音大ばあちゃん

増田朋美

音大ばあちゃん

夏休みもあと少しで終わるという時期に差し掛かり、製鉄所に通っている女性たちも、学校へ行く準備を始めるようになった。そんな中、以前製鉄所を短期間だけ利用していた、蒲田美子さんという女性が、もう一人女性を連れて訪ねてきた。

「えーと、隣りにいる方はどなたですか?」

と、水穂さんが言うと、

「はい。祖母の蒲田美希です。」

と、美子さんは答えた。

「蒲田美希と申します。よろしくお願いします。」

と、女性は頭を下げる。

「年はいくつだ?」

杉ちゃんが聞くと、

「81歳です。80歳で音大に入りまして、今2年目になりました。」

と、蒲田美希さんは答える。

「は。音大ってさ。どこの大学だ?そんなばあちゃんなのに大学ってどういうことだ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。武蔵野なんですけどね。どうしても行きたかったんです。一度、学校へ見学に行ったら、定員割れしていると聞いたものですから、十分入れると。」

美希さんは嬉しそうに言った。

「はあ。それはすごいねえ。昔はすごかったけど、今は権威は地に落ちてしまったような大学だな?」

「確かに、第一志望にするにしては、理由がない大学ですね。今は、芸大や桐朋に落ちた人の受け皿に過ぎないとか。」

杉ちゃんと水穂さんは頭をかしげた。

「そんなことありません。伝統がありますし、駅から近いし、設備も充実してますし、本当に嬉しいところですよ。あたしは、そう思っています。」

と、美希さんは言うのである。

「それで、お願いなんですけど、うちにあるピアノを修理に出さなければならなくなったので、ピアノを貸していただけませんでしょうか?」

「はあ、わかったわかった。ピアノは貸し出せるけどさ。しかし、ばあちゃんになって、音大に行くとは驚きだあ。学校でピアノ貸してもらうとか?」

「大体の人はそれを期待しますが、あの大学は練習用のピアノを貸し出すのにも高額なお金を払う必要があるんです。他の大学はそうではないんですけどね。」

美希さんの発言に、杉ちゃんと水穂さんは言った。

「なるほどね。確かに、金を取られるのは嫌だよな。ぶっ壊してしまわない程度なら貸してあげよう。ねえ水穂さん。」

「ありがとうございます。」

美希さんは嬉しそうに言った。

「まあとりあえずだな。一度、ピアノを試してみてくれや。お前さんの手と合うかわかんないもん。」

「そうですね、それは、ちゃんと試してみなければいけません。では、ちょっとこちらにいらしてください。」

杉ちゃんと水穂さんは、美希さんをピアノがある部屋に連れて行った。

「ちょっと一曲弾いてみてくれませんか?どんな演奏をするのか、聞かせてください。」

水穂さんがそう言うと、美希さんはグロトリアンのピアノの前に座って、シューベルトのソナタ一番を弾き始めた。

「なかなか上手じゃないですか。もう少し、左手のアルベルティ・バスの音量を抑えると、曲らしくなるのではないかと思います。」

水穂さんはそう音楽家らしくアドバイスした。

「あ、ありがとうございます。」

美希さんは言った。

「あと、ペダリングをもう少し確実にしてください。そのあたりは、担任の先生から教えてもらうと思いますけど。」

水穂さんがそう言うと、

「それが、何も言ってくれないのです。」

と、美希さんは言う。

「担任の先生は誰なんだ?武蔵野じゃ、著名な教員もたくさんいると思うけど?」

杉ちゃんが言うと、

「星野先生です。星野すみれ先生。」

と、美希さんは答えた。

「星野すみれ。」

水穂さんはちょっと考え込むように言った。

「知ってるんですか?」

美希さんの孫の美子さんが聞くと、

「はい。知ってますよ。確か同級生だったんです。でもずっと今に至るまで星野という名前であるのが驚きました。まあ確かに、音楽家が結婚しないのは、珍しいことではないのですが。」

水穂さんはちょっと苦笑いをしていった。

「とりあえず、二時間から三時間くらいならお貸しできますね。その後、お茶でも飲んで帰ってくれれば結構だよ。音大生なんだから、ピアノを壊さないでやってくれな。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「それにしても、星野すみれさんが、武蔵野で教鞭を取っていたとは、知りませんでしたよ。よくもまあ、彼女を雇ったものです。」

水穂さんは、思わず言ってしまった。

「え、なんで?」

杉ちゃんが聞く。そういうところは耳聡く、すぐ聞いてしまうのは杉ちゃんであった。

「ええ。彼女は大変にわがままな女性で、大学では有名だったんですよ。音大生にもなりますと、大金持ちと呼ばれる部類に入る人が多いので、わがままな人は多いんですけどね。彼女はそれが度を越していて。なんでも、お父様が有名企業の社長さんで、大学にかなり多額の寄付をしていたようで、彼女は、それをよく自慢していたんです。」

水穂さんがそう言うと、

「なるほどねえ。まあ確かに音楽学校といえば、そういうわがままな女性が多い場所ではあるよなあ?」

杉ちゃんも言った。

その日から、音大生のおばあちゃんは、毎日2時間ほどピアノを練習するようになったのであるが、やはり年齢のこともあるのか、指の先端で弾いてしまう癖があった。今の時代のピアノ奏法は、指の腹で弾くのが通例である。そうなると、昔のタッチということになるので、水穂さんがそれを是正させて、もう少し柔らかいタッチで弾いたほうが良いとアドバイスした。美希さんはわかりましたと言って、少しずつでもタッチを直してくれるようになった。

「はあなるほど。武蔵野も、随分入りやすくなっているんだねえ。」

お茶を飲みながら杉ちゃんは言った。

「ええ、受験勉強もそんなにたいしたことないんですよ。もちろん、実技試験はちゃんとありますけれども。だけど、他の大学に比べると、課題曲も少ないし、私みたいに、年を取ってから入る人には嬉しいところかも。」

と、美希さんは言う。

「はあ。なるほどね、子供が少なくなってからは、年寄を大学に入らせて、生徒を獲得しようという魂胆か。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。でも、良いじゃないですか。そうやって年を取ってから勉強したいなんて、なかなかできそうでできないことですよ。若い人と一緒になって勉強をする、なかなか素敵じゃありませんか。」

と、水穂さんが言った。

「そうですね。若い人と一緒に勉強すると、刺激があって嬉しいです。でも、彼女たちの汚い言葉を喋っているような、あの発音はなんとかなりませんか?」

「なりません。」

美希さんの発言に、杉ちゃんは言った。

「音大でもそうなんですね。」

水穂さんも言った。

「まあ、周りにあるのは電波ばかりだし、それにスマートフォンやパソコンを繋いで得られる音ばかりでは、きれいな発音ができないのは、もう当然のことみたいになってるよな。」

杉ちゃんはそういった。

「確かにそうかも知れませんが、中には、わざと汚い言葉を使わざるを得ない生徒さんもいるのかもしれません。そうしないと友達ができないとか。そういう生徒さんもいると思いますから、仕方ないことは仕方ないと思ってください。」

水穂さんがそう美希さんに言った。

「きっと、あなただけではなくて、教員の先生もこれには参っていると思いますから。」

「そうですね。星野すみれ先生は若い生徒さんに人気があって、若い生徒さんと兵器で話をするので、あたしは気がひけてしまうんですよ。」

美希さんが申し訳なさそうに言う。

「まあ、しょうがないじゃないですか。時代が変わりましたからね。それに今の時代、美しい日本語を使って生活している人は、よほどお嬢様とかでないとできませんよ。言葉は変化していますから、多少劣化しても仕方ないです。」

「そうですね。そうやって、アドバイスと言うか、お話をしてくれる人がいてくれると嬉しいんですけどね。」

美希さんは、そうにこやかに言った。年配の女性だからこそ、こういう解釈もできるのかと思われるが、若い女性であったら、ちょっとつらい思いをしてしまうかもしれなかった。

美希さんは、大学が始まっても、練習にやってきた。ピアノの修理というものは手作業で行われるので、非常に時間がかかってしまうものである。また、部屋へ運び入れるとか、そういう事をしてしまうと、さらに時間がかかってしまうものだろう。なので、水穂さんたちは、そのことについては何も言わなかった。

それから、数日がたったある日のことである。

その日も、美希さんは、シューベルトのソナタ一番を練習していた。聞いていた水穂さんが、もう少し左手のアルベルティ・バスを、きれいにするようにアドバイスした。それを、美希さんは真剣に聞いていた。その姿勢は、おばあちゃんではなくて、本当に学ぼうという意思があるんだなと思われた。

「失礼いたします!」

と、中年の女性の声が聞こえてきた。

「あの!こちらに蒲田美希という老女が来ていると思うのですが。」

「ハイハイなんだよ。美希さんなら一生懸命練習しているよ。」

応答に出た杉ちゃんはそういったのであるが、

「私は、蒲田美希の担任教師をしています。」

とその女性が言うので杉ちゃんは思わず、

「星野すみれさんか?」

と言ってしまった。

「ええ。ですが、星野すみれさんではなくて、星野すみれ教授とお呼びください。」

と彼女はそういうのであった。

「はあ、お前さん教授?とてもそんな感じには見えないけどね。まあ、最近は教授になり手もいないから、そう言われているだけだろう。」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。

「それで、その教授がなんのようだ?」

「決まってるじゃありませんか。蒲田美希を取り戻しに来ました。彼女が、私の下へレッスンに通っていますが、だんだんに私のやり方から離れてきているようですので。」

「それはお前さんの教え方が悪いからだ。他に答えはないよ。」

そういう星野すみれ教授に、杉ちゃんは即答した。

「だから、それはお前さんが考えを改めるべきなんじゃないの?」

「失礼なこと言いますね。彼女は私の言う事を聞かないとして有名なんです。だって楽譜一つでも、私の指示通りの楽譜を持ってこないんですよ。なんでも、適当に買ってきてそれで良いにしてくれとか言ったりして。その彼女が、これ以上私の言う事を聞かなくなったら。」

そう、星野すみれ教授は言った。

「そういうことは、知らないで当然じゃないか。だって蒲田美希さんは生徒だぞ。生徒が何も知らないのは当然のことだよ。それならお前さんが教えていかなくちゃいけないの。」

杉ちゃんは腕組みをしてそういったのであるが、

「まあ、あなたって本当に失礼なこと平気で言うんですね。私を誰だと思ってるんですか。」

と、星野すみれ教授は憤慨した。

「お前さんが怒っても始まらん。」

杉ちゃんはそう言うが、

「失礼ですけど、蒲田美希さんは私の生徒です。あなた達が、たぶらかして音大から離れさせようとしてもそうは行きません。最近彼女の演奏が変わり始めているんです。それは誰がたぶらかしたのか。確かめさせていただきたいですね。練習している彼女にあわせてください。」

と、星野すみれ教授は言って、どんどん靴を脱ぎ、製鉄所に入ってしまった。ちょうど、蒲田美希さんが、シューベルトのソナタを練習している音が聞こえたので、星野すみれ教授はそれを頼りに、美希さんがいる部屋を突き止めてしまった。

「誰ですか、美希さんをたぶらかしたのは?」

星野すみれ教授が襖を開けると、その裏には、美希さんがピアノを練習していた。所々で水穂さんが、もう少し音量を下げろとアドバイスしていた。

「右城さんじゃない。どうしてここに!」

それに気がついた水穂さんも、そういう彼女に気がついて、

「ああ、来ると思ってました。でも、このままでは美希さんの音楽が、本当にシューベルトが求めているような音楽ではなくなってしまうと危惧しましたので、それで美希さんに伝えました。」

と、すぐに言った。

「そうなのね。私の生徒にそうやって余計なことをしでかしたのはあなただったんですね。右城さん、あなた人の生徒をそうやってたぶらかして、何が面白いんですか?」

星野すみれ教授は、そう大学の教授らしい言い方で言った。

「面白いって、そんな悪気はありませんよ。ただ、シューベルトのソナタは、けたたましくうるさい音色で演奏する曲ではないって、知っているのは、星野さんだって知ってるんじゃありませんか?それを美希さんに伝えてはいけませんか?」

水穂さんがそう言うと、

「私は、そういう事を言ってるわけではありません。人の生徒に、そうやって口出しして、あたかも自分のものにしようとするあなたのそういう態度が行けないと言ってるんです。」

と、星野すみれ教授は言った。

「そういうことだったら、星野さんがちゃんと教えるべきではありませんか。あなた、そういう演奏の基本的なことを何にも伝えていませんね。それでは、何も意味がないじゃありませんか。なんのために、音楽大学に行っているのか、わからなくなるのではないでしょうか。」

水穂さんはそう、星野すみれ教授にいった。

「あなた、結構優秀だったくせに、音楽学校の事を全く知らないようですね。そういう基本的なことは、ある程度教え込んであるものよ。それが音楽学校というものでしょうが。私のところに来るんだったら、そんな事、ちゃんと始めに教え込んでもらってあるはずだと思うのですがね。」

星野すみれ教授は、嫌そうに言った。

「そんなこと、教えてもらっている生徒さんのほうが、これからは少なくなっていくと思いますよ。」

水穂さんは静かに言った。

「初めから、教えてもらっている生徒さんは、自己の進路を決定できない時期から教育を受けている人たちに限ります。これから、音楽学校に入るに当たって、果たしてそういう生徒さんたちが何人来るか。だんだん減ってくると思いますよ。」

「でも、大学は大学で、音楽学校に入る生徒というのは、他の人とは違うんだって気持ちを持っているんじゃありませんの?それで、ふつうの人たちとは違っている教育を受けて、みんなと違うってことを、日頃から感じているんじゃありませんか?」

星野すみれ教授はまだそんなことを言っているのだった。

「どうですかね。音楽高校から音大に行く生徒さんよりも、普通高校から音大に入る生徒さんの方が多いと思いますけどね。だって、音楽高校はどこの県にもあるわけではないですからね。」

水穂さんがそう言うと、

「でも、音楽を学ぶというのは、人より違っていて当たり前です。ある意味では当然のことも知っておくことは必要なんです。そうでなければ、私達の音楽大学も、他の大学に押されて、やっていけなくなってしまう。だから、ある程度、生徒さんを絞らないと。」

星野すみれ教授は言うのだった。

「そういうことだったら、余計に生徒さんを獲得するため、色々工夫しなければならないんじゃありませんか?」

水穂さんはそう言った。なんだかいつまで経っても決着がつかない会議のような感じだなと思っていたら、

「私は、いけなかったのでしょうか?」

と小さな声で、蒲田美希さんが言った。

「もちろんわかってるんです。こんな年で、大学に入ろうなんて、そんな精神の人間がどこにいるかって、私も散々からかわれてきました。ですが、私は、音楽を学んで、きちんと自分のピアノを磨きたいと心から思っていました。ただ、私の若い頃は、それよりも、働いてお金を作っていかなければなりませんでした。ですから、私が本当にしたいことだって、できなかったのです。」

水穂さんも、星野すみれ教授も、この発言には意外だったようだ。

「そんな私も、娘を育てそして孫もできて、やっと本当にやりたいことをやってみたいと言う気持ちになったんです。幸い、情報提供に強い孫から、昔はとても行けそうになかった音楽大学が、今は定員割れで、入れるようになっているということを教えてもらって、ああ、そういうことだったら、入らない手はないなと思ったんです。そうすれば私がずっとやりたかったピアノも思う存分やらせてもらえる。その気持で私は、音大に入りました。それは、やっぱりいけないことだったんでしょうか?」

「いえ、そんなことありません。蒲田美希さんは、蒲田美希さんの人生があったんです。色々困難なこともあったと思います。だけど、それを乗り越えてきて、やってこれたから、今大好きなピアノが学べるのだと思います。ある意味、若さを無駄にしている現役の学生よりすごいかもしれません。どうぞ、知らないことは知らないと発言してくれて結構です。思いっきりピアノを学んでください。」

蒲田美希さんがそう言うと、水穂さんは静かにそう返したのであった。星野すみれ教授は、なんで私がそんなことという顔をしているが、

「星野教授、彼女は、悪気があって大学に入ったのではありません。それをよく理解して、知らないことがあっても仕方ないと思い直してください。」

水穂さんが星野すみれ教授に頭を下げる。それと同時に、蒲田美希さんも、静かに頭を下げて、

「よろしくお願いします。」

と言ったのであった。

星野すみれ教授は、何もわからないという感じの顔で、ただ、水穂さんたちを眺めているしかできないようだった。

「わーい!音大ばあちゃんの勝利だ!」

いつの間にか、部屋に入ってきた杉ちゃんがまるで相撲の勝利を決める行事さんみたいな言い方で、そういったのであった。星野すみれ教授は、杉ちゃんたちの発言に何も言えなくなってしまったらしく、一言、

「そうね。」

としか言わなかった。

「全くなあ、日本の高等教育機関ってのは、いつからか大金持ちばかり相手にするようになった?少なくとも大正とか昭和の頃は、貧しいゆえにさんざん苦労して大学に入って、いい成績を修めたひとが、いっぱいいたはずだぜ。」

杉ちゃんにそう言われて、水穂さんもそうですねと言って苦笑いした。

「じゃあもう一回、シューベルトのソナタを弾いてみてくれ。」

杉ちゃんにそう言われて、美希さんは、弾き始めた。星野すみれ教授も、真剣な顔で、音大ばあちゃんの演奏を聞いていた。


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音大ばあちゃん 増田朋美 @masubuchi4996

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