髪を払った。「実は、わたしもまだなんです。中華料理で良ければご案内出来ますが、いかがでしょう?」

 匠が利玖に向かって、どう? と訊ねるように首をかしげる。利玖は頷いた。

「じゃあ、そこでお願いします」

「やったぁ……」透は指を鳴らして片目をつむる。「じゃあ、ちょっとだけ、待っていてくださいね。部下を門の所で待たせているので、出かける事を伝えてきます」

「一緒に来てくださるんですか?」匠が驚いたように言う。「我々は助かりますが、部下の皆さんにご迷惑をかけるのでは……」

「ご心配なく」透はにっこりと笑って茶封筒を掲げた。「元々、わたしは佐倉川さんに調査結果をご報告してから現場入りする手筈でしたから。何も問題はありません」

「あ、そうか、それなら、僕も一緒じゃないと」匠が、思い出したようにドア・ハンドルを引いて車から降りる。「合鍵を預かっているんです。杏平さんは仕事中で、藍以子さんも、自室でお休みになっていますから」

 並んで母屋の方へ歩いていく二人の後ろ姿を見ながら、利玖は首をひねった。

 透がまとめた調査結果を最初に聞くのが兄だというのが、不思議な気がした。

 杏平や藍以子がいる場では言えないような内容なのだろうか……。



 匠が、先に一人で戻ってきて、しばらくしてから社用車の王道のような白いバンが門の方から出てきた。駐車場の入り口まで進んできて、一度、ブレーキを踏み、運転席の窓からほの白い右手だけが覗く。それが招くようにすいすいと動いた後、低速で発進した。

「先導してくれるみたいだ」匠がパーキング・ブレーキを解除して、車を発進させる。

「代わりに買ってきましょうかって、最初に言ってくれましたし、親切な方ですね」

「僕の所に来る請求書に上乗せされるんじゃないかな」

「ああ……、なるほど……」

 国道に出て、駅前通りを少し走った。連休の真っ只中だが、ほとんどが個人商店、あるいはシャッタを下ろした廃ビルで、あまり明るくなく閑散としている。

 目的の店は、ほぼ立方体のコンパクトな建物だった。外壁は真っ赤に塗装されていて、昼間ならさぞ目立つだろうが、今は、道路沿いの光も届かない為、軒先に吊るされた提灯の周囲だけが幻想的に浮かび上がっている。

 砂利敷きのがらんとした駐車場に車を停め、店の入り口で透と合流した。真上に大きな横長の看板があって、店名らしきものが書いてある、しかし、利玖が知らない文字なのか、意図的に崩されたものなのか、読む事が出来なかった。

 扉を開けて中に入ると、エプロンをかけた若い女性が近づいて来た。

「個室、空いてます?」透は指を三本立てて訊く。

「空いてます」女性店員が答える。少しぎこちないイントネーションだった。ひょっとしたら日本語のネーティヴではないのかもしれない。「二階にどうぞ」

 三人は、木製の階段を上がり、天鵞絨びろうどのように光沢のある幕で覆われた一画に入った。木目を活かした重厚な造りのテーブルがあり、そこに椅子が四脚収まっている。

 透は、匠と利玖に奥の椅子を勧め、自分は通路に近い椅子に座った。

「さて、さて」透が声を弾ませてメニューを広げる。「まずは炒飯、これは外せませんね。あとは麻婆豆腐と……、あ、酢豚! 前に来た時は、売り切れだったんだよなあ。うん、食べよう、食べよう」

 透が左手の指をどんどん折り曲げて頼む物を決めていく。放っておいたらまだまだ増えてそうな勢いである。

 しかし、利玖はそこまで食欲がない。横目で兄を見ると、彼も渋い表情で頷いた。

「すみません」匠が声をかける。「僕ら、ちょっと食欲がないんです。たくさん頼んで頂いても食べ切れないかもしれません」

「え?」透は顔を上げて、それから照れたように瞬きをする。「ああ、すみません。腹ぺこだったので、つい……。心配しないでください。今のは全部、わたしが食べるつもりですから」

 透はメニューを逆さに回して、利玖達に読みやすいようにして渡す。

「お二人も、食べたいものを頼んでください」

「じゃあ、僕も炒飯を」匠は即答する。

 利玖はページをめくって、順番に文字と写真に目を通した。だが、どうしても、強く食欲をそそられるものを見つけられない。唯一、心惹かれたのは、ドリンクのページに並んだ茶の銘柄の一覧だった。

「わたしは、これを……」

 透が身を乗り出して、利玖が指さしている箇所を覗き込む。

「鉄観音」彼女は声に出して読み上げた。「えらく強そうなお名前ですな」

「お茶ですよ。烏龍茶の一種です」

「ほう……」

「それだけ?」匠が眉をひそめた。「明日の朝まで食事は出ないんだよ。何か食べなさい」

「いえ、良いんですよ」透が微笑んで利玖からメニューを受け取った。「無理に食べるのも辛いでしょう。でも、途中で、あ、食べたいな、と思ったら、遠慮なく言ってくださいね」

 透の気さくな口調に、利玖は、ほっと心が癒えるのを感じた。鉄観音を飲んだ後だったら何か食べられるかもしれない、という希望を抱ける程度には、気分が良くなったのである。

 透がまとめて注文を行い、十五分ほどですべての品がテーブルに揃った。しばらくの間、三人とも料理、あるいは飲みものを味わう事に集中したが、匠が炒飯を食べ終えて水のグラスに手を伸ばした所で、透が皿をテーブルの隅に寄せ、例の茶封筒を取り出した。

「お電話を頂いて、調べましたが、残念ながら儒艮についてめぼしい情報は得られませんでした」透は、封筒から取り出したコピィ用紙をテーブルに並べながら話す。「私どもも、過去に何度か調査の申し入れを行っておりますが、すべて断られています」

 利玖が驚いて顔を上げると、透は柔和に微笑んだ。

「儒艮の祝福を受けて虫や獣を寄せ付けなくなった山椒、なんていうのはたまらなく興味をそそる代物ですからね。許可を頂けるのなら、是非、こちらの施設で詳しく調べてみたかった」

「……わたしに『十二番』を送って、歯を揃えさせようとした、あのサルのように?」

「ええ」透は頷く。「そういうものに渡りをつけて、遺恨を残さないように『丸める』のが我々の仕事です。──そう、先頃、あざが世話になったそうですね。利玖様に、どうぞよろしくお伝えくださいと申しておりましたよ」

「いえ、そんな」利玖は首を振り、チョーカーに触れた。「お世話になったのはわたしの方です。この石も、頼んだ通りに加工してくださって……」

「ああ、彼の助手が石マニアですからね」透は興味深そうに身を乗り出す。「へえ……、確かに、一般的なりょうらんせきとは、ちょっと違うようだ。よろしければ、少し見せて頂いても?」

 利玖は頷き、チョーカーを外して透に差し出す。透は、慣れた手つきで懐から薄い手袋を取り出すと、それを填めてからチョーカーを受け取った。

 蛉籃石は、別名「異界の守り石」とも呼ばれる。異界や、異形のモノ達から人間を守る力を持つ石で、利玖は今年の一月にかしわさんのヌシからこれを授かった。その性質上、常に手もとに置いている事が望ましい為、チョーカーとして身に着けている。

 チョーカーに仕立ててもらった時には、ファセット・カットを施され、いくつものプリズムを内包したスフェンのような輝きを放っていたのだが、薊彌の助手・あしづきにさらに強力な守りの加工を施してもらった後は、形も色もがらりと変わって、まるで森のみどりを一滴だけ飲み込んだバロック・パールのように淡い緑に色づいて、控えめな光沢を纏っている。しかし、その見た目が、利玖は前よりも気に入っていた。

「素晴らしいですね」透が目を細める。「芦月氏には、わたしも何度か仕事を頼んだ事があるのですが、鑑定だけではなく、加工の腕まで、これほど確かなものだとは……」

「こちらの報告書にも、石についての記述がありますね」コピィ用紙に目を通していた匠が口を開いた。

 利玖が、透から返してもらったチョーカーをつけ直しながら顔を見上げると、彼はコピィ用紙の中から一枚の写真を抜き出してテーブルに置く。

 カタログの一部を抜粋したものだろうか。サイズを示す目盛りと一緒に、やや縦長の石が写っていた。文字は彫られておらず、全体的に藻が張りついたような模様が浮かんでいる。

「かなり大きなものですね」利玖は目盛りを読んで言う。「でも……、これは……」

 墓石というには、あまりにもいびつだ。文字が入る前の石碑に近いが、そうだとすると、今度は逆に小さ過ぎる。

 匠が、コピィ用紙を置いて透を見すえた。

「これは、塚に置くものですね?」

「ええ」透は頷き、顔の前で両手を組んだ。「山椒を調べさせてほしいという我々の申し出は、断られてしまった訳ですが、まったくの無駄足でもなかったようです。藍以子さんのお母様──りょうさんが、当時の担当者の名刺を見つけて、この石をご購入なさっています。その際、どこに置かれるのか、他人に譲渡するご予定はあるか、主な目的は何か、などのご質問にも答えて頂きました」

「ま、待ってください」利玖は、思わず片手を出して遮った。「そんな個人情報を、わたし達が聞いて良いのですか?」

 透は、それには答えずに、ちらっと匠に目配せをする。

「杏平さんが、話して良い、と言っただろう?」匠はそう説明した。「トレード・オフだよ。今回の一件で、決定権を持っている井領家の人々と話す前に、現地の状況を実際に見た僕らの話と照らし合わせて、カードを増やしておきたいんだ」

「ま、おおむね、その通り……」透は頷き、とん、とテーブルの隅を指で打つ。

「千紗さんは、こうお答えになりました。この石は、供養の為に使う。井領家の塀の外には、決して出さない。自分の死後は、子ども達に所有権を引き継がせる」

「それなら、十中八九儒艮絡みでしょうね」匠は、利玖の前に写真をスライドさせた。「おまえ、これと同じものを、どこかで見たかい?」

 利玖は写真を手に取って、じっと見つめた。庭で目にした景色を、一つ一つ、細かい所まで思い出しながら考えたが、何もひらめかない。

「すみません」利玖は首を振って、透に写真を差し出した。「あちらのお庭は、木立に隠れる場所も多いですから……。初めから、探すつもりで見ていれば、気づいたかもしれませんが」

「いえ、いえ。ありがとうございます」透は写真を受け取り、眉を曇らせる。「こちらで行ったのは、石を門の手前まで運ぶ所までで、その後の設置は千紗さんご自身が行われたようです。かなり前の事なので、閲覧出来る情報も限られていて……」

 透は写真をテーブルに置き、しばらく頬杖をついていたが、やがて、スロウ・テンポで写真の隅を指先で叩きながら、

「これは、噂に過ぎない、と思っていたのですが……」

と切り出した。

「石をご購入された時、千紗さんのお体の加減が良くないようだった、という話があります」

「病死とお聞きしましたが……」と匠。

「ええ」透は頷き、腕を組んだ。「ですから、こんな風にも考えられる訳です。病気になり、気弱になった千紗さんは、かつて井領家の先祖が殺してしまった儒艮を弔う事で、その苦しみが和らぐかもしれないと思った。それなら、設置に我々の手を借りなかった事にも納得がいく。自分が苦労をする事に弔いの意味がある、という解釈です」

「でも、確か、藍以子さんのお母様は、嫁がれて二年もしないうちに亡くなられたと聞きました」利玖は思い出しながら言う。「そんなに短い間に、自分の病気と、儒艮の呪いを結びつけて考えたのなら、この家から離れよう、と考えそうなものではありませんか?」

「それは、人それぞれだろう」匠が言う。「一か月しか住まなかった家を離れがたく思う事もあれば、何百年にも渡って一族が守ってきた家を、何とも思わずに手放せる人もいる」

 匠は、真剣な眼差しで透を見た。

「白津さんは、これが、過去に契約が履行されなかった事の証明であると考えておいでなのですね」

 利玖は驚いて、兄の顔を見る。

 それから、テーブルに目を落として「そうか……」と呟いた。

「言い伝えを守り続けてきたのなら、儒艮の骨はすべて、山椒の根元に埋められているはずで……。もし、こんな風に、一箇所にまとめて葬られた骨があるのなら、少なくとも一度は、その約束が果たされていない事になりますね」

「そうです」透は頷いた。「今日、匠さんからメールを頂くまで、私どもは二つ目の言い伝えがある事すら知りませんでした。ですが、もしも千紗さんが、本当に儒艮を弔うつもりでいらっしゃったのなら、その事自体が、二つ目の言い伝えの内容を知っていたという証明になります」

 透は、険しい表情のまま、麻婆豆腐の皿を引き寄せて食事を再開した。喋っている内容や表情とはまったく釣り合いが取れていなかったが、彼女にとってはそれが、リスキィな交渉に挑む前にスピリッツを喉に通す行為と同義なのかもしれない。

「我々が千紗さんに石を売った事で、井領家に伝わっていた何かが変容してしまったのだとしたら、由々しき事態です。二つ目の言い伝えでも、儒艮が〈壺〉の外に出て死んでいた、なんて記述は出てこなかったのでしょう?」

「丸ごと一体が外に出てくる、というようなニュアンスではありませんでしたね」匠はグラスを手に持って、氷の反射を見ている。「千紗さんが弔おうとしたのは、儒艮ではなかった、という可能性もありますよ」

「え?」透が目を見開く。「どういう意味ですか?」

「誤解しやすい所なのですが、儒艮の肉を食べるのが井領家の人間でなければいけない、という制約はどこにも登場しないんですよ」

「ああ、なるほど……」透は、また、ぱくっと麻婆豆腐を食べて頷いた。「当主に逆らえない、死んでも支障がない人間で代替したって事ですね。現代では、ちょっと無理ですが、うん、ちゃんとした戸籍制度が出来る前とか、食糧が足りていなくてどうしたって養えない家族が出るのが当たり前っていう時代だったら、有り得るな。山椒と〈壺〉を守らなければならない井領家の人々が食べるなんて、よく考えたら、危な過ぎますものね」

 おっそろしいなあ、と言いながら、透は一定のリズムで麻婆豆腐を口に運んでいる。香辛料の香りから、山椒を連想して、利玖はまた、少し気持ち悪くなってしまった。

「今、僕らに知らされている二つの説だけを元にすれば、そう考える事も出来ます」

 匠の発言を聞いて、透が手を止めた。

「と、言うと……、何ですか、つまり、三つ目もあると?」

「まだ、僕の頭の中だけの事ですが」

「聞かせてください」透が身を乗り出す。

「ええ、もちろん」匠は、透の麻婆豆腐を見て微笑んだ。「ただ、申し訳ありませんが、その前に追加で頼んでも良いですか? それ、ものすごく良い匂いですね」

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