君の名は… ―田中さん、別名多すぎ問題―

猫小路葵

君の名は… ―田中さん、別名多すぎ問題―

 田中さんの下の名前は、不二麿という。

 初対面のときに名刺を差し出して、彼は「田中と申します」と苗字だけ名乗った。

 受け取った名刺に目をやると「田中不二麿」と印刷されていた。

 若いのに珍しい名前だなと思った。

 でも、珍しい名前ですねと話を振れるような、とてもそんな雰囲気じゃなかった。

 にこりともしない田中さんはもう、早々に本題に入っていて、オレは名刺をそっとテーブルに置いた。


「ねえ、不二麿っていう名前は、誰がつけてくれたの?」


 それが今、オレはこうして田中さんに素直な気持ちで聞くことができる。

 いつもの喫茶店でランチをとりながら、そうたずねてみた。

 田中さんは相変わらず感情があまり表に出ないけど、特に気を悪くした様子もなさそうだった。


「両親です」


 聞けば、「田中不二麿」は江戸から明治にかけて実在した人物だそうだ。

 1845年に尾張藩士の子として生まれ、岩倉使節団として海外にも渡り、政治や教育の場で活躍した子爵だとか。

 お父さんとお母さんは、息子もそんな風に広い視野を持つ人物になってほしいと願ったのかな。


「いい名前だね」


 オレが言ったら、田中さんは控えめな笑顔を見せた。


「小さいとき、お父さんお母さんからなんて呼ばれてたの?」

「なんてというか、そのまま不二麿と」

「そうなの? オレは『すぅくん』て呼ばれてたんだ。じゃあ友達からはなんて呼ばれてた?」

「田中、ですね」


 そのとき、田中さんの携帯電話が鳴った。

 田中さんは着信の画面を見ると、とりあえず電話に出た。

「もしもし――」

 すると間髪入れずに、相手の朗らかな声が漏れて聞こえた。


『あ、ふーちゃん? お母さんです!』


 田中さんは光の速さで立ち上がると、お母さんに小声で何か話しながら店の外に出ていった。


「ふーちゃん……」


 オレは田中さんの小さな嘘がかわいくて、ニヤニヤしながらフォークを回してスパゲティをすくった。

 窓越しに外を見ると、お母さんと通話を続ける田中さんの後ろ姿が見えた。

 しばらくして、田中さんは戻ってきた。

 席に着いた田中さんと目が合ったので、オレはにっこりと笑った。

「おかえり、ふーちゃん」

 田中さんはばつが悪そうに「ただいま」と言って、食事を再開した。


 喫茶店を出てからは、街路樹の道を並んで歩いた。

 このあと田中さんは、自分の雇用主である実業家(オレにお金を貸してくれてた人)と少しだけ会う用事がある。

 すぐに済むらしいから、オレは近くで待つことにした。

 約束の場所に向かっていると、前方から男性の乗った自転車が走ってきた。

 自転車はオレたちの手前でブレーキをかけ、そして明るい声で田中さんを呼んだ。


「おお、ポコちゃん!」


 久しぶりじゃーん! と、自転車の主は満面の笑みで言った。


「ポコちゃん、元気してたの? 相変わらずクールだねえ。近々メシ行こうよ!」


 会話を終えると、フレンドリーな自転車さんは「またな!」と言って、爽やかに走り去っていった。

 あとに残された田中さんが、言葉もなくオレを見下ろす。

 そんな田中さんにまたもや笑いが込み上げるけど、失礼にならないようにだけ気をつけた。


「田中さん、ポコちゃんって……」

「不二家のキャラクターのポコちゃんです」


 だよね。

 不二麿だから不二家でポコちゃん。

 納得のネーミングだ。


「かわいいあだ名じゃん。田中さん、人気者だったんだね」

「そんなことないですよ。普通です」


 田中さんはそうやって謙遜した。

 でも、今の自転車さんの笑顔や態度を見てたらわかる。

 きっとほかのみんなもポコちゃんのことが大好きだ。

 この、クールポコちゃんのことが。


「わたしが人気者かどうかはさておき、彼らがいい友達であることはたしかです」


 オレは、田中さんのその返事を聞いてうれしかった。


「行きましょう。会長はもう待っていると思います」


 田中さんとオレは、再び歩き出した。

 この信号を渡ればすぐだ。

 渡った先の広場の木陰に、車椅子に座った会長と、そこに寄り添う夫人が見えた。

 向こうもすぐにオレたち二人の姿を見つけて、夫人が大きく手を振って田中さんを呼んだ。


「こっちよ、マロリーヌ!」


 オレはもう、これ以上は我慢できなくて笑ってしまった。

 そして、そのままの勢いで田中さんに抱きついた。

 田中さんはちょっとびっくりしてたけど、オレはぎゅっと抱きしめて離さなかった。

 信号が青に変わるまで、少しだけふざけてる振りをしていようよ。

 ふーちゃんで、ポコちゃんで、マロリーヌな田中さんのことを、オレも大好きだと大きな声で伝えながら。


 

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