第26話 頭より先に体が動く時
――シルフィとフレアは、白鹿亭に向かった。
去り際、後ろで聞こえたドランの助言を胸に刻み、冒険者ギルドを飛び出した。
追いついたところで、何を話せばいいのか分からない。
何を成せばいいのかも、分からない。
だが、自分の手で掴みにいかないと、何も守れない。
ドランの言葉で、ようやく気づけた。
誰かが差し伸べた手を待っていても、物語は動かない。
もう目を逸らすわけにはいかない。
魔族の対策をどうするのか。
シルフィを、どう守っていくのか。
考えなくてはいけないことは山積みだ。
ふと、地平線まで澄み渡る青空を見上げたとき――違和感を覚えた。
「月が、見える……」
昼の光の中に、ぼんやりと浮かぶ白い円。
まるで、誰かが空に描き足したような、不自然なほど輪郭のくっきりした月だった。
《幻月》のオリオパトラ。
東の森で対峙した、子供に化けた幻惑使いの魔族。
その名を思い出した瞬間、耳の奥で笑い声が反響した気がした。
シルフィを狙う魔族の一片。
オリオパトラの対策こそが、シルフィ、そしてこの街を守る鍵になる。
戦いの記憶を手繰り寄せ、シオンは眉をひそめる。
月の下、ヤツはまるで何かに導かれるように攻撃を避けていた。
月――それがヤツの力の源なら、攻略の糸口はあるはずだ。
シオンは短く息を吐き、首を振った。
今は追いつくことだけを考えろ。
行き交う人々の間を、糸を縫うように駆け抜ける。
鼻をくすぐるパンの香りも、呼び込みをする商人の声も、全てを置き去りにして。
ただ無心に走り続けた。
町の出口に近付くにつれて、喧騒が遠ざかっていく。
そして――視界の先に見覚えのある背中が見えてきた。
「シルフィッ!」
呼んだ声に、彼女ははっとして振り向いた。
白銀の髪が陽を弾き、風に揺れる。
思わず感情のままに声を張り上げたせいで、周囲の視線が一斉に集まる。それでも、シオンの瞳はただシルフィだけを捉えていた。
「シオン……どうして」
どうして来たの? ――そう言いたげな表情。
驚きと悲壮に満ちたその目には、乾いた涙の跡が残っていた。
シオンは思わず視線を逸らす。
シルフィが一番、追い詰められているに決まっている。
それすら気付かず、自分のことしか考えていなかったさっきまでの自分が、情けなくて仕方がなかった。
だが、それすら受け入れて前に進むと覚悟を決めた。
シオンは顔を上げて、深く息を吐く。
そして、告げた。
「俺は弱かった。誰かが傷つくことから、目を反らし続けてきた。これじゃダメだと、気付けたんだ」
「……そう」
シルフィの低い声が、空気に溶け込む。
伏せた睫毛の奥で、わずかに光が揺れた。
何を思っているのか――それは分からない。
けれど、シオンの言葉は止まらなかった。
「このまま、誰かの犠牲を見過ごすなんて出来ない。だから、追いかけてきたんだ」
シルフィの肩が、小さく震えた。
その揺れが次第に大きくなり――やがて、顔を上げた彼女の頬は真っ赤に染まっていた。
「……恥ずかしくないの? 白昼堂々そんなこと言って」
「え?」
睨むように、しかしどこか照れくさそうに。
その一言が、張りつめていた空気をやわらかくほどいた。
シオンは、自分に突き刺さる視線の熱をはっきりと感じていた。
それは、現実の感覚を取り戻すような温度だった。
鏡を合わせるように、彼の頬も赤く染まっていく。
「あぁ……その、悪い」
「謝らないで。私まで恥ずかしくなる」
そう言ってシルフィは首を振った。
心地よい気まずさがその場を包み込む。
言葉が出ない。それが今は、何よりも幸せに思えた。
そんな中――シルフィの横に立っていた女性が、呆れたように二人を見つめていた。
「良い雰囲気だねー。でも、せめて宿に戻ってからにしてもらえない?」
淡々とした声。
その奥に、少しだけ笑いが混じっていた。
「フレア……」
「いたんですかみたいな顔やめてよ!」
シオンは目を見開いて、シルフィの隣に視線をずらした。
胸騒ぎが思考を先走らせたせいで、周囲に気を配れていなかった。
「そんなつもりは……でも、さっきの話は本心だ。シルフィを犠牲にしない方法で、街を救う――信じてほしい」
言葉は不器用でも、声はまっすぐだった。
シオンの覚悟が、音になってシルフィへと届く。
彼女はゆっくりと目を閉じ、思考を巡らすようにうつむいた。
――長い沈黙。
シオンとフレアは息を詰め、彼女の言葉を待った。
やがてシルフィが顔を上げ、静かに呟く。
「……似た者同士だね、二人とも」
「え?」
遠くで、同じ声が重なった。
呆れたようでもあり、納得したようでもある。
そんな雑味を帯びた声音の奥に、確かな温かさがあった。
シルフィの瞳は、涙で滲んでいた。
「会ったばかりの他人のために、大きな敵に立ち向かおうとして……方法も分からないのに、迷わず手を伸ばしてくれる」
小さく笑った頬を、透明な雫が伝う。
「ありがとう。でも、私一人のためにみんなを巻き込むわけには――」
「なら、その前に倒せばいい」
言葉は力強く、唐突に割り込んだ。
シルフィの驚きが空気を震わせる間もなく、続けて言葉を紡ぐ。
「俺に、考えがあるんだ。そのためには、シルフィの協力が必要だ。だから、一緒にギルドまで戻ってほしい」
「……っ」
不安だった。
彼女の自己犠牲を阻止しなければ、物語はバッドエンドを迎える。
シルフィを超える覚悟、届くかどうか。
シオンは胸に宿る迷いを払って、見つめなおした。
シルフィは、しばらく何も言わなかった。
風に揺れる髪が頬にかかっても、ただその場に立ち尽くしている。
迷っている。
信じたい気持ちと、恐れる気持ちの狭間で。
やがて、ゆっくりと唇が動いた。
「……本当に?」
「ああ、嘘じゃない」
短い沈黙。
その言葉に、シルフィの表情がわずかに崩れた。
風が止まった。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。
シルフィは俯いたまま、拳を握りしめた。
その指先が震えているのを見て、シオンは息を呑む。
「……信じていいのね」
「ああ。何度でも言う――必ず守る」
その瞬間、シルフィの瞳に小さな光が宿った。
――俺は、何のためにこの世界に転生した?
答えはない、と言い聞かせてきた。
だが、原作を自分の手で壊して、ようやくわかった。
転生とは、“罪に囚われること”だ。
原作とはまるで違う道を歩み始めたこの世界を、観測できてしまう。
なら、転生した意味は――その罪を贖い、変わりゆく世界を守り抜くこと。
胸の奥で、静かに誓いを立てる。
そして、来た道を戻り始めたとき。
背後から、小さなすすり泣きが聞こえた。
振り返ると、泣いていたのはシルフィではなく――フレアだった。
「どうして、フレアが泣いてるの?」
「だって、だって……シオン君が――いや、なんでもない」
しゃくり上げながら笑うフレアの声が、やけにあたたかく響いた。
彼女の涙が、光を受けて宝石みたいに輝いていた。
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