みかぎねさまのいる会社
鈴木一矢
短編
「退職代行を探しています」
SNSのタイムラインを流れる短い文が、私の目を引いた。
私の仕事はいわゆる退職代行サービス。会社を辞めたい従業員本人に代わり、退職の手続きなどを進めるサービスだ。
何年か前は退職代行という言葉に抵抗があったが、今ではボロボロに疲れた人たちの最後の手段として社会に根を張り、似たような会社が林立する業界になっていた。依頼は増え、競争は激しい。だから私は、目に止めたその呟きにすぐ業務的なテンプレを打ち込んだ。まだまだ小さな会社なこともあり、広報も営業も両方行わなければない。
「退職代行を承っております。株式会社リリーフです。よろしければDMで詳細をお聞かせください」
数時間後、ダイレクトメッセージが届いた。返信は短かったが、訴えは濃かった。
「会社を辞めたいけど、辞められなくて困っています。相談に乗ってください」
すぐにスケジュールを聞き、ビデオ通話で詳しい話を聞くことにした。
約束の日、画面に現れたのは二十代後半ほどの女性だった。名を長谷川美咲と言った。痩せた頬、私生活に手が回らない匂いみたいなものが画面越しにも漂い、声は掠れていた。絵に描いたようなブラック企業勤務の女性。それが私の印象だった。
三軒茶屋の小さなウェブデザイン会社に勤めているという彼女。ウェブサイトやちょっとした広告を作る程度の規模だが、現在の業務の密度は過剰だった。残業代は払われず、発注側の急な仕様変更に夜中まで対応している。
「誰も帰らないんです。帰れる空気がないというか」
「タイムカードは?」
「ありません。出勤だけ記録して、退勤は……自分でつけるんですけど、実際は残業の分は認められないみたいで」
よくある話だった。この手の会社の場合、代行サービスのテンプレートに沿った動きをすれば簡単に辞めることができる。具体的なプランの紹介をこちらから持ち出そうとした時、彼女が不思議な話を始めた。
「入社当初は、そんなことなかったんです。定時には帰れたし、車内の空気も今みたいな感じじゃなくて……あの神社に行った時から、おかしくなったんだと思います」
神社? この仕事をしている中ではあまり聞き馴染みのない単語。私の疑問などお構いなしに、長谷川さんは話を続けた。
「地方の小さな神社の仕事があって。商売繁盛の神様を祀ってるって。でも、境内は荒れていて人が来ないみたいで。神主さんが跡を継いでいて、ホームページを作りたいって言うんです。」
「うちは人も少ないので、サイトに載せる写真だったりを自分で撮影しに行ったりもするんです。ついでに少し取材したりとか、小さい会社ながらにどうすれば良いサイトに見れるかを工夫したりしてるんです。」
彼女は息を吸い込み、見るからに怖がっているような顔をした。画面の背後、薄い壁に影が揺れている。
「神社があるのは、栃木県のT町という場所でした。正直見た時の感想は、商売繁盛の神様がいるとは思えないくらい寂れてて、御利益なんてあるようにはとてもとても……一通り写真を撮り終わってサイトのイメージを神主さんと話して帰ろうってなった時に、よかったら参拝もしていってくださいって言われたんです。」
「そこで教わった参拝のやり方が、普通と違ったんです。二礼二拍手ではなく、左手の人差し指をこうやって、右手の親指に引っ掛けて、そのまま一礼するんです。これがここでの作法なんだって。私聞いたんですよ、ここにいるのはどんな神様なんですかって……そしたら」
「みかぎねさまだよって」
私にはそれが、地名のようでもあり、古い呼び名のようでもあると感じられた。
好奇心が業務を外れて覗き込む瞬間が、私にはある。依頼人の会社の話を無駄に深掘りして聞いたり、転職サイトでのクチコミを見てみたり。今回もその例に漏れず、いや過去一番と言ってもいいほど、彼女のその話は私の興味を刺激した。
「よかったら写真をお送りしましょうか?」
私の本心を見抜くかのように、彼女が提案する。少しの申し訳なさと愛想笑いを折り混ぜながら、私は彼女から写真を送ってもらうと、その日の通話は終了した。
その夜、自宅で彼女が送ってきた写真を無造作に開いた。画像フォルダの小さなサムネイルは、一見平凡だ。所々が欠けた古い鳥居、苔むした石段、修繕などはされた形跡のない拝殿と祠。だが拡大していくと写り込んでいるものが違う。鳥居の前に落ちている小さな木片が鉤の形に削られていて、石段の縁に黒い筋が走り、遠景の松の木の陰に、薄く人の輪郭が重なっているように見える。写真は偶然の一枚ではなく、何かを捉えようとして撮られたようだった。そして祠の写真。その中にはうっすらと木彫りの何かがあるように見える。これが「みかぎねさま」だろうか?
私は無意識に左手の人差し指で右手の親指を引っ掛けていた。それが作法のような気がしたからだ。
「にゃ〜」
飼い猫の牡丹の声で我に返った。私はなにをしていたんだろう?
不安そうに私の顔を見上げる牡丹を撫でると、PCを閉じた。
次の日から、社内で小さな異変が起き始めた。まず、問い合わせが突然増えた。これまで一日一件程度だった依頼が、数十件にも跳ね上がっていた。原因はわからない。広告も打っていないし、何かの記事に取り上げられた形跡もない。数字は喜ばしいはずなのに、私には針で突かれるような不快さが残った。突然のことで業務が追いつかなくなり、自然と残業が増えていった。
業務に忙殺される中、私はあることに気がついた。同僚や上司の私を見る目、それがおかしいのだ。会話を交わしているときの笑顔はいつもどおりだが、私が背を向ければ、背中越しに視線が突き刺さる。
ある日の深夜、残業でコーヒーを淹れて席に戻ると、誰もいないはずなのに背後から視線を感じた。目の前の窓ガラスに映る自分の後ろに、ほかの誰かの小さな影がひしめいているのが見えた。けれど振り向いても誰もいない。だけど窓に映る私の後ろには、影がゆらめいていて、その一つ一つが輪郭を形成していくように見えた。それは、あの写真で見たものによく似ていた。そして同時に、同僚や上司からの視線の感覚とも、一致していた。
長谷川さんから連絡が来たのは、それからすぐのこと。前回の通話以降、彼女とは連絡が取れなくなっていた。声は前よりも細くなっている。
「前にも退職代行を頼んだことがあるんです」
「え?」
「担当の人が、事故に遭ったり、体調を崩して辞めたりして……。結局、辞められなくて。なんて言えばいいのかわからないけど、ここから離れようとすると、なにかが邪魔をするんです。リリーフさんは……五社目かな?」
私は最近の出来事を彼女に話すことにした。徒然忙しくなったこと、同僚たちの視線、そしてゆらめく影たち。
「おんなじです。私があの神社に行った日から、問い合わせが鳴り止まなくなりました。社長、喜んでたなぁ……そこから残業が増えて、みんなが私を見る目が変わっていったんです。」
「ある日、ついうとうとしてデスクで眠ってしまったことがありました。そしたら聞こえてきたんです。声……私を取り囲むように、体に響く声……起きたら」
「拝んでたんです。みんなが、私を──」
通話の最中、彼女の背後で誰かが祈るような低い声が聞こえた。祈りというより、何かを取り立てるような、鳴り物のない祭礼の音。私はイヤホンの音量を上げた。糸を引くような音節が耳に残る。「おがね」「おかね」と聞こえたかもしれない。それは言葉というよりも、引っかかった何かが擦れるような感触だった。
それを最後に、長谷川さんは音信不通になった。きっかけとなったSNSは消去されており、電話番号も変わってしまったようだ。
ある日、残業をしていると私のスマートフォンのSMSに、見知らぬ番号からメッセージが来ていた。
「退職は叶いません。御鉤根をおがめ」
ちょうど、退職を考えている時のことだった。誰かが私を会社に繋ぎ止めようとしているのだろうか?
背後で衣擦れの音がした。振り返ると、同僚の渡辺が立っていた。彼は虚ろな目で私を見ている。
「助けて」
そう私が言うと、渡辺は小さく首を振るだけだった。彼はぺたりと床に座り込み、左手の人差し指を右手の親指に引っ掛け、私に深々と頭を下げる。
「やめて……やめてって!」
渡辺の肩を掴み、無理矢理立たせる。残業続きで深い隈のある目を細めながら、彼の口から彼のものではない声が聞こえた。
「みかぎねさまは、人を離さない。根が張るんだ。誰かが依代に、供物は増え、祀る者は増える。根の張った場所には潤いがもたらせれる」
私は気がついた。会社という組織が祀りの構造になっているのだ。内部から来る不満や恨みの成れの果てが、外から来る、持ち込まれた祈りと合わさり、数字は回り、依頼は増える。社員はいわば無自覚な供物と化しつつある。そしてそれを持ち込んだのは私だ。
依頼はさらに増える。顧客は泣きながら電話をかけてくる。辞めたいのに辞められない。子どもを抱えている母親、過労で声が震える若者、命の危険を訴える者たち。私たちは彼らの代表として会社に通知を出し、書類を整え、時に代理で荷物をまとめさせる。私は彼らが羨ましかった。どれだけ辛い目にあっても、私や長谷川美咲と違い、会社の供物から抜け出すことができたのだから。
退職届を引き出しから取り出し、清書して封をし、会社の受付に置くつもりで歩き出す。社長の席へ向かう私をみんなが見ている。手の形は、当然作法通り。社長は笑顔で退職届を受け取ると、そのまま破り捨て、何事もなかったかのように仕事に戻る。自分の席に戻るために一歩、また一歩と歩くたびに後ろから声がする。
「おがめ、おがめ」
耳元で、古い木の擦れる音がする。鉤が木を削る音、引っ掛ける音。私は何度も逃げようとしたが、足は鉛のように重かった。何日家に帰っていないだろうか?牡丹の餌はどうなってたっけ?
「退職代行を探しています」
私がそうSNSに投稿すると、すぐにDMが来た。
「退職代行を承っております。株式会社エプソンです。よろしければDMで詳細をお聞かせください」
すぐにビデオ通話の約束をした。担当してくれたのは若い男性だった。肌のハリつやも良く、私と違って隈もない。きっと彼の目には、私がよくいるブラック企業勤務の依頼人に見えていることだろう。
彼の話を、私は会社で聞いている。オフィスの中で、退職代行の相談をしている。周りには同僚たちがいて、私を拝んでいる。画面に映る私の背後の壁には、影がいくつも揺れている。
みかぎねさまのいる会社 鈴木一矢 @1kazu8ya
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