第36話 ヒロイン覚醒



 ――夢を、見ていた。


 忘れられない、あの日の夜。


 愛すべきクレスタ王国を覆った黄金の炎。

 崩れ落ちる塔、泣き叫ぶ民の声。

 氷で守られていたはずの国が、あっけなく溶けて金に染まっていく。


 その絶望の中で、最後まで戦い続けた人がいた。

 クレスタ王国第一王女。

 シルフィの、たった一人の姉。


『シルフィ――あなただけは、生きて』


 その声は震えていたのに、不思議と温かかった。

 出来損ないの自分とは違う。

 王国を背負うにふさわしい、誇り高い姉の声だった。


 すぐに振り返った。

 それなのに――。


 姉の姿は黄金に飲み込まれ、冷たい石像のように残酷な形で固まっていた。


 手を伸ばす間もなく。

 名前を呼ぶ間もなく。

 光の奔流が、姉を奪い去った。


 忘れられない、あの日の夜。


 ――私は、すべてを失った。


(どうして……今、思い出したの?)


 大切な人たちを犠牲にして、自分だけが生き残った。


 罪悪感。

 決して癒えない傷が、胸の奥でじくりと疼く。


 夢の中へ逃げ込もうとした瞬間。

 現実が、強引に引き戻してきた。

 焼けつくような痛みとともに。



「ふふっ、これで終わりにしましょう――私の熱風に、次は耐えられるかしら?」



 ジルレネの声は冷たく、それでいて熱を孕んでいた。

 耳に届くころには、周囲の魔力が騒めき、再び灼熱へと色を変え始める。


 ――また、来る。


 シルフィは本能で悟った。

 次に《焔嵐(フレアゲイル)》を受けたら、今度こそ終わる。


 その前に動かなければ。

 抵抗しなければ。


 頭も、心も、理性も、それだけを叫んでいるのに――体が、まるで自分じゃないみたいに動かなかった。


(動いてよ……お願いっ!)


 どれほど力を込めても、ひと欠片すら反応しない。

 焼け残った痛みが、全身を鈍く苛む。


 世界が赤く滲む中、シルフィは思い知る。


 ――このままでは、本当に負けてしまう。


 指一本すら動かず、呼吸も熱に絡め取られる。

 意識が焼け落ちていく。


 その、ほんの刹那。

 ぷつり。


 痛みと熱の境界が切れ、視界がふっと白く霞んだ。

 落ちていく。闇でも光でもない、どこか柔らかな場所へ。


(ここは……どこ?)


 次に目を開けたとき、そこはあの夜ではなかった。


 もっと前――。

 王国がまだ息づき、白銀が街を照らし、人々が笑っていた頃。


 幼いシルフィの肩に、そっと白い外套がかけられる。

 振り返ると、姉が穏やかに微笑んでいた。


『クレスタ王国は寒いでしょ? でもね、シルフィ。覚えていて』


 姉の指が、夜気に白い息を描いた。


『この国を包む氷は……冷たさの象徴なんかじゃないの』


 優しい声が、幼かった胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。


『私たちの氷は、誰かを守るための力。民を包み、心を傷つけないように抱きしめる――温かい氷なの』


 姉はそっとシルフィの手を握る。

 冷たいはずの手が、不思議と暖炉のように温かかった。


『だからね、どんな熱も跳ね返してくれる。シルフィが誰かを護りたいと願った時――きっと氷は応えてくれるわ』


 その言葉と体温は、確かにそこにあった。


 寒さではなく、温もりとして。


 ――忘れていた。

 自分が氷に憧れた理由を。

 姉の背中を追いかけてきた理由を。


 そして、思い出した。


 白銀の氷は冷たさではなく、誰かを守りたいと願う心の熱で生まれるものだということを。


(お姉ちゃんの氷なら――こんな熱、きっと跳ね返すんだろうな)


 復讐に囚われ、いつしか見失っていた。

 あの日の温度も。

 寄り添ってくれた手の感触も。

 自分を導いてくれた、大切な思い出のすべてを。


 胸が痛む。

 罪悪感はまだ、どこにも行っていない。

 自分だけが生き残ったあの夜を、許せたわけでもない。


(私は、弱い……。あの時、何もできなかった。今だって、怖いまま)


 認めると、胸の奥に小さなひびが入るような気がした。

 でも、それでも――。


(……今だけは許して。もう二度と、失いたくないから)


 その願いが、静かに世界へ落ちていく。


 意識が、現実へと引き戻される。

 熱風が肌を焼いているはずなのに、さっきほど恐ろしくはない。

 痛みは変わらないのに、心だけが前に進もうとしている。


 動かなかった指先が――かすかに震えた。

 白銀の光が、ほんのわずかに脈打つ。



「……どうして、まだ動けるのかしら――予想、外ね」



 圧倒的優勢は揺らがないはずだった。

 それでも、ジルレネの額には冷たい汗がにじんでいた。

 観察し尽くしたはずの獲物が、計算外の動きをした。

 理解できない――それが、彼女にとって何よりの不快だった。


 シルフィは震える手で剣を握る。

 満身創痍の身体を、意志だけで立たせる。


 膝は笑い、視界は揺れる。

 罪も、後悔も、背負ったまま。


(……お姉ちゃん。今だけは、私の氷で守らせて)


 胸の奥で、なにかが溶けていく。

 熱ではない――温もり。


 姉の声が、雪のように降り積もる。


『私たちの氷は、誰かを守るための力。民を包み、心を傷つけないように抱きしめる――温かい氷なの。だからね、どんな熱も跳ね返してくれる』


 白銀の光がふくらみ、空気が凍りはじめる。

 氷華装の残滓が、ゆっくりと咲き戻る。


 シルフィの唇が震え――初めて思い出す、本物の詠唱が紡がれた。



 「――白銀よ、我が血に宿りし清き氷よ。世界を包み、命を護る古の花よ。あらゆる災厄を凍てつかせ、炎すら抱きしめて眠らせよ。我が願いに応え――咲き誇れ、《氷華聖装グレイシア・セレスティア》!》」



 詠唱の終わりとともに、白銀の光が集まり始めた。

 散った花弁が宙で舞い、やがて彼女の周囲で一つの蕾を形作る。


 ――そして、咲いた。

 音もなく世界が白く染まり、巨大な氷の花が開いた。

 その花弁がひとひらずつ剥がれ落ち、鎧のようにシルフィの身体を包んでいく。


 白銀の装衣。

 空気までも静止させる王家の証。

 紅蓮を焼き尽くすはずの熱風が、花弁に触れた瞬間、音もなく凍りついた。



「……なッ――!?」



 ジルレネが目を見開く。


 炎傷は弾かれ、シルフィの肌から赤みが引く。

 氷が熱を吸い取り、傷さえも癒していく。


 周囲の空気がきしみ、霜が地面を覆う。


(これが……お姉ちゃんの氷……)


 シルフィは剣を構えた。

 白銀の光が尾を引き、夜空を切り裂く。



「……あなたの風ごと、凍らせる」



 ジルレネの顔が怒りに歪んだ。



「調子に乗らないでッ!」



 風刃が吹き荒れる。

 しかし、すべてが白銀の装衣に吸い込まれ――凍結した。


 シルフィは踏み込む。



「銀閃流――三の凍霞!」



 刃が霜に溶け込み、輪郭を失う。

 次の瞬間――斬られたことにすら気付けない静寂が、ジルレネの腹部を走った。



「え……?」



 ジルレネが自分の体に触れたとき、初めて理解する。

 感覚が遅れてやってくる。

 霜が一気に広がり、紫の肌が白銀に塗り替えられていく。



「な、に……これ……ッ」



 凍った霞のごとき斬撃。

 斬られた者が視えないまま内側から凍り裂く、銀閃流の剣技。


 細剣の切っ先が震え、ジルレネの足がひとつ後ろに退いた。

 観察者の仮面が剥がれ、本当の恐怖がその瞳に宿る。



「そんな……ありえない。わたしが……マザーから力を賜ったこの私がッ!」



 シルフィは一歩、また一歩と前へ進む。

 白銀の花弁が舞い、空気そのものが凍りついていく。



「――これが、クレスタの氷。私の勝ちね」



 シルフィの刃が、ジルレネの体を完全に凍てつかせた。

 響いていた熱も狂気も、路地からすっと消える。


 静寂。

 あまりにあっけない終わりに、シルフィは呆然と立ち尽くした。



「……あれ? 私……」



 凍りついた魔族を見下ろし、ぽつりと言葉が漏れる。



「勝っちゃった……?」



 実感が追いつかない。

 怖さも痛みも、まだ体の奥で震えているのに、結果だけが先に訪れていた。


 でも、立ち止まってはいられない。


(……シオンのところに、行かなきゃ)


 風が霜を散らし、シルフィは駆け出した。

 夜のどこかで――まだ、戦いが終わっていない人がいる。


 


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