最終章 露先のゆくえ

20話 蕩ける琥珀糖

 七彩ななせのラムダ縫合は、開いたまま新しい空気を送り込んでいた。薄氷こよりは躊躇なく頭蓋に手を突っ込む。微かに蟹味噌のような匂いが鼻をつく。彼はそれを気にする様子もなく、粘性のある物体を掴んでは地面に振り落とし、また掴んでは振り落とす。まるで、不要な部品を選り分けているかのようだった。こよりのかきあげ前髪から汗が滴る。彼は何かを探していた。

 薄氷釦うすらいぼたん渦雷からいに羽交い締めにされていた。加えて、全身には電気が流されている。麻痺で一切動けなかった。全身の傘骨に電気が伝う。釦にできるのは、部屋の中を這うやけど虫を観察するように、冷めた目でこの光景を見つめることだけだった。

 だが、次第に釦の意識が一点に集中し始める。


  ――傘骨の、内部に何かが滞留している?


 最初は鍛え上げられたドMセンサーの誤作動かと思ったが違った。渦雷が流している電流は、内側へと蓄えるように丁寧に浸透していく。その“質”を、釦は知っていた。


 これは、午前2時の出来事だった。釦は、渦雷の買い物待ちの為、コンビニの前の傘立てに置かれていた。その時、暇を持て余した不良学生達に目をつけられた。ビールジョッキに入った褐色のシンナーの中に、使い古された煙草を入れ、釦に塗りたくっていた。釦は、抵抗しようとしても不良学生達に押さえつけられてどうすることもできなかった。このまま夜明けまで彼らと過ごす覚悟を決めたとき、買い物を終えた渦雷がコンビニのドアから出てきた。釦の姿を見て、直ぐに鷲掴みをした。渦雷の手の震え、緊張による電流の波。傘の石突きが刺す方向は不良学生。彼らの目にも止まらぬ早さで、頸動脈を焼き切った。全てが終わったあと、コンビニの自動ドアには、落書きのように不良学生達の鮮血がついていた。

全てがあの頃と同じだった。


――渦雷、やっぱり君は…


 不必要な存在だと嘲笑された釦の心に眩い光が差し込む。それは、渦雷が自分を見捨てていないという、確かな電流の熱だった。

  

「見つかった」


 こよりは七彩の頭蓋から、肉の付着した非人間雇用契約書を引きずり出した。その紙を手で細く切って、指先で縒り合わせる。紐状にしたあと輪っかを作る。輪っかを七彩の首につける。脳血管もスルスルと取り出す。輪っかにくくりつける。そして、勢いよく引っ張った。ギュウギュウと鈍く締まる音が響いた。千切れそうで千切れない首は、誕生日にアイスケーキを切るのと同じくらいの幸福感を味わえた。


「将来有望な子をリサイクルするのは楽しいね。どうして私に今までさせてくれなかったの、渦雷四葩君」


 こよりの口角が上がる。


「貴方のやり方は、非人間の最低限の尊重や意見を無視しているから頼みたくなかった」


 渦雷はそう答えながら、こよりに悟られないよう、少しずつ釦の拘束を緩めていく。彼に耳打ちをする。


「思い出した?実父でも出来るよね?」


 釦は傘の骨を少し動かす。それは了解の合図だった。

 一方で、こよりはネクタイの紐を緩めて、細い脳血管に絡ませる。より強固な紐を作るために鼻唄を歌いながら、釦のことはそっちのけで楽しそうにしていた。


「君の高圧電流を使ったリサイクルもかなり乱暴じゃないか、私と何が違うんだ?」


 こよりは首を不自然な角度に曲げながら渦雷に問う。渦雷は黙る。乱暴さを否定できる材料は特にない。毎回のリサイクル中の七彩の断末魔を聞きながらも楽しんでいたのは確かだった。


「それに君のやり方は間違っている」


 こよりは声をひそめ、七彩の首の輪にくくった脳血管のネクタイを指でなぞる。


「彼の悲観的な性格を書き換えずに、記憶もそのまま、見た目も変えずに職場さえ同じにして、何がリサイクルなんだ?」


 渦雷が息を飲む気配がしたが、こよりは続けた。


「確かに、それは高度な処理ができる君にしかできない再生だった。しかし、君は一度も“更新”しようとしなかった。これは人間リサイクル師の掟に反する。人間リサイクルは、依頼人がより社会に貢献できるための慈善事業だ。それなのに、七彩の希死念慮と渦雷の破壊衝動の利害関係の一致が無意味なリサイクルを生んでしまった。これは悲劇だ。よって、君は人外回帰だ」


 こよりの目に、冷たい光が宿る。渦雷は唇を強く噛みしめる。渦雷の今までの行いが招いたことだ。今までの人間生活が頭の中を流れる。これが自分のLifeMovieなのかと、渦雷は勝手に解釈した。

 こよりは七彩の胸ポケットから露先を出し、指先でクルクルと回した。


「今の彼をゴミにさせたのは、これも原因かもしれない」


 こよりは露先を道路に投げた。露先が放物線状を描いて不衛生な道路に向かっていく。その軌道を、釦は目で追っていた。釦は、七彩がこの露先を形見のように胸にしまい込んだ時のことを思い出した。七彩は、釦からそっと親骨をなぞり、「忘れない」と言って背を向けた。


――まさか、その“忘れない”がこんな形で戻ってくるとは思わなかった。


 心がトーラス状になっていく。今行くしかないと、渦雷の緩い拘束を解いた。露先を掴もうと走る。勢いよく飛び上がる。空中で露先をはめる。少し傘を開く。


「こんな形で戻ってきて欲しくなかったな…」


 こよりは釦に近づく。石突きを触る。折るために。釦はその感覚を察知する。溜めていた電気を流し込む。こよりの断末魔が空気中の酸素を裂く。こよりは、直ぐに手を離して距離を取る。しかし、電気が右腕全体を伝う。右腕を掴んで悶える。


「電気を滞留させたのか…いつの間に…」


 石突きを見たこよりは、渦雷に目を突かれた過去がフラッシュバックした。血に染まった視界。刺された右目はいまだ戻らず、今は亡き奥さんの目を拝借していた。傘という存在が、こよりの世界の半分を壊した。


「お前はまだ使えたんだな」


 それは、こよりから釦への賞賛の言葉だった。


――七彩と釦の性格が入れ替わっていたら、もっと七彩が能動的になり人間リサイクルの研究の発展に貢献できたかもしれない。長尾の墓参りに釦と行った時に、釦の脳を良いように撹拌しても良かった。


「これからは私が父のように君たちを支えるしかない。より良い未来の為に」


 こよりは体を震わせる。青の琥珀糖のような瞳が潤った。

 


 ――刹那、何かがこよりの目尻を切り裂いた。こよりは瞬時に周囲を見回す。目尻から流れる緋色の液体を指で拭った。後ろを振り返ると、分厚い衣を頭から被った人影が立っていた。正体不明。だが、こよりは即座に動く。視界が狭まっている事を好機と捉えた。相手の胴を掴んで反り投げようとした。その瞬間――


「さっきから好き勝手言いやがって」


 正体は蓮根はすねだった。彼女は分厚い衣を脱ぎ捨てて、こよりの手に何発か零距離射撃をする。こよりの手に鋭い痛みが走る。反射的に脳血管を手放す。こよりは蓮根の襟首を掴んで膝蹴りを打ち込む。蓮根はお腹を押さえながら、二発こよりの膝元に打ち込む。互いに距離を取り直す。こよりの膝から緋色の液体が流れる。


「弾丸入ってるね、コレ」


 こよりは笑みを浮かべながら膝の弾丸を取り出す。弾丸が道路に転がる。


 ――突如、地面が怒張するように膨れる。足元がふらつく。道路の何ヶ所から水が噴き出した。割れた地面から何十匹もの巨大な電気ウナギが青空に向かって飛び出す。


「何故、旧人間リサイクル師達がここに?」


 こよりは目を丸くした。ふと、七彩と釦がいないことに気付く。横から大きな口を開けた電気ウナギが迫ってくる。こよりは手刀で電気ウナギの胴を切り裂く。すると、横から熱い中心温度計が頬を貫通して歯に当たる感触がした。


長尾ちょうび君!」


 こよりは目を輝かせる。そこには、たくさんのウナギ肉をすり抜けて、サクサクの衣を纏ったゑび御幸みゆきの姿があった。


「36.8℃、生きてますねぇ」


 ゑびは唾液の糸を引いた中心温度計を抜く。こよりの前髪を掴む。そのまま研ぎ澄まされた刃先を首の頸動脈に向けた。こよりは、素早く前髪を掴んだゑびの指を切断する。切れた指を自由自在に宙に舞わせる。ズボンのポケットに入れる。軽く地面を蹴って後退する。宙に浮く電気ウナギの胴体に乗る。ゑびは無くなった指を気にせず、追いかけるようにして乗る。


「私の恩人に手を出さないでください」


 ゑびは中心温度計を手でリズリカルに回転させながら、こよりに接近する。巨大な電気ウナギのうねる体を足場に、二人は互いの急所を巡る攻防を続けた。この電気ウナギがオフィスビルにぶつかる。窓ガラスを突き破る。二人はオフィスの机に打ち付けられる。こよりはすぐに体勢を整える。電子レンジを発見する。ズボンのポケットから切断した指を取り出し、電子レンジの中に入れる。運転ボタンを押す。


「やめてくれ!」


 ゑびは電子レンジに向かって走る。電子レンジに入れて一分もしないうちに、内部からパキパキと音がする。衣のひび割れる音が。響き出す。


「良い感じだね」


 こよりは電子レンジの扉を引っ張って外し、ゑびの顔面に投げつける。その直後、手榴弾でも仕込まれていたかのように、レンジの中から指が破裂した。ゑびの両目に粘り気のある指の欠片が目に入る。ゑびは顔を抑える。こよりはゑびにかかと落としをする。衝撃で衣は破れ、床にヒビが入って少し穴が開く。こよりはオフィスから外に戻る電気ウナギの尾びれの上に乗る。しかし、衣が脱げて全裸になったゑびに足首を掴まれる。こよりは宙を旋回し、次の波打つ体表に移動する。全裸のゑびをすぐに振り落とせない。こよりはスマホを取り出す。


「通報してもいいか?」

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