引き継ぎ

 匠が井領邸に着いた時にはすっかり夜も更けて、二十二時を過ぎていた。

「いや、申し訳ない」

 玄関で出迎えた藍以子に、匠はそう言って深く頭を下げた。キネマの俳優が着るような薄いブラウンのスーツ姿だったが、暑さの為か、上着は脱いで体の脇で抱えている。

「高速道路を使ったのですが、渋滞にはまりましてね。堪らずに途中のインタで下りたのですが、まあ、同じ事を考える連中が多かったものですから……」

 その連絡は、夕方にもらっていたので、藍以子は匠の夕食にはラップをかけて冷蔵庫に移していた。

 温め直して、それを食べるか、と訊かれて、匠は首を横に振りかけ、

「いや、そうだな……」と頷いた。

「せっかくですから、頂いてもよろしいでしょうか。実は、昼もまだ食べていないんです」

 匠は、藍以子の傍らに立っている利玖を見る。

「妹は、台所で頂いているそうですね。藍以子さんさえよろしければ、彼女に使い方を訊いて、自分で用意しますから、どうぞ構わずにお休みになっていてください」

「いえ、大丈夫です」藍以子はにっこりと笑って両手を広げる。「わたし、まだ全然眠くありません。ご兄妹だけでお話ししたい事もあるでしょうし、お食事の用意は任せてください。出来たら、居間へお持ちしますから」

「そうですか。すみません、ありがたい」

 匠はもう一度頭を下げ、靴を脱いで居間へ移動した。さっきまで藍以子がテレビを見ていたので、エアコンが利いており、中は涼しい。

 利玖と匠はテーブルを挟んで向かい合う。

「ざっと見た限りでは、数が多い順に、民俗学、生物学、文学といった内訳です」利玖は前置きなしに共有を始めた。「特に、民俗学と文学のコレクションの中に、貴重なものが多いですね。今では絶版となっている本もありますし、大正時代を代表する画家が駆け出しの頃に装丁を手がけたものもあります。生物学関連の書籍は、発刊当時の研究を大衆向けにまとめた読み物や、図鑑がほとんどで、情報自体はかなり古くなってしまっていますね」

「民俗学や文学は、そういった部分が価値に直結しないからね」バッグから出したコーヒーのペットボトルのキャップをひねりながら匠が呟く。「発刊当時の世相や文化、言葉遣いが、修正されないまま残っている方が貴重だという見方もあるし、その方が面白い」

「うちからお貸ししたものなのか、寄贈してくださるつもりで取っておいてくださったのか、それすらわからないのです」

 匠はペットボトルを傾けて、一気に中身を飲んだ。もうほとんど残っていなかったようだ。

「メモとか、ないの?」

 利玖は首を振った。

「藍以子さんにも訊いてみましたが、残っているのは『佐倉川家へ』という一筆箋だけで、それ以上の事はわからないそうです」

「お兄さんがいるよね」匠は空になったペットボトルを弄びながら言う。「えっと、杏平さんだっけ。彼なら、何か知っているんじゃないの?」

 利玖は、また首を振る。

「まだ、ご挨拶も出来ていません。ずっと離れで仕事をしておられて、滅多な事では人前に出てこられないそうです。お食事も、眠るのも、お風呂に入るのも、すべてそちらで済ませてしまうと……」

「へえ……」匠が口を半開きにする。「そりゃ、すごい」

「藍以子さんにお会いした時にも、まず、その事を謝罪されました。代理で来た人物だから会わないというのではなく、誰に対してもそうだから、どうか気を悪くしないでほしい、と」

 匠は、納得したように頷いた。


 井領家は、当代に至るまで、二代続けて当主が小説家として名を馳せている。『佐倉川家へ』という書き置きとともに本を遺した欣治も、離れに籠もっている藍以子の兄・杏平も、シリーズものを手がけて、複数の文学賞を授与されていた。

 二人に共通しているのは、作風だけではない。人嫌いで、メディアの取材にまったく応じないという点も同じだった。対人関係に問題があるのではないか、世間に見せるのが憚られるような生活をしているのではないかと噂する声もあったが、それはむしろ、厭世的で、インモラルな情感に満ちた男女の交わりを描く彼らに箔をつけた。


(そうだ……)

 利玖は今朝、藍以子に、自分と匠は実の兄妹なのか、と訊かれた事を思い出す。

 あれはどういう意味だったのだろう。

 確かに、外見の上では一致する特徴は少ないが……。

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