〈壺〉の儒艮

 井領家に招かれて、今日で三日目になる。

 利玖は、仕事を進める為に、一日のほとんどを母屋の中で過ごしたが、時々は外に出て庭を歩かせてもらった。この日も、朝食の後に軽く散歩をする事にして、玄関でビニルの傘を一本借りる。しかし、そこから外に出るのではなく、靴を持ってローズ・ピンクのカーペットの部屋の向かいにある襖を開けた。ちょっとした宴会が開けそうなくらい広い和室である。しかし、大型のワードローブや衣装ケース、箪笥などがひしめき合って、腰を下ろして寛げるようなスペースはどこにもない。まっすぐ進むと、大きな掃き出し窓があって、そこから外のテラスに出る事が出来た。

 テラスは、洗濯物を干すのに使われているらしく、古い遊具みたいに塗装の剥げかけた物干し竿がいくつも並んでいる。プライベートな空間に侵入している事を心の中で詫びながら、足早にテラスへ出た。

 テラスの右端には、短い下り階段があり、そこから庭に出る事が出来る。利玖は、階段を下りた所で靴を履き、傘を開いて、広大な庭に向き合った。

 何度見ても、この光景には息をのむ。

 漆喰仕上げの白い塀に囲われた敷地の中に、おびただしい数の低木が植わっているのだ。そのほとんどが、山椒の木なのだと、初日に藍以子が教えてくれた。

 山椒の木は、どれも三メートルに届かないほどの高さしかなく、樹勢もどちらかというと弱々しい。それでも、庭そのものが山に向かって上り勾配になっている事もあり、これだけ密集していると、枝葉が波となって押し寄せてくるような圧力を感じずにはいられなかった。

 傘の柄を肩に乗せ、透明なビニルで頭上をカバーして、利玖は歩き始めた。空はさっぱりと晴れていて、一滴の雨粒も落ちてくる気配はない。雨を避ける為の傘ではないのだ。

 山椒の木にはアゲハチョウの幼虫がつく。

 最近、種々の試みが実を結んで、小指の爪の二分の一よりも小さくて、派手な主張をしない個体に限っては、血圧と体温の低下を免れる耐性を獲得しつつある利玖だが、アゲハチョウの終齢幼虫なんていうものはまったくの例外である。まさに、モンスターと呼ぶのが相応しい。しかし、彼らにその形容詞を当てはめるのなら、ホビィ・ショップでモンスター某という名を冠して売られているものは、多少サイケデリックな色づかいの可愛いぬいぐるみである。

 枝の先まで来た幼虫が何かの拍子に自由落下を始めてもおかしくない場所がそこら中にあるのだから、母屋の中で大人しくしていれば良いのだが、厄介な事に、山椒を間近で観察してみたい、という欲求が利玖にはあった。

 山椒はミカン科の植物である。本来は、瀬戸内海近くのような、温暖な地域でなければ育たない。掛け合わせや世話の仕方に秘訣があるのかもしれないが、少なくとも、なぐ県内でこれほど多くの株が一箇所に集まっている場所は他にないだろう。

 悩んだ末に、藍以子に相談すると、彼女は、この庭で幼虫を見た事はないから、たぶん心配は要りませんよ、と笑いながら快くビニルの傘を貸してくれた。


 かすかな香気を立ちのぼらせている山椒の木々の間を、利玖は時折立ち止まり、葉の付き方や色を観察しながらゆっくりと歩いていった。

 木が植えられている間隔は一定ではない。その無秩序さが、利玖の目には魅力的に見えたが、本当に彼らの好き放題にさせておいたら手入れもろくに出来ないのだろう。一応、幅の狭い道が庭全体に張り巡らされている。所々に園芸用品を入れておく為の小屋もあった。

 それにしても……。

 どうして、こんな風に家を造ったのか。

 ある程度高い所まで来て全体を眺めると、その思いが強くなる。

 井領家の敷地内で、建物があるのはほんの一部だけだ。母屋は南側の塀にくっつくような配置で、横に長い。それとは別に、西には離れがあり、東にも近年増築された客殿があるのだから、とんでもない敷地面積を有している事になる。

 それなのに、あまり広いと感じないのは、大部分を山椒の木が占めているからだろう。庭というよりも、元々山椒が自生していた場所に囲いをつけて、外に出ていかないように見張り小屋を建てたような印象を受ける。

 もう少し住んでいる人間が多ければ、そんな風には感じなかったのだろうか。

 ここにはもう、たった二人の人間しか残っていない。

 一人は、朝食をともにした井領藍以子。もう一人は、彼女の兄・井領杏平きょうへいだ。彼が現在の井領家当主である。まだ挨拶が出来ていないのだが、たぶん、出来ないままここを去る事になるのだろう。

 二人の父・井領欣治きんじの遺品の中から『佐倉川家へ』という書き置きを添えた大量の本が見つかったのが事の始まりだった。

 物置の中で、それを見つけたのは藍以子だったが、彼女はその時点では佐倉川家の存在を知らず、著名な小説家であった欣治が仕事で使ったのだろうと察しはついたものの、箱に詰め込まれていた本が佐倉川という家から借りて返しそびれたままになっているものなのか、あるいは何かの礼なのか、判別がつかなかった。

 いくつか中を開いてみると、戦前に出版されたものもあり、早急に選定を行って適切な保管場所に移す必要があると思われた。伝手をたどって、何とか佐倉川家に連絡を取ったのだが、現在の当主──つまり、利玖の父である──はきわめて多忙で家に帰る事すらままならない。母は、そんな夫に代わって一人で家を切り盛りしているので、長期間の外泊は難しい。

 そこで、折良く五月の連休を間近に控えた利玖に声がかかったのだった。

『真面目に仕事をしてくれたら、日当を払うわよ』

という母の提案に利玖はあっさりと乗った。

 欲しくても、生活の為に我慢している本が、彼女には即座に一ダース挙げられるくらいある。それくらいなら自分が我慢するだけで済むのだが、来月には同じ大学の一つ年上の先輩・熊野くまの史岐しきが誕生日を迎える予定だった。彼は、大学院への進学は希望せず、就職活動の真っ最中である。東京だか、名古屋だか、とにかく潟杜かたもりよりもずっと人が多い所へしょっちゅうスーツで出かけている。最近、あまり会えていない。そういった視点から彼との関わりを説明するように、ただの先輩と後輩と呼び表すにはいささか複雑な関係なのだ。少なくとも、プレゼントを贈りたいとは思っているのである。


 二週間前、母に承諾の返事をした時には、間違いなくそれが動機のはずだった。

 しかし今では、誰かに贈り物をするシチュエーションを思い描く事すら難しい。



 庭の北の傾斜は特にきつく、最後は諦めて階段に切り替わっている。

 それを上り切ると、塀の手前に、苔むした井戸のようなものがあった。

 藍以子は、これを〈つぼ〉と呼んでいる。利玖の腰くらいまでの高さで、なみなみと水を湛えている。山椒の根元に生えている雑草が、ここにも侵攻を試みた形跡があるが、途中からは明らかに苔類が優勢だった。形態も色も異なる植物のグラデーションが美しい。

〈壺〉に近づき、じっと底の方に目を凝らしていると、やがて音もなく白い物体が浮かび上がってきた。

 いかにも草食動物然とした牧歌的な顔つき。膨らんだ白い胴。──儒艮じゅごんだ。

 昨日の朝、初めて、ここで儒艮が〈壺〉から顔を出しているのを見た時には腰を抜かしそうになった。あまりに非現実的過ぎて、ひょっとして人間の水死体がどこかから流れてきたのではないか、という考えが先に頭をよぎったくらいだ。

 儒艮を刺激しないように、ゆっくりとした足取りで、しかし、何度も振り返りながら母屋へ戻り、目にした光景を藍以子に報告すると、彼女は困ったように苦笑して、

『うちには、そういうものがいるのです』

と答えた。



 儒艮はまっすぐに水の中に浮かんでいて、顔だけを外に出して息をする。

 利玖は傘を持ったまま、それを見つめる。

 儒艮は、何かを訴えかけるように、利玖を見たままぷかりぷかりと沈降と浮上をくり返していたが、しばらくすると、落胆したように大きく鼻を鳴らして、水の中に沈んでいった。

 儒艮が消え、水面が元のようにぴんと静止した後も、利玖はその場に佇んでいた。


 本当は、兄が来るはずだった。

 佐倉川家の当主代理を務めるにしろ、膨大な数の本を選定するにしろ、利玖よりも、彼の方がよほど向いている。それなのに、彼女が一人でやって来たのは、匠が大学を離れられなかったからではない。もっと深刻な理由の為だった。


(救われた、と……)

 自分は、そう思うべきなのだろう。

 塀の向こうでは、ほんのわずかに季節が早く進んでいるようだ。夏の日暮れに夕立を待っている時のような、もたついた風と草熱くさいきれが、汗ばんだ肌をさすっていった。

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