第10話

サイラスは、震える手で、装置の錆びついたレバーに手をかけた。外では、風がさらに強まり、漁船の助けを求める汽笛が、嵐の音に混じって、微かにここまで聞こえてきていた。


ルナは、そんな祖父の姿を見て、首を何度も横に振った。その瞳には涙が浮かび、必死に何かを訴えかけている。その装置を使ってはいけない、と。彼女は、それが祖父の命を削る危険なものであることを、本能的に理解しているのだ。


「ルナ……。わかっておる。だが、こうするしかないんじゃ」


サイラスは、孫娘の頭を優しく撫でた。彼の深い青色の魔力は、悲壮な決意の色に染まっている。


「あの船には、わしらの街の仲間たちが乗っておる。家族の元へ帰るのを、待っている者たちがおるんじゃ。この灯りだけが、彼らの最後の希望なんじゃよ」


ルナは、それでも祖父の服の袖を掴んで離さない。行かないで、とでも言うように。


「大丈夫じゃ。わしは、長年この灯台を守ってきた灯台守じゃからの。灯りの扱いなぞ、誰よりも心得ておる。少しだけじゃ。少しだけ、光を強くするだけじゃよ」


サイラスは、無理に笑みを作ると、そっとルナの手をほどいた。そして、彼は意を決して、増幅装置のレバーをゆっくりと押し込んだ。


ゴゴゴゴゴ……という重い地響きと共に、灯室に設置された巨大な魔晶石が、不気味な紫色の光を放ち始めた。灯台全体が、まるで生き物のように激しく震動する。壁からはパラパラと石の欠片がこぼれ落ちた。


俺は上空から、その一部始終を【魔力感知EX】と【千里眼EX】で観察していた。


サイラスの身体から、生命力そのものである深い青色の魔力が、糸のように引き出され、増幅装置へと吸い込まれていくのが見えた。装置はそれをエネルギーに変換し、魔晶石へと送り込んでいる。彼の命を燃料にして、光を生み出しているのだ。彼の魔力は、風前の灯火のように激しく揺らめき、その輝きを急速に失っていく。


ルナの淡い銀色の魔力は、恐怖と悲しみで嵐のように荒れ狂っていた。彼女はただ、意識を失いそうに倒れ込む祖父の姿を、見ていることしかできない。


だが、その犠牲は、決して無駄ではなかった。


灯台の頂上から放たれる光は、それまでの弱々しさが嘘のように、力強い一本の光の柱となって嵐の闇を貫いた。荒れ狂う海面が、白昼のように明るく照らし出される。


「おお……! 光だ! 灯台の光だぞ!」


「助かった……! 俺たちは助かったんだ!」


嵐に翻弄されていた漁船の上から、歓喜の声が上がるのが【万物翻訳】を通して聞こえてくる。彼らはその光を頼りに、危険な暗礁地帯を巧みに避け、港のある方向へと必死に舵を切っていた。


光は、数分間、その輝きを保ち続けた。漁船が、安全な湾内へと入っていくのが見える。


だが、その代償はあまりにも大きかった。サイラスの身体は、もはや枯れ木のようになっていた。彼の青い魔力は、ほとんど見えなくなるほどに薄れてしまっている。


そして、その時だった。


キィン、という甲高い音と共に、魔晶石の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。増幅装置による無理な魔力供給に、魔晶石自体が耐えきれなくなったのだ。紫色の光は、禍々しい赤黒い色へと変貌し、危険な波動を放ち始める。


暴走だ。このままでは、魔晶石は凄まじいエネルギーを放出して爆発し、この灯台ごと木っ端微塵に吹き飛ばしてしまうだろう。


「う……ぐ……」


サイラスは、最後の力を振り絞り、装置のレバーへとか細い手を伸ばす。だが、その指先はレバーに届くことなく、力なく床に落ちた。彼の意識は、完全に途絶えてしまったようだ。


もう、終わりだ。誰もがそう思った、その瞬間。


「おじいさまっ!!!!」


静寂を破り、鈴が鳴るような、しかし芯の通った少女の声が、灯台の中に響き渡った。


声の主は、ルナだった。今まで一度も、声を発したことのなかった彼女が。


彼女の身体から、信じられないほど膨大な、清らかな銀色の魔力が溢れ出した。それは、まるで月光そのものが凝縮されたかのような、神々しいまでの輝きだった。


彼女は、倒れている祖父の元へ駆け寄るのではなく、暴走を始めた魔晶石へと、まっすぐにその小さな手をかざした。


「静まって……! お願いだから……!」


彼女の祈りに応えるように、銀色の魔力は奔流となって魔晶石へと流れ込んでいく。赤黒く染まっていた魔晶石の光が、その清浄な魔力に触れ、みるみるうちに浄化されていく。暴走のエネルギーが、穏やかな光の粒子となって霧散していくのが見えた。


それは、まるで伝説に語られる聖女の奇跡のようだった。彼女には、荒れ狂う魔力を鎮め、調律するという、類稀なる才能が眠っていたのだ。


やがて、魔晶石の光は完全にその輝きを失い、ただの大きな水晶へと戻った。灯台を揺るがしていた振動も、嘘のように収まっている。嵐も、いつの間にかその勢いを弱めていた。


最悪の事態は、避けられたのだ。


静寂が戻った灯室に、ルナの嗚咽だけが響き渡る。彼女は、意識のない祖父の身体にすがりつき、ただひたすらに涙を流し続けていた。


俺は、少しだけ腹ごしらえをすることにした。この緊張感の中、ずっと観察を続けていたせいで、エネルギーを消耗してしまった。


嵐が弱まったことで、岩礁には波に打ち上げられた生き物がいくつか転がっている。俺はその中の一つに狙いを定めた。


【名称】 ストーム・シェル

【味傾向】 塩気とミネラルが凝縮された濃厚な味。磯の香りが強い。

【食感】 コリコリとした歯ごたえ。

【効能】 生命力回復(微)。嵐への耐性向上(小)。


一口食べると、凝縮された海の味が口の中に広がり、消耗した体力がわずかに回復するのを感じた。さて、もう少しだけ、彼らの物語を見届けるとしよう。


夜が明け、空が白み始める頃、嵐は完全に過ぎ去っていた。穏やかな朝の光が、灯台を優しく照らしている。


ルナは、夜通し祖父の看病を続けていた。彼女の銀色の魔力で祖父の身体を包み込み、少しでもその生命力を繋ぎ止めようと必死だった。そのおかげか、サイラスはかろうじて命脈を保っていたが、その意識は未だに戻らない。


そして、灯台の光は、完全に消えてしまっていた。長年、この海の安全を守り続けてきた光は、その役目を終えたかのように、沈黙している。


コンコン、と灯台の扉を叩く音がした。


ルナが驚いて扉を開けると、そこには数人の屈強な男たちが立っていた。日に焼けた、海の男たちだ。彼らは、昨夜の嵐の中、この灯台の光に命を救われた漁師たちだった。


「灯台守のじいさんは、ここにいるのか? 昨夜のお礼を言いに来たんだが……」


船長らしき男がそう言ったが、彼はすぐに言葉を失った。扉の奥、床にやつれ果てた姿で横たわるサイラスと、涙で目を真っ赤に腫らしたルナの姿を見たからだ。そして、灯台の心臓部である灯室が、完全に光を失っていることにも気づいた。


「……じいさん……! まさか、あんた……!」


船長は、全てを察したようだった。昨夜のあの奇跡的な光が、この老人の命と引き換えに灯されたものだったということを。


「なんてこった……。俺たちは、この人の命に救われたのか……」


漁師たちは、皆、言葉を失い、その場で呆然と立ち尽くす。ある者は帽子を取って祈りを捧げ、ある者は悔しそうに壁を殴りつけた。


彼らは、今まで灯台の光があることを、当たり前のことだと思っていた。毎日、海から帰ってくれば、あの光が必ず自分たちを迎えてくれる。その光の裏に、一人の老人の、これほどのまでの献身があったことなど、考えたこともなかったのだ。


「すまねえ……。本当に、すまねえ……!」


船長は、ルナの前に膝をつくと、深々と頭を下げた。彼の目からも、大粒の涙がこぼれ落ちていた。

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