ビヨンド オブリヴィオン

蓮田 希玲

プロローグ

【その子はよく泣いていたわ。今でも目に浮かぶのよ。顔はよく思い出せないのだけどね。とても穏やかで、優しくて。本当にいい子だったわ】


 虹色の光をほのかに灯しながら咲くポピーが、一面を埋め尽くしていた。下から上へ、上から下へ。緩やかな風に合わせて花びらがざわめいている。私は一歩ずつ、花に申し訳なく思いながら足を進める。時折聞こえる茎の折れた音に、私は心を痛める。その都度足元を見て、花がちゃんと起き上がるかを見た。ごめんなさい。進まなきゃいけないから。

 私の小さな幽霊。ふわふわの白い毛をなびかせて、私をそこへ連れて行ってくれる。長くて細い毛が並んだ触覚を動かしながら、言葉を発さずとも慰めあった。ポピーを齧っては、それを煌めく糸へ変えていく蚕。

「待って、リンボ。待ってね……」

 涙が頬を滑っていく。それは顎へ。そして落ちる。ポピーが受け皿になる。私はその一滴と自分を重ね合わせていた。


【よく話も聞いてくれたのよ。うんうんとうなずきながらね。なのに世の中、そんな子にもお構い無し】


 白く眩く光る空には極光が折り重なっている。雲が形を歪に変えながら動いている。目線を動かす度に、ただ花畑が広がっていたはずが、街が見えてくる。蚕は黒い目を私に向けながら、触覚を回した。

 リンボが導く方へ歩く。踏まれた花が、踏まれていない花になる。水たまりから雨が上がり、波紋は集まっていく。鳥は後ろへ飛び、虫は怒りを鎮めながら巣に戻る。リンボは煌めく糸を吐きながら飛び続けた。

 そして私はいつしか、石でできた立派な家々に囲まれていたのだ。ふわふわな浮遊感のあった地面は、全く気付かぬうちに石畳になっていた。

「ありがとう。お家行こ?」


【どんな話をしたか、覚えてる。ああ、思い出の話だ】


 街を歩く人々の顔は、筆で二度三度撫でたように、はっきりと見えない。でも表情は感じ取れる。みんな笑って話している。私の腰くらいしか背丈のない子供がはしゃいでいる。

「ねえね、お姉ちゃん遊ぼ!」

 麦わら帽子を被った女の子だろうか。足に抱きついてきて、こっちを見ている。こんなに近いのに、顔だけ見えない。リンボは、髪の結び目に隠れた。

「えへへ、いいよ、なにしよっか」

 そう返したところ、紫色の腕が女の子の顔を遮った。

「すみません、うちの子が、ついつい。ほら、いくよ」

「うわーん、お姉ちゃーん」

 私は微笑みながら小さく手を振った。あの子のお母さんも大変そうだった。赤ちゃんを抱っこして、汗もかいていた。


【あの頃に戻りたいって、誰もが思うものだろ。俺はもう一度、会いたいんだ】


「おーい」

 男の声が今度はこっちに呼びかけてきている。よく見えない顔一つ一つに目を凝らしながら、眉毛の位置や口の辺りを見ていく。ひとり、近づいてくる人影があった。声も近づいてくる。彼で間違いない。

「探したぜ、なあ、ちと時間があればなんだけどさ――」

 鼻の当たりを触りながら彼はそう言ってくれた。でも、今は行かなきゃいけないところがある。

「ごめんね、私、ちょっと今忙しくて。ほんと」

「いつならいい?」

「……あー、えっと……次会った時ね!」

 彼は表情を曇らせなかった。わかった、とだけ言い残して、手のひらをこちらに見せてきた。私は優しく、手のひらを出してハイタッチした。次会うならいつになるだろう。顔が見えないから、私からは分からないのが残念だ。


【そうよ、氷の結晶。その子の魔法、とっても綺麗で】


 坂道を下っていって、人通りが落ち着いてくる。尖った屋根が白く光ったり、夕日の色を映したり。高いのか低いのか分からない鐘の音が鳴り響く。窓ガラスがそれに揺らされて騒ぐ。私は自分の肩に指を当てて、淡く光る氷の結晶を作り出す。顔の横にゆらゆらと浮かび、暗がりを青い光が照らす。


【綺麗だけど、ちょっと怖いんだ。それ見ると、目がうずうずしてきて。泣き虫な訳じゃないけど、あれは耐えられないよ】


 頬に冷たい感触がした。指で触れてみると、水だとわかった。はやく見つけないと、と早足で探す。リンボは家や地面、花、空を齧りながら、糸を吐き続けた。その先にあるものを信じて、私は駆けていく。急かす気持ちが足をはやく動かした。

 ――私の家。

 あった。三つに分かれた道の真ん中に立つ、二階建てで、大きな窓からは見慣れた明かりやランプが見える。花壇に植えられた花を見ても、間違いない。嘘みたいな感覚だ。手が震えている。嫌悪感とか、そういうものからじゃなく、嬉しさから来ていた。ドアノブをゆっくり、ぎゅっと握ると、金属音が鳴って、ひとりでに玄関が開いた。

「ただいま……!」

 明かりはついているのに、誰もいないようだった。ブーツを脱いで整え、体中の埃を手で払ってから、廊下に足を運んだ。リンボも嬉しそうに飛び回っていた。


【家の中に、たくさん置かれてた。座って、よく考えた】

【変だと思ったんです。何にも写ってない写真がいっぱいあって】

【でも見ているうちに、誰かいたような気がしてくるんだ。すると、浮かんでくるんだよ】


「ただいま……?」

 家具は何も置かれていなかった。ただ、テーブルの上に一切れのパンがあった。フローリングは誰かが雑巾で拭いたのか、ランプの影がうっすらと見える。ここにはこれが、ここにはあれが、と見ているうちに、帰ってきた感じからは遠のいていった。

 この手触り、懐かしい。キッチンに置かれたフライパンを握ってそう思った。でも、棚には何も無かった。

 肩にかけた鞄の中から、写真を数枚取り出した。この家の中を撮った写真。見れば見るほど、像が揺れ動く。写っているランプは、本当に光っているみたい。今立っている場所から写した一枚を見て顔を上げると、模様替えしたように、知っている部屋になった。足を横にずらすと途端に全部がぼやけて見える。色のズレはゆっくりと結ばれていく。


【自分ごとみたいに僕の話を聞いてくれた。一緒に泣いてくれた。ひどいよね、僕。その子の名前、出てこないんだ】


 私は宙で指を動かして、黒い蓮の花を喚び出す。花びらひとつひとつからは、藍色の光の筋が走っている。心を落ち着かせて、深く息をする。

「がんばるね」

 懐にリンボを隠して、あるはずのない扉を開く。

 見覚えの全くない廊下が続いていた。知っているようで知らない場所だというのが、ますます形になって現れるようだ。吸い寄せられるように廊下に入り、扉を閉めた。


【あの子は――優しかった。優しすぎた】


 点滅する電気。ざらざらとした黒ずんだ壁。写真も飾ってある。

 手を滑らせながら、忍び足で歩く。向こうから光が差し込んでいる。

 左右の壁に空気を圧迫され、私は唇を巻いて、袖をずっとつまんでいた。今いる廊下の突き当たりには、リビングと思われる部屋が見える。白いカーテンがクラゲみたいに揺れている。一歩ずつ、床に黙るよう祈りながら進める。

 常に誰かに見られている気がしてならない。影と同化している扉一つ一つ、ドアノブが回らないかを見る。そうして突き当たりにたどり着く。

 かすかに、木の軋む音が聞こえる。息使いもだ。いる。恐る恐る死角からリビングを覗いてみる。

 後ろ姿。体を縛るような空気を出していたのは彼だ。食器棚に反射する顔はよく見えないが険しかった。じっと見ていると手が動いた。たばこを手に取った。カチカチと音がして、鼻をつくにおいが漂いだす。彼が大きく息をするたびに、煙の塊が幽霊みたいに動いて電球に抱きつく。

「――またか」

 椅子に座っていた男は、低い声であきれたように言って立ち上がった。冬の夜のように時間が止まったみたいに静かな空間を、床の叫び声が断つ。煙が彼の口から這い出てくる。足がすくむ。息を飲んで、私は彼を見るしかなかった。迫ってくる。目をそらせない。いや、どこを見ていいか分からない。重い足音が近づくたびに心臓が飛び出しそうになっていく。彼はたばこを握りつぶして放り投げた。

 足が床に貼り付いて動けないまま、胸ぐらを掴まれ、男の鬼のような顔が視界を埋めた。息が詰まりそう。太い手を放したい一心で抵抗する。彼の指の間に手を入れて、はがすようにしたいところだが、まったく歯が立たない。叩いたり、爪で突いたりするも、握る力が強くなるだけだった。

「約束を、守るのが下手だな。……おい、こっちを見ろ」

 見ていられない。そんな目で見て欲しくない。男はため息をつくと私を投げ捨てるように突き放した。床にぶつかる音は、残響を使って室内の空気をより重くした。立ち上がれない。怖くて前を見られない。彼の足が有り得ないほど大きく見える。いつかは終わるんだと、ただそれを繰り返し心の中で唱えた。

「黙ってるからっていい気になりやがって」

 男はそう言って、いきなり足で壁を蹴った。私は声も出なかった。息の音も出すのも怖い。窓からの光が彼を黒く見せていた。

「なんだその目は」

 目が合ってしまった。睨むつもりはなかったのに。影が近づいてくる。髪を鷲掴みにされる。痛くて声が漏れる。

「それが、親に対する態度か?」

 吐き捨てられ、手が放された。震えが止まらない。指先が床を探しても何も掴めない。私は何をしてしまったんだろう。私は何を間違えたんだろう。頭が真っ白になって出てこない。今どうしてこんなことをされているんだろう。男は一歩下がり、見下ろす影を落とした。膝が沈む。

「……ち、ちょっと、話し合――」

「謝りもしないな――やっぱりこうでもしないとダメか」

 そして――


 耳鳴りが止んで、目を開くと、辺りは園庭になっていた。まだじんわりと分厚い手の感触と頭の痛みが残っている。足元が冷たい。視線を下にずらす。泥まみれだ。私は水溜まりに漬かっている。本当に泥なのかを確かめるために水溜まりを撫でてみる。茶色く濁った土のにおい。やっぱりそうだ。

 どうしてこんなことになっているのか分からず、そんな自分が悔しいし、みっともないし、誰にも見られたくない。この気持ちをどこにぶつけたらいいのかも分からず目がうるうるする。

 チャイムの音が鳴っている。行かなきゃ、と思う。足が言うことを聞かない。動いてくれない。

「時間だよ、遅れるぜ」

 向こうから男の子の声が聞こえる。返事をしたいが声を出せない。てんとう虫が泥まみれの膝に飛んでくる。見ているうちにそれはどんどん沈んでいく。出ようと必死にもがいているが、やがて足も動かなくなっていく。私もこうやって泥の中に沈んでいくのだろうか。

「えー何この子ウケるー」

「きったねぇ。おいおいチビ、なにしてんの?」

「アッハハ!泥んこ遊びぃ?よーちな子ー!」

 だらだら伸びた袖、見せつけるようにお腹を出した服装、しつこいほど音を鳴らして光るアクセサリー。その姿に相応しい雰囲気のにやけた3人組が近づいてきた。さっきと似た怖さがあって何も喋れない。年は見た感じ3歳くらい年上だ。でもありえないくらい大きく見える。ずっと視線を感じるものだから、前を見れなかった。じっと自分の浸かっている水溜まりを眺め、揺れ動く彼らの姿を気にする。

「な、ここでなにしてんの?」

 来た。腰を下ろして私のことを見ている気がする。首をちょっとずつ戻すと、丸い目つきの男のすっとぼけた顔と目が合った。

「じゃ、俺も遊んであげよっか。何したらいい?俺」

 舌を転がすような喋り方。背後にいる女二人はずっとコソコソなにか話している。本当に気分が悪くなってきた。

 黙っていると、男は泥に手を入れて丸めだした。ほらよ、と言い放ち、私の顔目がけてそれを投げてきた。顔半分は多分、汚れてしまった。ざらざらした頬を撫でて、手に着いたものを見る。人にこんなもの投げられるんだ、私。胸の奥から間欠泉みたいに噴き上がってくる。こんなの耐えられっこない。

「泣いたらやめてくれるとか思ってんのウケる」

 猿みたいに手を叩きながら笑いだした男は、女二人に向かって手招きした。彼女たちの長い足が音を立てて近づいてくる。口を閉じられない。息が苦しい。

 女二人が笑いながら写真を撮っている。こんな自分が写真に残るなんて考えたくない。

「こっち向いてよー?」

 いやだ。絶対に向かない。どうしてこうなったかをもう一度考えたい。よく考えたい。けれど頭の中はここから離れたい一心で、それどころじゃない。

 隠れていたリンボが飛び出して、彼女らに鱗粉をふりかけ始めた。激しく飛び回って邪魔をしている。

「気持ち悪……なにこの虫!」

 思いきり振った手が当たったのだろう。風を切る音と一緒に、リンボが泥へ叩きつけられる。やっと足が少し動く。必死に翅を動かしている。吹き出しそうになっていたものが、ひどく私の内側を揺さぶってくる。リンボを拾って「ごめんね」と言いながら撫でた。

「おいコラ、何してんだてめえら!」

「うわやっべ、ずらかるぞ、ほらほら」

 低い罵声が空気を割った。男は女二人の首に腕をかけて、ヘラヘラと逃げていく。おそらく追い払ってくれた人が、後ろから歩いてくるのがわかる。


 私の手を後ろから、それは掴んできた。首が動く。振り返る。眼鏡をかけた中年の小太りの男だ。這いつくばってなにか言っている。かなり強く掴まれている。彼の息は荒い。園庭は暗くて物が散乱した、少々臭い部屋になっていた。

「な、なあ、もうちょっと近くによってくれていいだろ。なぁ。ははは、はは……助けて、やったんだ、なあ!」

 手首を締め付けてきた。引っ張られる。明らかに危ない予感がする。手元の布につかまって必死に抵抗する。腕毛を見せた不潔な男。だらしなく伸びたシャツにベルトを外したズボン。それを見てから、頬が目をつぶすように引きつった。

「ど、どうしてそんなに嫌がるんだぁ!君は、ぼ、僕が必要だって、言ってくれたじゃないかぁ!あぁ!」

 彼は長距離を走ってきたかのように息を切らして興奮している。今度は足を掴まれる。靴下の繊維の隙間に爪を引っかけて引きちぎろうとしてくる。我慢できない。もう誰もこっちに来ないで。来ないで。お願い……!


 そう願った。重く鋭くその音は響いた。ガラス瓶を一瞬で何百と投げつける勢いで、青い氷が自分の手から迸った。

 男は血走った目のまま凍っている。部屋も半壊してしまった。タンスもキャビネットも、ライトも。目前に広がるのは大きな水晶のような氷塊。家具の破片をのぞかせている。

 何かが流れ込み始めた。耐えられなかったから仕方がない。これに耐えるなんて無理。頑張って自分を慰めてみるが、それはもうダムの役割を果たしてくれなかった。

「ごめんなさい……。無理なの。無理だった……」

 濁流が襲ってくる。見えないけどおぞましい。すべてが涙でできているそれは、私も含めて飲み込み始める。寒い。声が聞こえる。誰の声かは分からない。無理だ。街の人を全員集めて、悲しい話を一斉に聞かされている感じ。死んだ。別れた。無くした。消えた。恨んだ。怒った。

「私じゃない!あたしのじゃない!もう嫌!」

 目を押さえたり、耳を塞いだり、頭を振ったりして、私の周りを漂うものを振り払おうとした。あちこちから割れたり、壊れたりする音。だんだん寒くなってくる。


 気づけば凹凸のない石の壁だけでできた、独房の中。誰もいない。ここから出して。それしか考え出せない。

 良くない言葉がレンガみたいに積み重なって押し寄せてくる。耳を塞いでも聞こえるし、目を瞑っても見えてくる。

 どうしてそんなに嫌いなの?どうしてあなたは死んでしまったの?戻りたい、やり直したい、あんなことしなければ良かった、言わなければ良かった……。


【あの子より忘れたいことなんて山ほどあるのに、ほんと】

【忘れたい】

【人の死に顔を見たことはあるか?】

【僕がずっとひとりぼっちだった時の話、聞きたい?】

【そんな魔法、あったらいいな】


 覚えてたくない。こんなの背負ってられない。いつか思い出すのが怖い。

 「お願い……。全部、全部。忘れさせて……」

 冷えた鉄の扉を前に、耳を両手で覆って、涙と一緒に呟いた。リンボが私の髪の毛を齧った。

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