16話 死≒異動

 旧人間園水槽ホテルの業務が一段落し、自販機の前の錆びたベンチで長尾排骨ちょうびぱいかはくつろいでいた。ヨレヨレになった海老の模様のネクタイを指で弄る。それは、彼の疲弊した心を映しているようだった。


「今日もアイロンのスチームを使うか…」


 虚ろな目で天井の近くを飛ぶハエを目で追っていた。ハエがネズミ色のワイシャツに着地する。長尾は手で払った。突然、横からぬるい物体が頬に当たる感触がした。


「来週死ぬことはできそう?」


 長尾の上司である薄氷こよりは、ぬるい缶コーヒーを長尾の頬に押しつけていた。長尾は逃げるように立ち上がる。すると、光沢のあるスーツが行く手を阻んだ。コーヒーは長尾の好きなブラックだった。長尾はお礼を言って、缶コーヒーを受け取る。


「すみません。もう一度お願いします」


「来週死ぬことはできそう?」


「無理です」


 長尾はこよりと長い付き合いだった。週に一度はこよりの飲み会に出席した。泥酔したこよりをおんぶして家まで送るのは数え切れないほどだった。休日にはカラオケでサーバーのハッキング、人間フォアグラ農家の見学をしたこともあった。長年の付き合いで、長尾は彼の癖をよく知っていた。この職場では、「死ぬ」という言葉は「異動」や「退職」とほぼ同義で使われていた。長尾の同期も、こよりに同じことを言われ、職場から消え失せたことが多々あった。だいたいは就職センターフライに連れて行かれる。

 第一工場の場合、こよりやこより信者の手によって、頭のラムダ縫合に亀裂を入れられる。そして、日用品や楽器に変えられる。

 第二工場の場合、人間リサイクル師と名乗る電気ウナギによって高圧電流で別の異形頭の人間に錬成されて、人外職業に変わることになる。

 旧人間園水槽ホテルの職員ルールでは、これが人間職から人外職への異動の扱いになる。最近は、職員の提出した遺書の確認印と実家への郵送が増えていた。もう少し人材を大切に扱うべきだと言いたいところだが、こよりの機嫌を損ねると、職員の家族が人間のフォアグラにされてしまい、非常食として真空パックに入れられてしまう。


「二週間延長をお願いします」


「分かった」


 長尾はいつもそう言って、その場をやり過ごしていた。自分の穴を埋めるために何人もの後輩が異動になっていた。長尾には、渦雷という彼女がいる。ここで死ぬわけにはいかなかった。

 突如、眠気が長尾を襲う。開けた缶コーヒーが床に落ちる。長尾は椅子ごと倒れた。缶コーヒーから甘い匂いが漂っていた。

 その後、長尾は二週間病院送りにされた。原因は缶コーヒーに含まれていた大量の大麻摂取によるものだった。

 退院祝いを兼ねて、長尾の為の宴会が行われることになった。後輩は、長尾の退院を祝い菊の花をあげた。同僚は、新しい仕事のマニュアルをくれた。目を通すと、「異動後の心構え」「魂の引継ぎ」など不穏な見出しが並んでいる。なぜか両親も同席しており、緊張した面持ちで、他の社員に「息子の私物はいつまでに片付ければ?」「銀行口座の相続手続きって早すぎませんか?」と質問していた。


 空気が冷たくなる。背筋を伝う汗が、椅子の背に染み込んでいく。


「信じられない…」


――そうか、これは退職祝いじゃない――異動の前夜祭だ。命を賭した、片道切符の。


 長尾は青ざめた顔で隣に座るこよりを見ていた。


「今日は長尾の好きなゑびフライだぞ。残さず食べろよ?」


 こよりは長尾の肩を叩く。この海老フライはかなり生っぽい。他の職員の皿には別の揚げ物が置かれており、臭いや見た目からして、他の職員の揚げ物の方が安全そうだった。正直食べる気にならなかった。食事に手を付けないでいると、こよりは長尾用の海老フライを少し齧る。


「何もないぞ」


 こよりに異変は起きなかった。


「毒見させてすみません」


 長尾は申し訳なく思い、その海老フライを丸呑みした。ぬめっとしている。だが、その海老は異常に旨かった。どこか生きているような……否、生きていた。

 違和感を抱きつつも、退院生活では味わえなかった海老フライを泣きながらひたすら堪能していた。


 数日後、あの異常に旨い海老フライが原因で、長尾は食中毒を起こし、あっけなく死んだ。


「ごめんな、お前のワガママはこれ以上聞いていられなかったんだ」


 こよりは霊安室の中で、昇格レポートを握りしめながら、静かに涙を流した。棺の小窓を開けたり閉めたりした。見ているだけでは落ち着かないのか、棺から、長尾の亡骸を引っ張り出し、しがみつくように抱きしめる。


 「第一工場に行く時間が惜しい」


 こよりは、長尾の頭のラムダ縫合を触る。息を荒げる。霊安室の扉が急に開いた。


 「すみません。もう時間です」


 こよりは何人もの看護師に引きずり出された。


そしてその夜──深夜。

 霊安室の鍵がちゃんとロックされていなかったことが原因で、就職センターフライに連れて行かれるはずだった長尾の遺体は、渦雷によって奪われてしまった。


 実は、旧人間園水槽ホテルには「人外職業研究支援制度」が存在しており、遺体の一部は中学生や高校生の自由研究の素材として提供されることがある。必要な手続きさえ踏めば、合法的に持ち帰ることも可能だ。そして、その遺体は七彩という中学生の手によって自由研究の素材として申請され、旧人間園水槽ホテルの制度により、人外職業への“転職”が合法的にスタートしたのだった。

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