第5話

凄まじい衝撃波が、戦場を駆け抜けた。俺は上空で翼を必死に羽ばたかせ、その余波に耐える。


土煙が晴れると、信じられない光景が広がっていた。ゴブリン・チャンピオンの巨大な棍棒が、真ん中から綺麗にへし折れている。そして、チャンピオン自身の胸には、深々と剣が突き刺さっていた。


「が……はっ……」


チャンピオンは口から血の泡を吹き、信じられないという表情でセアランを見つめている。


「なぜ……人間の……分際で……」


「お前たちが、ただの獣だからだ」


セアランは冷たく言い放ち、剣を引き抜いた。巨体を支える力を失い、チャンピオンはその場に崩れ落ちる。リーダーを失ったゴブリンたちは、完全に戦意を喪失した。蜘蛛の子を散らすように、我先にと逃げ出していく。


「……終わった、のか……?」


城壁の上で、誰かが呆然と呟いた。静寂が戦場を支配する。残されたのは、おびただしい数のゴブリンの死体と、その中心に一人で佇むセアランの姿だけだった。


やがて、砦から割れんばかりの歓声が上がった。


「うおおおおおっ!」

「勝った! 俺たちは勝ったぞ!」

「セアラン様、万歳!」


門が内側から開け放たれ、兵士たちが駆け出してくる。彼らはセアランを囲み、英雄を称えるように、何度もその名を叫んだ。中には、涙を流している者もいる。


セアランは、そんな彼らに穏やかな笑みを向けた。彼の黄金の魔力は、先ほどよりもずっと淡くなっていたが、その輝きは一層、優しさを増しているように見えた。


「皆、よく頑張ってくれた。ありがとう。だが、まだ仕事は残っている。負傷者の手当てを急ぐんだ。夜が明ける前に、できる限りのことをするぞ」


彼の言葉に、兵士たちは力強く頷き、すぐに行動を開始した。その光景を、城壁の上から忌々しげに見下ろしている男が一人。あの指揮官だ。彼の魔力は、嫉妬と憎悪の入り混じった、ヘドロのような色をしていた。


夜が明け、朝日が山脈を照らし始めた頃、砦には一応の落ち着きが戻っていた。兵士たちはほとんど眠らずに、後片付けと負傷者の治療に当たっていた。セアランも、自らの傷を省みず、一人でも多くの仲間を救おうと野戦病院を駆け回っている。その姿は、騎士というよりも聖職者のようだった。


そんな彼の元へ、指揮官が数人の部下を引き連れてやってきた。


「セアラン! 貴様、よくもやってくれたな!」


指揮官は、開口一番そう怒鳴った。その剣幕に、周りの兵士たちが身構える。


「これは一体、どういうことですかな。指揮官殿」


セアランは、負傷した兵士の腕に包帯を巻きながら、冷静に問い返した。


「とぼけるな! 貴様は俺の命令を無視し、勝手な行動を取った! これは重大な軍規違反だ! 本来ならば、即刻処刑されてもおかしくないんだぞ!」


指揮官の言い分に、周りの兵士たちがざわめく。


「何を言うか! あんたが震えていただけだろう!」

「セアラン様がいなければ、今頃俺たちは皆殺しにされていた!」


兵士たちから非難の声が上がるが、指揮官は聞く耳を持たない。


「うるさい、黙れ! こいつの独断専行が、どれだけ多くの負傷者を出したと思っているんだ! 全て、こいつの責任だ!」


彼は、戦闘の被害を全てセアラン一人に押し付けようとしているのだ。あまりの理不尽さに、俺は呆れてしまった。人間とは、ここまで醜くなれるものなのか。


セアランは、黙って指揮官の言葉を聞いていた。彼の表情は穏やかで、怒りや憎しみといった感情は見て取れない。


「……全ての責任は、俺にあります。兵士たちに罪はありません。いかなる罰でも受けましょう」


「なっ……セアラン様!」


セアランの言葉に、兵士たちが驚きの声を上げる。なぜ、彼が罪を認めなければならないのか。


「それで、よろしいですかな。指揮官殿」


セアランは静かに、そう言った。指揮官は、一瞬怯んだような顔をしたが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「ふん、わかればいいんだ、わかれば。貴様には、後ほど正式な沙汰を言い渡してやる。それまで、営倉でおとなしくしているんだな! 連れて行け!」


指揮官が顎でしゃくると、彼の部下たちが恐る恐るセアランに近づいていく。だが、誰も彼に手をかけようとはしない。皆、セアランがこの砦を救った英雄だと知っているからだ。


その時だった。砦の外から、馬の蹄の音が聞こえてきた。それも、ただの馬ではない。統率の取れた、軍馬の集団だ。


見張り台にいた兵士が、慌てたように叫んだ。


「旗だ! 王家の紋章……! 近衛騎士団の皆様のご到着だ!」


その報告に、砦にいた誰もが驚きの表情を浮かべた。近衛騎士団。王都を守護する、国で最も精鋭とされる騎士たちだ。なぜ、彼らがこんな辺境の砦に?


やがて、立派な鎧に身を包んだ一団が、砦の中へと入ってきた。先頭に立つのは、白銀の鎧を纏い、威厳のある髭をたくわえた壮年の騎士だった。その肩には、将軍位を示す徽章が輝いている。


「ダグラス将軍……!?」


指揮官が、信じられないという顔でその名を呟いた。ダグラス将軍。近衛騎士団の団長にして、王国最強と謳われる騎士だ。


将軍は馬から降りると、鋭い目で周囲を見渡した。


「……ひどい有様だな。昨夜、大規模な戦闘があったようだが、一体何があった? ここの指揮官は誰だ」


将軍の問いに、指揮官は慌ててその前に進み出た。


「はっ! 自分が、この砦の指揮官、バルガスです! 昨夜、ゴブリンの急襲を受けましたが、このバルガスの見事な指揮により、なんとか撃退に成功いたしました!」


彼は、臆面もなくそう言い放った。その厚顔無恥さには、もはや感心すら覚える。


ダグラス将軍は、そんなバルガスを冷たい目で見つめた。


「ほう。お前の、見事な指揮で、か」


将軍はそう言うと、バルガスの隣を通り過ぎ、兵士たちの方へ歩いて行った。そして、負傷して横たわっている一人の若い兵士の前に膝をついた。


「兵士よ。お前の名は?」

「は、はい! 二等兵のトムと申します!」


若い兵士は、緊張で体をこわばらせている。


「トム二等兵。昨夜の戦いの様子、ありのままに話してはくれまいか。誰が、どのように戦ったのかを」


将軍の言葉は、穏やかだが有無を言わせぬ響きを持っていた。トム二等兵は、一瞬バルガスの方を気にしたが、やがて意を決したように口を開いた。


「……昨夜、俺たちを救ってくれたのは、バルガス指揮官ではありません。セアラン様です!」


トム二等兵は、震える声で、しかしはっきりとそう言った。


「セアラン様が、たった一人でゴブリンの群れを食い止め、俺たちに勇気をくれました! 指揮官は、城壁の上で震えているだけでした!」


彼の告発を皮切りに、他の兵士たちも次々と口を開いた。


「そうだ! 指揮官は俺たちを見捨てようとした!」

「セアラン様がいなければ、砦は落ちていた!」


兵士たちの悲痛な訴えが、砦に響き渡る。バルガスの顔は、みるみるうちに青ざめていった。


ダグラス将軍は、黙って兵士たちの言葉に耳を傾けていた。そして、全てを聞き終えると、ゆっくりと立ち上がり、バルガスの方を振り返った。


「バルガス指揮官。何か、弁明はあるかな?」


その声は、地の底から響くように低かった。バルガスは、もはや何も言うことができなかった。ただ、その場でがくがくと震えているだけだ。


将軍は、そんな彼に一瞥もくれず、セアランの方へ歩み寄った。


「君が、セアランか」

「……はい」


セアランは、静かに頷いた。


「見事な戦いぶりだったと聞いた。礼を言う。君のおかげで、この砦と多くの命が救われた」

「もったいないお言葉です。俺は、騎士として、なすべきことをしたまでです」


セアランは、驕るそぶりもなく、そう答えた。ダグラス将軍は、彼の答えに満足そうに頷くと、兵士たち全員に聞こえるように、高らかに宣言した。


「バルガスを指揮官の任から解き、軍規違反と敵前逃亡の罪で王都へ連行する! そして、この砦の新たな指揮官として、セアランを任命する!」


その宣言に、バルガスは膝から崩れ落ちた。兵士たちからは、今度こそ、心からの歓声が上がった。


俺は、その光景を空から見下ろしていた。悪は裁かれ、正義は報われる。実に、気分のいい結末だった。


俺は、この砦での観察を終え、再び南へと翼を向けることにした。この土地の空は、澄み渡っていて気持ちがいい。上昇気流を捉え、ぐんぐんと高度を上げていく。眼下では、新しい指揮官の下、兵士たちが希望に満ちた表情で砦の再建を始めていた。


山脈を越えると、景色は一変した。広大な森林地帯が、地平線の彼方まで続いている。緑の海のようだ。


しばらく飛び続けていると、森の中にぽつんと、小さな湖が見えてきた。その湖畔には、質素だが手入れの行き届いた小屋が建っている。煙突からは、細く煙が立ち上っていた。こんな森の奥深くに、誰が住んでいるのだろうか。


興味を惹かれた俺は、少し寄り道をしていくことにした。湖の近くにある、ひときゆわ大きな樫の木に止まり、小屋の様子を窺う。

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