第9話『焼け跡の約束』

夜半、港の端で火が上がった。

 最初は小さな赤。次に、乾いた木が一気に燃える音。

 倉庫の屋根が光り、影が揺れる。

 扉の前に油の匂い。

 風は弱いが、炎は早い。


「水!」

 ティノが叫ぶ。包帯の腕で桶を引く。

 人足たちが走る。

 砂で囲い、水で冷やす。

 それでも屋根の半分が黒く落ちた。

 看板の端が焦げ、文字が歪む。

 中の箱は無事か。

 鍵は固い。

 俺は濡れた布で手を巻き、鉄の輪に力を込めた。

 開く。

 控えの束は濡れたが、焼けていない。


 サーシャが駆け込んだ。

「誰も見た?」

 人足の男が首を振る。

「影が一つ。灰と白の斜め布」

 死んだ旗。

 ティノが唇を噛む。

「メア?」

「決めつけない」

 俺は看板を外し、水で冷やす。

 板は割れない。

 焦げ目の上から、文字がまだ読めた。


 朝。

 公証院で火災の記録を出す。

 ミルダが焦げた釘を見て、短く言う。

「火の入り方が速い。油を撒いている。港務庁の巡回は?」

「昨夜は薄い。風棚の停止で人がそちらへ行った」

 サーシャが肩章を指で叩く。

「巡回の隙を突いた。審問の翌夜。分かりやすい」

 ミルダは鈴を棚に置く。

「看板は残った。なら動ける。今日の昼、同時通過の計画を回す」


 倉庫に戻ると、人が増えていた。

 昨日より多い。

 縄を肩にかけた若いのが三人。

 帆織りの女。

 酒場の親父。

 キサラもいた。

 目は泳がない。

「戻った。火の匂いで目が覚めた。俺の縄も焼けた」

「大丈夫か」

「大丈夫じゃない。だから残る。腹は空くが、筋は通す」

 言い切って、針を持った。

 帆の縫い目が次々と締まる。


 正午前。

 酒場の前の広場で図を出す。

 石にチョークで線を引く。

 細門、門番台、検問船の位置。

 各船の間隔。

 旗の色。

 合図。

 「三つで切る。いち、に、今」

 港全体を一度に動かすわけではない。

 細門に連続して白旗を運ぶ。

 間隔は短い。

 門は閉められない。

 兵は追えない。

 「走るのは小荷から。薬と手紙。重荷は後」


 人足の親方がうなずく。

「縄は俺たちが配る。順番に渡す。返しは夜でいい」

 帆織りの女が言う。

「帆は二枚、補修済み。撥水は弱いから、砂を払って」

 キサラが手を挙げる。

「俺は先頭につく。袋の調整は任せろ」


 昼下がり。

 港門の旗が白に変わる。

 細門の鎖が二尺、下りる。

 サーシャが門番台で短く指を動かす。

「公証院護送、便の一覧。白旗優先」

 ミルダの書類が台の上に積まれる。

 門の手続きが“罪”ではなく“仕事”の顔になる。


 合図。

 小舟が一本、動く。

 白旗、青線。

 続けて、二本目。三本目。

 間に検問船が割り込もうとするが、旗の前に躊躇う。

 門の記録官が首を振る。

「白旗優先。順番を崩すな」


 港務庁の黒が走る。

 アルバはいない。

 副官が指示を飛ばす。

 それでも、列は止まらない。

 砂州の筋が一本、門の中と外で繋がった。

 港の息が、少しだけ整う。


 夕刻。

 十六本が通過した。

 酒場の親父が笑う。

「一本も止まらなかった。久しぶりだ」

 帆織りの女が手のひらを摩る。

「針の穴、今日はよく通る」

 キサラが縄を巻きながら言う。

「明日は重荷を一本。風が許せば」


 倉庫に戻ると、扉の前に小さな包み。

 白い布。

 中は紙。

 侍女の印。

 《門の小窓は二刻ごとに開く。風棚は今、止まっている。あなた方の便は内側で受ける。》

 ティノが目を細める。

「内側で?」

「受けるって書いてある」

 声が少しだけ明るくなる。

 焦げた看板に手を置く。

 文字はまだ読める。

 焼け跡は残った。

 でも、約束も残った。


 夜。

 巡回が戻る。

 兵の影が倉庫の前を横切る。

 何も言わない。

 明日の風は、まだ見えない。

 でも、走る筋は描ける。

 俺は縄の結び目を一つ締め直した。

 軽くはない。

 けれど、噛む。

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