【はじまり —壱—】
座敷牢の中で今日も今日とて、千歳は蝶をとおして帝都の光景をみききしていた。それはさながら活動大写真のようだった。
陰りを含んだまぶしい日差しのもと、ざわざわとした喧噪に往来の波があふれかえる。
着物姿のものもあれば、洋服姿のものもあり、ハイカラなものもいる。
頭一つ抜けた、明るい髪と目鼻立ちのはっきりした者の姿もあった。
皆銘々に扇子や団扇で扇ぎながら軽快な足取りで進んでいく。
汗と煤、香油のにおいが混ざりながらあおられては昇っていく。
雑踏を縫うように馬車や車が走る。
人の熱が密集した中ですれ違いざまに蠢く空気すら、むあっと重くなっていた。
「ぎゃああああ‼」
突然、人の群れを割る絶叫がこだました。
通行人のひとりが
蜘蛛の子を散らすように黒山の人垣が真っ二つに割れる。
腰を抜かして動けないものもいる。
黒い靄をまとった魑魅魍魎は唸り声をあげながら、手当たり次第に人間を襲う。
駆けつけた陰陽師たちがすぐさま応戦するも、効果は薄く手こずる。
そこに軍服姿の異国人が乱入し、サーベルで魑魅魍魎を一刀両断した。
「ケッ! こんな雑魚相手にみっともねーな」
サーベルを肩に担ぎ軍人は吐き捨てた。
猫のようなツリ目が特徴的だった。
その後ろには同じ軍服姿の異国人がふたりいる。
あたりには腐ったような血のにおいが充満し、人々は袖口やハンケチで口元をおさえた。
一瞬水を打ったように静まり返る。
その寸刻を挟むと、まるで見世物小屋の客たちのようなどよめきが満ちた。
「なんて野蛮な」
「やはり異国人は」
「やっぱり異国人は野蛮だ」
脅威が去ったとたんに、ひとびとは眉をひそめ異口同音にひしめいた。
白い目が三人の異国人へと向けられる。
まわりの反応に猫ツリ目は忌々しそうに舌打ちをした。
肩を揺らす彼に、薄茶色の髪をした軍人が制止する。
「よけいな騒ぎは起こすな。隊長に迷惑かけるだろ」
肩をつかまれ、面白くなさそうに猫ツリ目はにらみつけた。
「討伐は完了した。戻るぞ」
もうひとりの黒髪の軍人がささやく。
猫ツリ目を抑えながら、彼らが立ち去ろうとしたときだった。
「大体、おまえらなんかが来たから妖怪が真っ昼間っから出るようになったんだ!」
群衆の中から中年くらいの男が大声でやじる。
「この世とあの世のあわいが交わるのは黄昏時。それを無視して、魑魅魍魎がはびこるのは調和が乱れたからでしょう。理が崩れたのも性質の異なる力がこの帝都に混ざったのですから」
意趣返しとばかりに陰陽師たちも非難がましく言葉を述べる。
「ぁんだと?」
激昂した猫ツリ目が、薄茶髪と黒髪をふりきり、中年男の胸倉をつかむ。「ヒィッ」と中年男は悲鳴をあげた。
猫ツリ目のほうが若年だったが、上背は彼のほうがはるかにあり、鍛えあげられた屈強な肉体ももちあわせている。
一触即発、かと思いきや——
ごん!
鈍い音がその場に落ちた。
猫ツリ目は頭を押さえ悶絶してうずくまった。
拳骨をもろに食らったのである。
「ぼさっとしてないで怪我人を運べ!」
険悪な喧噪をぶった切ったのは中性的な威勢のいい声だった。
フフ、と千歳は笑う。
拳骨をくらった軍人には申し訳ないが、思わずふきだしてしまった。
快活な声が活弁士に似ている。
昔、父と母と活動写真を見に行ったときのことを思いだしたのだ。
はきはきとしたその口上に夢中になってききいった。
帰りに洋食店に行き、カフェーで甘味を堪能した。
そのときの、今よりもはるかに若いであろう父の姿しか残っていない。
ハイカラな恰好をした、たのしげな顔だ。
それもおぼろげだが。
父とはもう何年も顔すらあわせてはいない。
座敷牢に入ってからだったように思う。
感傷に浸っていれば、
別の通りの風景に変わっていく。
蝶々が移動したのだろう。
ふわふわと気ままに。
そしてきこえてきたのは、同じよもやま話だった。
“また妖怪が出た”
“近頃じゃ
“異国人なんか連れてくるからだ!”
“
“最近黄昏時でもないのに妖怪が現れたって”
“でも、この清めのお札をもっていれば守ってくれるってよ”
歪んだ感情の渦が残響みたいにきこえる。
不安や焦燥の声をひろいながら、そのすぐ横をふぅっと数羽の揚羽蝶が煙のようにたゆたう。
蝶などめずらしくもないのか、人々は気にも留めない。
何色とも形容しがたい時と色彩を宿したゆらめく蝶などこの世のものとは到底思えないのだが。
黄昏時から
古くから、人々は夜の外出をなるべく控え、霊力のある者は最前線で異形のものたちと戦い帝都の平和を守っていた。
だが、あるとき昼と夜との境界によって保たれていた均衡が崩れた。
本来、限られた時間帯にしかあらわれなかったものが、時間に関係なくはびこるようになっていた。
不測の事態に、政府は原因は調査中としながら異国人の専門武官を招致したらしい。
(……私には永遠に関係のないことだ)
畳の上に寝転がりながら、千歳はぽつり思った。
蝶たちが運ぶ残像が幻燈写真のように、脳裏に焼きついた。
彼女のまわりでは、音もなく色をゆらめかせながら幾羽の揚羽蝶が舞っている。
四季色の蝶と千歳は呼んでいた。
それが唯一の友達だった。
そのはばたきは、まるで万華鏡のようであった。
一羽が鼻先に止まり、そのかすかな、絹のふれるようなはかなさに、まぶたをもちあげた。
「…私もおまえたちのように翅があればいいのに……」
ひとりごち、静かにもちあげた指先にべつの一羽がとまる。
「…おまえたちのおかげで退屈はしないわね」
まるで浪漫活劇でも遠眼鏡でみている気分だ。
そう気楽に思うのも、自分とは縁遠い世界だと心底理解しているからなのだろう。
華族である
ここに嫁いできた千歳の母も、術師だったらしい。
だが、千歳は何も授からなかった。
…不意に弾むような、鈴が転がるような声が耳元でよみがえった。
【“四季色の蝶のことはわたくしとあなたとの秘密よ——……”】
(…そうお母さまはいっていたけれど…)
どのみち自分以外だれもみえはしないのだから、秘密にするもなにもない。
存在自体を証明する手立てすらないのだから、この蝶たちは永遠にみつからないだろう。
——パンッ
頬に衝撃を感じて飛び起きれば、サイコと八重子が牢の前でこちらをみおろしていた。
またサイコが風鳴りを使ったようだ。
「まぁたひとりゴト? 気味が悪いわ」
「着物の裾を開けさせてはしたない。はしたないわね」
さげすむ声とともに現れたのは異母姉のサイコと八重子だった。
「蛺翹路は、霊力の名家なのに。本妻の娘のくせに無能なんて」
クスクスと意地の悪い笑みが千歳の肌つつき、ひりつかせる。
「ワタシたちがいてよかったわよねぇ。前線で活躍される方々のお手伝いをしているんだもの」
ふたりは千歳と異なり、風に付随する霊力をもっていた。
有事の際は後方支援として従事している。
千歳の母の死後、喪も明けぬうちにふたりの母は後妻の座におさまった。
それと入れ替わりに千歳は座敷牢に入れられた。
さっきの通行人と同様、このふたりも四季色の蝶には目もくれない。
他の能力者が感知できないとなれば、おそらく大した力ではないのだろう。
「能無しのくせに。能無しだわ」
「このごく潰し。ただでさえ家計は火の車なのに働きもしないアンタのせいでよぶんな金がかかるわ」
「名前の通り生命力だけはしぶといわね。本当にしぶといわね」
「恥さらしが」
もう毎日浴びせかけられている言葉だ。
傷つくなんて反応すらもちあわせてはいない。
「またロクに食事を食べていないのね。これじゃあごく潰しですらないわね」
サイコが手つかずの膳をちらりとみる。
「お母さまがあなたにってわざわざ用意させたのよ。わざわざ用意させたんだから」
にやにやと八重子が口角をあげる。
千歳はぎくりと体を揺らした。
——そう。千歳はほぼ水も食事も口にしてはいない。座敷牢に閉じ込められてから…。
「ワタシたちのもってきたものは食べられないとでもいうの?」
八重子の手には昼餉の膳がある。
いつもと変わり映えしない黒ずんだ米に、向こうが透けてみえるほど薄切りのたくあんが添えられている。
千歳に食事を運ぶのが彼女たちの家の中での役割だった。
カチリ、と音がして座敷牢の鍵を開け、サイコと八重子が入り口をくぐった。。
千歳は、黙ったまま身だけを固くしていた。
「それなのにどうして生きているのかしら? 生きていられるのかしら」
「アンタは魑魅魍魎なのよ! そのせいでこの家はつぶれかけているのよ!」
この命を終わらせたいとの願いもあったが、なぜだか体が弱ることはなかった。
餓死していてもおかしくはない年月はとっくに過ぎ去っている。
なのに千歳の髪も肌もつやがあり、肉づきも年相応のものだった。
ただ、目には光がない。
たしかに虚ろな、すりガラスのようなぼんやりとしたかすかな光が、かろうじて灯されている瞳は、妖のたぐいともいえるかもしれない。
「せっかく用意したのに。食べないなら」
八重子が千歳を後ろから押さえつけると、サイコは千歳の鼻をつまみ、椀ごと彼女の口に押しつけた。
飲みこむしか術がなく、黴臭い黒飯が喉奥をとおり胃にどすんとおちる。
千歳が飲みこんだのを確認するとサイコは、にたついて椀をはなした。
「…うっ——」
鳩尾に痺れが走り、千歳は嘔吐した。
「…げほっげほっ!」
ぼたぼたと、震える唇から今しがた押しこまれた黒飯とたくあんが口からあふれ出た。
べちゃりべちゃりと畳を濡らした。
「汚いわね! そんなにワタシたちの食べさせたものが食べられないとでもいうの?」
「無能なんだから、畳のうえにいられるだけありがたいと思いなさいよ」
…喉が焼ける
また、あの毒を盛ってきた
はー、はー、と千歳は全身で長く息をする。
千歳はすべてを奪われていた。
翅をもがれた蝶が飛べないように、地におちるように。
地におちた蝶は無力だ。
取り戻そうとあがいたときもあったが、それは無駄で。
ただ自身の無力感を痛感させられただけだった。
今は足掻く気力すらない。
抵抗する意思すら奪われてもう何もない。
「アンタのせいでうちは寂れてんのよ‼この疫病神‼」
狭い空間にサイコの罵倒が反響する。
髪を引っぱられ、畳に倒され頭をふみつけられる。
足袋の白い足がぐりぐりと頬を蹂躙し、畳の目が片方の頬に食いこんだ。
「アンタはしょせん、能無しの芋虫なんだから畳の上にいられるだけ幸せだと思いなさいよ。それがアンタの生まれ持ったさだめよ」
「そうよ芋虫よ。芋虫なんだから」
これが千歳の日常だった。
夢見鳥は愛を乞われる 幸村 侑樹 @hexa-yonekazu
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参加中のコンテスト・自主企画
作者
幸村 侑樹 @hexa-yonekazu
幸村 侑樹(Hueki Yukimura) ※2025年6月25日ペンネーム変更 ※IDは変更できないので旧名のままです ⛄出版書籍【吹雪歌音】名義⛄↓OLD NEW↑ 【夢中文庫プラ…もっと見る
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