ノイズキャンセリング・ラブ
伝福 翠人
ノイズ
耳を塞いでも、意味はなかった。
ぎしり、と軋む金属音と、床下から響く単調な振動。朝の通勤ラッシュに揺られる満員電車は、人いきれの熱気と湿ったコートの匂いで満ちている。相田湊(あいだみなと)は、吊り革を握る人々の腕の隙間から、窓の外をぼんやりと眺めていた。灰色に沈んだビル群が、凄まじい速さで後ろへと流れていく。
世界から音を遮断するために耳に押し込んだワイヤレスイヤホンからは、気の利かないアルゴリズムが選んだであろう、当たり障りのないインストルメンタルが流れている。だが、湊が本当に消したいと願っているのは、電車の走行音でも、誰かの咳払いでもない。
視界の端、向かいに立つ女性が持つスマートフォンの画面が、不意に光を放った。SNSのタイムラインだろう。そこに並ぶ文字が、湊の目には単なる文章として映らない。
『寝坊したけど、昨日の夜更かしが原因じゃない。低気圧のせい。』
『締め切りに間に合わないかも。でも、これは僕のせいじゃなくて、急な仕様変更のせいだ。』
『またダイエット失敗。付き合いだから仕方ない。』
文字列が生き物のようにぐにゃりと歪み、輪郭を失う。意味の羅列が黒い染みとなって網膜に焼き付き、**思考そのものを汚染していくような感覚。**耳の奥で、割れたガラスが擦れるような音がした。こめかみの奥が、鈍く痛み始める。
「……っ」
湊は固く目をつぶる。イヤホンから流れる音楽のボリュームを上げたが、効果はない。この痛みは、鼓膜を震わせてやってくる類のものではないからだ。それは、人々の心が生み出す濁流が、直接脳に流れ込んでくるような感覚だった。
いつからこうなったのか。
最初の兆候は、些細な違和感だった。会議中の上司が口にした「聞いていない」という一言が、やけに頭に響いた。クライアントが並べた「予算がない」という常套句が、耳の奥で不快に反響した。
それが今では、視覚情報にまで侵食してきている。SNS、メール、企画書の修正指示。そこに込められた自己正当化や責任転嫁の意図を、湊の脳は過敏に拾ってしまう。一種のエンパスやHSPなのだろうかと、一度だけ調べたことがある。だが、どの記述も、この腐った鉄の匂いがするような、生々しい感覚を説明するには足りなかった。世界は言い訳で満ちており、湊にとっての世界は、耐え難いノイズそのものだった。
広告代理店勤務、28歳。コミュニケーション疲れを隠しながら、人の言葉の裏を読み、クライアントの隠れたニーズを掬い取ってきたスキルが、今や自分自身を内側から破壊している。
電車が大きく揺れ、隣に立つ男の腕が強く押し付けられる。「すみません」と口先だけの謝罪が聞こえた。湊の頭の中では、『俺のせいじゃない、こんなに混んでるのが悪い』という無言のノイズが鳴り響き、痛みが一層強くなる。
もう、何も感じたくない。何も聞きたくない。
会社に着くと、湊は無意識に足早になっていた。自分のデスクという小さなパーソナルスペースだけが、唯一の避難場所だった。パソコンを起動し、今日のスケジュールを確認する。午後一時に、例のクライアントとの最終プレゼンが入っていた。大型のコンペ案件。ここ数週間、チーム全員が心血を注いできたものだ。
「相田、今日のプレゼン、頼んだぞ」
背後から声をかけてきたのは、部長の佐々木だった。その声色に含まれる過剰な期待と、『もし失敗しても、担当のお前が全責任を負えよ』という本音のノイズが、湊の頭を刺す。
「はい。万全です」
湊は完璧な笑顔を貼り付けた。社会人として最適化された、当たり障りのない返事。だが、その言葉を発した瞬間、自分自身の内側からも微かなノイズが生まれるのを、彼は感じていた。『本当は不安で自己肯定感が地の底だ』という心の声が、言い訳の仮面を被ろうとしていた。
昼食を挟み、時間は無情に過ぎていく。プレゼン資料の最終チェックをしながら、湊は深呼吸を繰り返した。大丈夫だ。資料は完璧だ。練習もした。あとは、この忌々しいノイズさえなければ。
午後一時、会議室の白いテーブルを挟んで、クライアントの担当者三名と向き合う。メインの相手は、決定権を持つ課長の高田だ。湊は淀みなくスクリーンに映し出された企画意図を説明し、具体的な施策へと話を展開していく。チームのメンバーが固唾を飲んで見守る中、プレゼンは順調に進んでいるように思えた。
問題は、質疑応答の時間に起きた。
高田が、腕を組んで口を開く。
「素晴らしいご提案だとは思うのですが、一点だけ。このメインビジュアル、どうにも既視感がある。もう少し、オリジナリティは出せませんか」
既視感。それは、高田自身が最初の打ち合わせで「あのA社の広告みたいな感じで」と明確に指示してきたものだった。湊は冷静に、しかし確信を持って答える。
「ご指摘ありがとうございます。こちらのビジュアルは、先日高田課長からご提示いただいた参考イメージを、我々なりに最大限発展させたものになります」
その瞬間だった。
高田の口元が、わずかに歪む。
「いや、私はあくまで参考として見せただけで、模倣しろとまでは言っていない。そこを汲み取って、超えてくるのがプロの仕事でしょう」
その言葉が、湊の耳に届くことはなかった。
代わりに、高田の口から、黒いノイズの塊が迸った。
『俺の指示が曖昧だったなんて、今さら部下の前で認められるか。責任はそっちにある。俺のイメージを正確に形にできなかった、お前たちの力不足だ』
ゴオオオオオ、と地鳴りのような音が頭蓋を揺さぶる。視界がぐにゃりと歪み、高田の顔が、チームのメンバーの顔が、のっぺらぼうのように溶けていく。立っていられないほどの激しいめまいと、頭をかち割られるような激痛。
「……っ、あ……」
声にならない声が漏れる。資料を握りしめていた指から力が抜け、紙の束が床に散らばった。何とか堪えようとテーブルに手をついたが、それも叶わない。膝が折れ、湊の身体は糸が切れた人形のように、ゆっくりと床に崩れ落ちていった。
薄れゆく意識の中、誰かが自分の名前を叫ぶ声が、遠くに聞こえた。
だが、それ以上に強く、鮮明に、頭の中に響いていたのは、一つの絶望的な確信だった。
もう、何も聞こえなければいいのに。
そんな生ぬるい願いは、もはや通用しない。
世界が放つノイズが、自分を殺しにきている。
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