第2話
俺の最初の渡りは、南を目指すことにした。親鳥から受け継いだ本能が、南には暖かく、食料の豊富な土地があると告げていたからだ。
何日も、何日も飛び続けた。眼下には、青い海原が延々と広がっていた。時には嵐に見舞われ、巨大な波が空まで届くかのように荒れ狂うこともあったが、【身体能力EX】を持つ俺の身体は、ものともしなかった。疲れたら海面に浮かんで休み、腹が減れば海にダイブして魚を捕る。鑑定スキルのおかげで、どの魚が美味しくて栄養価が高いか一目瞭然だった。
【名称】 スカイフィン・チューナ
【味傾向】 濃厚な赤身。口の中でとろけるような脂の甘み。
【食感】 驚くほど滑らか。筋は一切感じられない。
【効能】 魔力回復(中)。飛行速度を短時間上昇させる。
こんな極上のツナが、そこらの海を泳いでいるのだ。前世で缶詰のシーチキンを啜っていた俺が知ったら、卒倒するだろうな。
そして、長い海の旅の果てに、ついに陸地が見えてきた。緑豊かな海岸線と、その先に広がる巨大な都市。上空から【千里眼EX】で眺めると、その街の特異な構造がよく分かった。街全体に網の目のように水路が張り巡らされ、人々は小舟で行き来している。まるで、水の上に浮かんでいるような美しい都市だ。
俺は高度を下げ、街の鐘楼のてっぺんに舞い降りた。ここなら誰にも邪魔されず、街全体を見渡せる。
【万物翻訳(思考)】をオンにすると、街の喧騒が意味のある言葉として頭に流れ込んでくる。
「今日の魚は上物だぜ! 見ていきな!」
「あら、マリアさん、こんにちは。その生地、素敵ね」
「運河の掃除は午後からだ。それまでに荷物を運び終えちまわねえと」
活気に満ちた、平和な街。俺はしばらく、この「水の都アクアティア」で羽を休めることに決めた。
街での楽しみは、人間観察と食事だ。食事といっても、俺が食べるのは街路樹に実る木の実や、花の蜜を吸いに来る昆虫だが、これもまた乙なものだった。
【名称】 サンデュー・ベリー
【味傾向】 太陽の光を凝縮したような、濃厚な甘酸っぱさ。
【食感】 プチっと弾けると、中から蜜が溢れ出す。
【効能】 疲労回復(小)。視界がクリアになる。
そんな日々を過ごしていたある日、俺の鼻、いや、鳥の感覚器をくすぐる、たまらなく良い香りが漂ってきた。焼きたてのパンの香りだ。香ばしくて、甘くて、温かい。前世の記憶が刺激され、無性に懐かしい気持ちになる。
香りの元をたどっていくと、運河沿いの一角に、小さなパン屋があった。古びてはいるが、清潔に手入れされた店だ。俺は店の向かいにある建物の屋根に止まり、中を覗き見ることにした。
店の中では、一人の少女が懸命にパン生地をこねていた。年の頃は15、6歳だろうか。亜麻色の髪を後ろで束ね、鼻の頭に小麦粉をつけながら、必死の形相で生地と格闘している。その傍らでは、白髪の老人が、椅子に座って心配そうに彼女を見守っていた。おそらく祖父と孫なのだろう。
「こ、こうかな……? おじいちゃん」
少女が不安げに尋ねるが、生地はべちゃべちゃで、一向にまとまる気配がない。
「リナ、力が入りすぎだ。もっと優しく、生地の声を聞くように……」
祖父はそう言うが、彼の声には力がなかった。時折、乾いた咳をしている。どうやら、体調が優れないらしい。少女がこの店を継ぐために、必死でパン作りを学んでいるのだろう。
俺は、それから毎日、このパン屋を観察するのが日課になった。
少女、リナは本当に不器用だった。生地を捏ねるのに失敗し、発酵の時間を間違え、窯の温度を調整できずにパンを真っ黒に焦がしてしまう。そのたびに彼女は店の裏で膝を抱えて泣いていた。俺はただ、屋根の上からそれを見ていることしかできない。
だが、彼女は決して諦めなかった。泣いた後は必ず顔を洗い、再び厨房に立つ。その瞳には、強い意志の光が宿っていた。
ある日、俺は【魔力感知EX】で興味深いものを見た。リナが失敗して落ち込んでいると、祖父が彼女の頭をそっと撫でる。その瞬間、祖父の手のひらから、淡く温かい光――魔力が、リナに流れ込んでいくのが見えたのだ。それは治癒魔法や攻撃魔法のような派手なものではない。おそらく、「祝福」や「激励」といった類いの、ごくささやかな魔法なのだろう。祖父は、自分の身を削って孫娘を応援しているのだ。
その光景を見て、俺は胸が熱くなった。前世の俺は、結果だけを求められ、プロセスなど誰も見てくれなかった。失敗は許されず、ただ叱責されるだけ。だが、この世界には、こんなにも温かい繋がりがある。
そして、運命の日が訪れた。
その日も、リナは朝からパンを焼いていた。だが、いつもと何かが違う。彼女の動きには迷いがなく、生地を扱う手つきは滑らかで、まるで生地と対話しているかのようだ。祖父の魔法が、彼女の才能を開花させたのかもしれない。
やがて、窯から取り出されたパンは、完璧な出来栄えだった。こんがりとした狐色に焼け、ふっくらと膨らんでいる。店中に、これまでで最高の香りが満ち溢れた。
リナは、そのパンを震える手で祖父に差し出した。
「おじいちゃん……できたよ」
祖父はパンを受け取ると、一口ちぎって、ゆっくりと口に運んだ。そして、彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ああ、美味い。お前の母さんの味だ……。いや、それ以上かもしれない。よく、頑張ったな、リナ」
その言葉に、リナの目からも大粒の涙が溢れ出した。二人は抱き合い、静かに喜びを分かち合っていた。
俺は、その光景を、ただじっと見ていた。
小さな鳥の俺には、何もできない。手を貸すことも、声をかけることも。
だが、それでいい。この感動的な瞬間を、誰にも知られず、最高の特等席で見届けられたのだから。これ以上の喜びがあるだろうか。
俺は、彼らの未来が、このパンのように温かく、幸せな香りに満ちていることを心から願った。
そろそろ、この街を旅立つ時が来たようだ。南の風が、俺を呼んでいる。
俺は屋根から飛び立つと、パン屋の上空を一度だけ旋回し、そして次の目的地へと翼を向けた。
ありがとう、水の都。そして、頑張れよ、小さなパン職人。
俺の胸には、パンの香りと共に、温かい何かが確かに残っていた。
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