兄からの電話
掃き出し窓から母屋に戻り、靴と傘を返しに行く途中で、台所の向かいにある居間からぱっと藍以子が姿を現した。片手に固定電話の子機を持っている。
「
利玖は、傘を脇に挟んで子機を受け取る。保留を解除するボタンを押す前に、なぜ、兄が自分の携帯電話ではなく、井領家の固定電話にかけてきたのか想像がついた。
「すみません」利玖は開口一番、謝罪する。「昨日、寝る前に充電するのを忘れました。枕元にあると思いますが、さっきまで庭に出ていたもので」
『え? ……あ、利玖? 何の話?』
利玖はぎょっとした。
その声は確かに、兄・佐倉川匠のものだったが、今までに聞いた事がないほど疲れ切っていたからだ。
「わたしの携帯電話に繋がらないから、こちらにかけたのでは……」
『違う』匠は平淡な口調で言った。『おまえとはすぐに合流出来なくても問題ないけれど、藍以子さんには、いつ着くか、目処が立った時点で知らせておかないと駄目だろう。そう……、今、
「わかりました」利玖は、そこで息を整える。「あの、それって、藍以子さんにはもうお伝えしたのですよね。わたしを呼んだのは、他に用事があったのですか?」
『そう、初めはね、一つあったから、呼んでもらったんだけど、今、二つに増えたよ。一つ目は……』
兄はゆっくりと言葉を次いだ。
『
とっさに返事が出来なかった。
『二つ目』兄は構わずに続ける。『母さんが何か指示を送るかもしれないから、携帯電話は、藍以子さんに頼んで充電させてもらいなさい。起きている間は、ちゃんと持ち歩く事』
「はい……」
どうにか、それだけ返すと、
『じゃあ、また後で』
と言って電話は切れた。
礼を言って、利玖は藍以子に子機を返す。
「お兄さん、こちらへいらっしゃるんですね」藍以子は、子機を親機の脇に戻しながら言った。「
「もう良くなったと言っていましたから……」利玖はこめかみの汗を拭いながら、些か誇張した返答をする。「これ以上、自分がそばにいても、出来る事はないと判断したのでしょう。同居をしている訳でもありませんし……」
顔の前に落ちてきた髪を払って、利玖は藍以子を見上げた。
「兄は、わたしよりもずっと頭の切れる人物です。明日からは倍以上の早さで仕事が進むと思います。ただ……、さっき話した感じでは、かなり疲労が溜まっているようで……、こちらに着いたばかりの頃は、もしかしたら、何か失礼を働くかもしれません。あらかじめお詫びしておきます」
「全然、そんな風には感じませんでしたけれど」藍以子は微笑む。
「言葉の修飾が過剰でした。わざわざ、言いたい事が一つから二つに増えた、なんて前置きをして……」
藍以子が近寄ってきた。何を考えているのか、軽く首をかしげ、頬に指先をつけて利玖を見つめている。
「利玖さんと匠さんって、実のご兄妹でいらっしゃるの?」
彼女は唐突にそんな事を訊いた。
眉をひそめながら、利玖が頷くと、藍以子はにこにことしたまま、
「そう、じゃあ、こういう所も似るのかしら」と言って踵を返した。「きっと、利玖さんも疲れていらっしゃるのね。アイスコーヒーを淹れてきますから、居間で待っていてください。エアコンが利いていて涼しいですよ」
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