大逆転、関ヶ原！ ～小早川秀秋、難波の夢を露と落とさず～

序章 問い鉄砲

　時に、慶長五年九月十五日。

　すなわち、西暦一六〇〇年十月二十一日。

　農民の身より身を起こし、太閤として天下人の座に登りつめた豊臣秀吉。

　その死を契機に、豊臣政権の中枢で燻っていた権力闘争はついに臨界へ達し、武力による決着の時を迎えた。

　戦の舞台は美濃国不破郡関ヶ原、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町。

　全国津々浦々より名立たる大名・武将がこの地に集い、東軍と西軍、二つの陣営に分かれて雌雄を決する一大合戦が始まろうとしていた。

　東軍の総大将は徳川家康。率いる兵は、およそ九万。

　対する西軍は、総大将を毛利輝元の名のもと、石田三成を中心として結成された反徳川連合軍。その兵は八万を数えた。

　兵力の上では東軍がやや優勢。

　だが、西軍は中山道を進む東軍を迎え撃つべく、関ヶ原を取り囲む山々に鶴翼の陣を布き、地の利を以て敵を包み込む構えを見せていた。

　その布陣はまさに完璧。

　兵の数の差など、意味をなさぬほどの優位にあった。

　誰の目にも西軍の勝利は揺るがぬものに見えた。

　だが、歴戦の将である徳川家康はその包囲の只中へ、あえて己が軍勢を押し進めたのである。

　かくして、天下分け目の合戦、その火蓋が切られた。

「どうして、どうして……。三成、やるではないか。

　いや、あるいは……。大谷吉継の采配か？　……見事な鶴翼よ」

　家康は、遠く正面の笹尾山を静かに見据えた。

　そこには石田三成の本陣が構えられ、数多に掲げられた旗印『大一大万大吉』が、秋風をはらんでたなびいている。

「だが、しかし……。肝心の翼が折れていてはな。鶴は、飛べぬのだ」

　その逆風を受けながらも、家康は口の端をわずかに吊り上げた。

「ふっ……。ふふふ……。」

　徳川家康は、戦が始まる前からすでに勝利を確信していた。

　西軍の総大将である毛利輝元は大坂城に留まり、戦場には姿を見せていない。

　実際に軍を動かすのは陣代たる石田三成であったが、彼には武将としてのカリスマも軍略の才も乏しく、それはこれまでの戦歴が如実に物語っていた。

　家康は、そうした西軍の綻びを見逃さなかった。

　密かに西軍諸将へ書状を送り、甘言と理をもって誘い、幾人もの武将から裏切りの確約を得ていたのだ。

　実際、毛利輝元が差し向けた二万五千の兵は終始沈黙を保った。

　戦が始まってもなお、家康の本陣左手後方に位置する南宮山にあって、動く気配すら見せぬまま戦況を見下ろしていた。

　徳川家康の後方を守る兵は、一万五千。

　もし南宮山の毛利勢が一気呵成に駆け下りていれば、それだけで東軍の退路は断たれ、戦場は大混乱に陥ったであろう。

　本来ならば、形勢は一挙に西軍へと傾くはずだった。

　だが、毛利輝元の麾下にある諸将は、主君の安泰こそが忠義と信じ、密かに家康へ通じていた。

　石田三成が幾度も送った参戦の催促を、彼らはのらりくらりとかわしていた。

「それにしても…。あの愚図め」

　しかし、徳川家康は勝利を確信していながらも、内心では焦れていた。

　朝食の最中、突如として銃声が轟き、なし崩しに戦が始まったのち、戦況は一進一退。

　より正確に言えば、総兵力の半数が未だ動かぬ中でも、地の利を得た西軍がわずかに優勢であった。

　この膠着を打ち破るべく、家康は本陣を自ら前へと押し出す。

　だが、ふと天を仰げば、太陽はすでに頭上にあり、刻一刻と時は過ぎてゆく。

　このまま手をこまねいていては、やがて形勢は西軍へと傾くのは明らかであった。

　決定打が、欠けている。

　その理由は明白だった。

　家康の左手側に見える、松尾山に陣取る西軍の小早川秀秋。

　家康と密かに通じながらも、彼はいまだその約束を果たさず、陣を動かぬまま沈黙を守っていたのである。

　小早川秀秋の胸中もまた、明白であった。

　彼が率いるおよそ一万五千の兵と、その陣取る松尾山の位置。

　それは、徳川家康にとっても、石田三成にとっても、いずれに転んでも勝敗を左右する決定打となる要衝である。

　ゆえに秀秋は、どちらに与するかを最後の一刻まで見極めようとしていた。

　勝ち馬に乗り、恩を高く売るために。

　いや、むしろ『迷っている』と言った方が正確だろう。

　小早川秀秋を一言で表すなら、優柔不断で、小心な男である。

　だからこそ、徳川家康は秀秋本人よりも、その傍らに侍る重臣たちに働きかけ、裏切り工作を重ねていた。

　しかし、松尾山の様子を見れば、説得は思うように進んでいないらしい。

　戦場を文字通り高みから見下ろす立場にありながら、秀秋は床几に腰を据えることすらできず、あたふたと『どうしよう！　どうしよう！』と声を上げる姿が、家康の目にくっきりと浮かんだ。

「毛利は……。まあ、許そう。ここは見逃すのも一興……。」

　同じ静観でも、徳川家康が南宮山の毛利勢を容認したのは、格の違いゆえであった。

　家康は毛利輝元を、西国の覇者として認めており、決戦の後を見据えた深慮遠謀をめぐらせていた。

　もし、南宮山の毛利勢が戦列に加わったなら、東軍の兵力は西軍の二倍以上。

　圧倒的な兵力差を前に、軍才に乏しい石田三成でさえも、絶体絶命の危機を悟り、関ヶ原から撤退する決断を余儀なくされるだろう。

　それは、徳川家康にとって、都合が悪かった。

　なにしろ、関ヶ原から京都へ至る道は、現代で言えば高速道路に等しい。

　戦国時代の大英雄『織田信長』が、商業と軍事の双方に活かすために整備、拡張した道である。

　日本のいかなる道よりも整っており、彦根城をはじめとする幾つもの要衝も備わっていた。

　大軍であっても、撤退や進軍を素早く行える。この道こそ、戦略上の強力な要素になっていた。

　その結果、次の決戦地として最も可能性が高いのは、大阪城であった。

　大阪城は豊臣秀吉が心血を注いで築いた難攻不落の要塞である。

　西軍に関ヶ原以上の地の利を与えれば、東軍にとっては今以上の困難が待ち受けることになる。

　さらに、長期にわたる籠城戦を強いられるとなれば、東北の雄『上杉景勝』の動きが気になる。徳川家康の本拠地である江戸を長く留守には出来なかった。

　だが、小早川秀秋は別であった。

　松尾山は戦線の南端に位置し、東軍も西軍も真横から攻撃可能な要衝である。

　この地点で東軍として動くことこそ、戦局を決する鍵だった。

「だが、お前は……。許せん！　儂を誰だと思っている！」

　また、小早川秀秋の生来の姓は『木下』である。

　豊臣秀吉に後継者候補として選ばれ、豊臣姓を一時許されるも、秀吉に実子が生まれた途端、早々に見限られ、小早川家に養子として入ることとなった。

　当初、豊臣秀吉が望んだ秀秋の養子先は、毛利家であった。

　しかし、小早川秀秋は毛利家の名宰相『小早川隆景』にすら、『かの者が毛利家の一員となれば、毛利は滅ぶ』と言わしめた凡愚である。

　そのため、主家を守るために小早川家が敢えて泥を被らざるを得なかった。

　そんな凡愚に、しかも十九歳の若造に品定めされている不愉快さ。それを徳川家康はどうしても拭えなかった。

「鉄砲頭！」

「はっ！　ここに！」

　徳川家康は松尾山をじっと睨みつけ、決断した。

　その怒気を帯びた声に応えるかのように、家康を囲む陣幕の外から、鉄砲隊を率いる武将が血相を変えて駆け寄り、家康の前に跪いた。

「松尾山めがけ、一斉射せよ！　間を置かず、五度だ！」

「えっ！？　ですが、しかし……。」

　武将は伏せた顔を跳ね上げ、困惑の色を隠せなかった。

　無理難題に困り果て、この時代の鉄砲『火縄銃』に関する常識を盾に反論しても許されるだろうかと迷う。

「問題ない。ただ撃て」

「御意！」

　無論、徳川家康が火縄銃の扱いを知らぬはずもない。

　己の考案した企みに満足して、家康は頷き、満面の笑みを零した。

　鉄砲が日本に伝来して半世紀。

　量産と改良は目覚ましく、初めて鉄砲を持ち込んだポルトガル人が驚くほどであった。

　だが、徳川家の鉄砲隊が持つ最新型でも射程はおよそ２００メートル。

　それに対し、家康の本陣前から松尾山に陣取る小早川秀秋までの距離は約２キロ。

　当てることも狙うことも、射程から考えれば無謀極まりない距離である。

　家康も当然、その事実を承知していた。

　すなわち、この決断は煮え切らぬ秀秋に対する恫喝だった。

　苛立ちを銃声と銃口で示し、裏切りの決断を促す。そのための斉射だった。

「ふっふっふっ…。

　あの愚図が泣き喚き、慌てふためく様子が、目に浮かぶようだ」

　徳川家康は愉快で仕方がなかった。

　泡を喰った小早川秀秋が松尾山を駆け下り、西軍に襲いかかる光景。その近未来図を、家康は鮮明に思い描いていた。

　間もなく、松尾山へ向けて火縄銃が一斉に火を噴く。

　その数、３０００丁。発射音は雷鳴の如く関ヶ原に轟き、五回にわたって鳴り渡る。

　発射のたびに立ち上る白煙は、火薬の匂いを帯びて徳川家康の本陣である三万の兵を覆い隠すほどに広がっていった。

「……むっ！？」

　だが、ここで西軍にとっての神風が吹く。

　本来なら、徳川家康の思惑通りに進み、約４５０年にわたる長き太平の世を築く徳川幕府の礎となるはずだった天下分け目の戦『関ヶ原の戦い』は、ここで歴史を大きく分岐することになる。

　関ヶ原北西の伊吹山から吹き下ろした猛烈な風。

　戦いの最中ですら、手を翳して立ち止まらねばならぬほどの強風が、徳川家康の本陣を覆った白煙を瞬く間に吹き払う。

　さらに上昇気流を巻き起こし、火縄銃から放たれた約１５０００の弾丸のうちの一発を運び、絶対に届くはずのない松尾山の小早川秀秋の陣中へと導いたのである。