第3話 初めの一歩 (書き下ろし)

 キョウスケが孝政と生活をするようになってから十日ほどが経過していた。安静にして過ごせたおかげで足の治りは早かった。


 腫れは引いて、痛みもだいぶ治まっていた。添え木はまだつけたままだが、自分で立ち上がり、狭い歩幅であればゆっくり歩けるようになっていた。


 キョウスケは納屋の横に積み上げられた薪の束の上に腰掛け、薪割りをしている孝政の仕事を尊敬の眼差しで、じっと見つめていた。


 肌を脱いだ孝政が力強く斧を振り下ろす度に、小気味のいい音を立てて丸太が真っ二つに弾け飛んでいく。一本、また一本と切り株の上に立てては、斧を振り下ろすを繰り返すほどに、薪が増えていった。


 孝政の引き締まった上半身。斧を振り下ろす時に漏れる、微かな声と息遣い。確実に丸太の中心に振り下ろされる斧。真っ二つに割られて弾け飛ぶ音。時折鼻や顎から滴り落ちる、朝日に煌めく汗。どれもが、美しい。


 キョウスケは胸を高鳴らせ、目を細めてそれを見つめていた。


「ねぇ、父さん、知ってる?」

「ん?」


 そう言って、もう一度、孝政は斧を振り下ろした。乾いた音を立てて、木が二つに割れて飛んだ。すぐに、次の丸太を切り株に立てて、孝政は斧を振りかぶった。


「すっごくかっこいいよ。」


 途端に、孝政の目尻がふっと力が抜けたように下がった。そして、力なく音もなく、斧の先を地面につけた。あまりに素直に褒められすぎて、腹に力が入らない。


 胸の奥がくすぐったくなり、全身に血が巡るような、沸くような——今までに得たことのない感覚だ。首にかけた手拭いで顔の汗を拭き、一つ息を吐くと照れた笑みを浮かべ、孝政は横目でキョウスケを見た。


「大人を揶揄うな。」

「嘘じゃない!本当に、かっこいいよ。」


 孝政は「腹に力が入らぬから、一休みするか……」と独り言を言いながら斧を切り株の横にそっとおくと、キョウスケの隣に行き、同じように積み上げられた薪の上に腰掛けた。


 脳裏に刻みつけるかのようにキョウスケは孝政の一挙手一投足を視線で追っていた。隣に孝政が座ると、キョウスケの羨望の笑みが彼を包み込んだ。


 孝政はキョウスケの眼差しを直視できず、照れ笑いと苦笑いの混ざり合った顔で俯いた。


「見つめられるのも、そんなふうに言われるのも、あまり慣れなくてな。」


 『かっこいいと言われたことが、あまりない』ということだろうか。キョウスケは目を丸くした。この人を『かっこいい』と言わずして、一体誰に言えるだろう——そう思えるほど、彼はキョウスケの中で憧れの存在だった。


 孝政は目立つ。見目良き以上に、精悍で野生的。がっしりとはしていないが、長身でしっかりとした体つき。柔よく剛を制すという雰囲気が具現化したような佇まいだ。そして瞳には懐の深さと聡明さ、思慮深さが滲み出ている。


 物知りで、何でもそつなくこなし、夜、寝るまでの間は、キョウスケに古今東西の様々な話を語ってくれる。キョウスケの中の理想の大人は孝政そのものだった。


「俺なんかには無理ってわかってるけど……父さんみたいになれたらいいなって……。」


 孝政の眉がひくりと動き、笑顔が消えた。


 この十日間の生活で、孝政にはよくわかったことがあった。キョウスケは己に対して「なんか」をつけ、自らを卑下しながら話すことがよくあるということだ。


 この世に生を受けて八年余りの間に染み付いた感覚なのだろう。身分がないことで、周りの人間から卑下されてきた経験が彼の立ち位置を摺り込んだに違いない。

 

 寺に預けられている間も、衣食住には困ることはなくとも、僧侶や寺男たちに相当乱暴に扱われてきたことが、時折キョウスケが口にする過去の話からも容易に想像ができた。


 そうやって作り上げられた彼の、己に価値を見出していない言動を見聞きするたびに、怒りを伴う苛立ちが、孝政の胸を締め付けるのだった。


 もちろん、その衝動はキョウスケに向けたものではなく、彼を取り巻いた大人たちに対してだ。


 だが、この怒りに近い感情を、出会って間もないキョウスケに話したところで、不安にさせるだけだろう。これまでは、怪我を治すことに専念し、互いのことを知って信頼関係を築くことに重点を置いてきた。


 しかし、今後のことを考えると、この卑屈な言動は早いうちに解消するべきだと孝政は判断した。


 自信があるとないとでは、断然物事を吸収できる量が変わってくる。これは孝政が自身の子供らと関わっていく中で感じたこと。つまり、実証済みだった。


 すぐに変わるのは難しくとも、少しでも自信をつけることができれば、キョウスケは大きく成長するだろう。孝政はそのように見立てていた。


——さて、どのように切り出そうか……


 彼は口を引き結び、切り株の横に置いた斧に視線を落とした。


 できるならば、今日にでも働きかけたい。早ければ早いほどいい。二人の関係性が完成する前が理想だろう。だが、不安や恐れを掻き立てることなく、伝えるにはどのようにすべきか。今までに経験がない。なかなか納得のいく方法が思いつかなかった。


 父さんが黙ってしまった——難しい表情をして口を噤む孝政を、キョウスケはチラッと横目で盗み見た。何かまずいことを言ってしまったろうか。先ほどの自分の言葉を何度も頭の中でなぞった。


 怒らせたろうか。嫌われたろうか。捨てられたらどうしよう。キョウスケの心の中に、まるで波打ち際の波のように、次から次へと不安が押し寄せた。


 何を孝政が考えているのか、探りたくなった。悪いことをしたのなら早めに謝って、機嫌を直して欲しかった。だが、身分がそもそも大きく違う。孝政に相応しくない子供だと考えたのかもしれないと、ふと思ったりもした。


 どうせ捨てられるのならば、自分の放った言葉より、身分が違いすぎると言われたほうがマシな気がした。とにかく、孝政の心を確かめたい。キョウスケは視線を手元に落とし、意を決して口を開いた。


「たまに思うんだ……俺なんかが本当に、父さんの子供って言っていいのかなって……母親も寺の人たちも、俺のこと、疎んでたからさ……邪魔じゃねぇかなって。」


 孝政はすぐには答えなかった。陽が少し高くなり、春の温もりを含んだ風が優しく二人の髪を撫でていった。孝政は静かに瞼を閉じると、一つ息をついた。


 隣に視線を向けることすらできず、キョウスケは俯いたまま動けなかった。指先が震えているのを気づかれぬよう、両手を組んで膝の上にそっと置いた。


「私は聖人君子ではない。」


 キョウスケは目を見開いた。何を話し出すつもりだろう——。


 語り始めの言葉から察するに、いい話ではない気がした。怖くて顔を上げることができなかった。ただ、孝政の言葉を一語一句聞き逃すことがないよう、全ての意識を耳に集中し、彼が続けるのを待った。


「誰でも受け入れるわけではない。人を選ぶ。」


 やはり自分は選ばれないのだ。キョウスケの膝に雫が二つ落ちた。胸のざわめきがうるさくなり、呼吸がままならない。だが、孝政が話終わるまではせめてしっかりと聞こう。それが、この十日間世話をしてもらったことに対しての礼儀だと思った。


「お前には変える力がある。そして、大切なものを見極め、守り抜こうとする信念と行動力がある……私はそれを尊いと思った。だから、一緒にいたいと……私の持つ全てを受け渡せたらと……そう思ったんだ。」


 キョウスケは目を見開いたまま、孝政に顔を向けた。ボロボロッと、数滴の涙が一度に溢れ出し、頬を滑り落ちていった。孝政は視線を切り株に落としたまま続けた。


「お前に同情したり、施しを与えようなど、微塵も思ったことはない。私がお前に、息子になって欲しい……お前の親でありたい……そう願ったんだ。」

「……なんで?」


 理由を知りたかったが、ようやく絞り出したキョウスケの言葉は掠れて震えた。孝政は一瞬、キョウスケの方に視線を向けて申し訳なさそうに眉根を寄せ、すぐにまた視線を切り株に戻した。


「私は器用ではない。伝え方が、こんなふうですまない……」


 孝政は手拭いで額を拭いながら、少しだけ視線を落とした。


 キョウスケは静かに首を横に振った。言葉は口にすることができなかった。何を言っていいか分からなかった。だが、言えたところで、嗚咽に塗れ、言葉になる気もしなかった。


「お前は、僧侶から辱めを受けるのを拒み、逃れる道を切り開き、寺を飛び出した。大したものだ。」


 逃げることがいいことだなど、キョウスケは考えたこともなかった。


 逃げたことは後悔していない。だが、逃亡は誇れる気がしなかった。孝政には本当のことを話したが、その時も、僧侶を頭突きで撃退し、隙を作って逃げ出したことに、後ろめたさを抱えていた。


 聖職者である僧侶に頭突きしたのだ。罪だろうとすら思っていた。


「人を傷つけることは、もちろん褒められることではない。だが、守るための反撃であれば、仕方のない場合もある。お前は、傷つけられそうになり、何が大切か考え、それを守るために策を練り、機を作り出して逃げた。それは、権力に屈さぬ、変える力に通ずる行為。」


 目から鱗が落ちたようだった。そんな風に捉えられていたなど、思っても見なかった。孝政の言葉が胸の奥深くまで染み込むと、目の奥が熱くなり、キョウスケは腕を両目に当てた。


「多くの子どもは、変化が怖くて逃げたくても逃げられぬ。拒絶する気持ちを抱えたまま受け入れ、甘んじてしまう。お前は、自らの守りたいものを優先し、寺の僧侶という絶対的な力の前にも屈せず、信念と行動力で守り抜いた。」


 孝政は優しく頬を緩めて、キョウスケの背にそっと手を添え、続けた。


 逃げたくても逃げられない。変化を恐れて行動に移せず、心の拒絶を見て見ぬふりをしてしまう——。それは、子供に限った話ではない。


 変えたくても変えられない大人は多い。むしろ、変えられる者の方が希少と言えるかもしれない。


 権威や権力という絶対的な力の前に、多くの人は争うことをあきらめる。たとえそれが、己の信条と反する現実であっても、行動を起こして変化を生み出そうと考える者の方が少ない。


 大切なものがわかっていても、権力に屈して自らを見失ったり、見ないふりする者を孝政は多く知っていた。


 彼はしばらく言葉を探すように沈黙し、それから静かに呟いた。


「簡単に変化を生み出せるならば、この世はもっと変わっているはずだ。」


 そう言って、孝政はやるせない笑みを浮かべてみせた。


「私の周りにも、変えたいと願った者は何人もいた。だが、皆、途中で折れた……変化を起こすは行動あるのみ。願うだけでは何も変わらぬ。」


 孝政はキョウスケを政治の世界に入れたいとは思わない。息苦しく、人間不信になるような場所だ。


 しかし、キョウスケには変える力がある。幕府の中央に身を置いた経験のある孝政には、自分の持つ全てを受け継がせたいと思うほどに、キョウスケが魅力的に映っていた。


「私は、お前が子供だから、保護するために共に過ごすと決めたのではない。」


 キョウスケは顔を孝政に向け、目を見張った。身寄りのない、惨めな孤児だから、優しく懐の深い孝政が守ろうと決めたのだと思っていた。


「私はお前のような者と知り合い、共にありたかった。子供だなどと思っておらぬ。立派な人物だと思っておる。」

「そ、そんな、俺なんかにそんなもったいない言葉……」


 孝政は思わず物憂げなため息を漏らした。不安そうにその様子を見つめるキョウスケに目を細め、安心させるように背をさすった。


 そう簡単にキョウスケの考え方が変わるとは思っていない。しかし、自己卑下の言葉を耳にするのは心に痛い。とはいえ、『卑屈になるな』と強制は出来ない。


 表層的に変えたとしても、いずれ自らの心と表層の間の乖離に苦しむことになるだろう。つまり、表層的に変えても、無駄なのだ。


 心の奥底から変わらなくては、意味をなさない。上塗りは、いつか剥がれる。


「私のお前に対する尊敬は、私の下す評価で決まるのだ。お前が思う通りにはならぬ。」

「……」

「キョウスケが行動したから、我らは出会えた。私はお前に感謝しているし、その勇気を尊敬している。」


 孝政の言いたいことはよくわかった。だが、キョウスケはなんと言葉を返したらいいかわからなくなっていた。そんな風に思われていたと知って、嬉しくて、幸せで、走り出したくなるくらい、胸から何かが溢れ出しているのを感じていた。


 こんな風に誰かに思われる経験も、嬉しい気持ちも初めてで、どう対処していいのか全く頭に浮かばない。でも何かを言いたかった。キョウスケはもう一度涙を拭いて孝政を見上げた。


「こういう時……俺は何て言ったらいいの?」


 キョウスケの素直な問いに、孝政は優しく目を細め「いい質問だ。」と言って、肩を静かに抱き寄せた。


「嬉しいならば、礼を言えばいい。それだけだ。」

「あ、ありがとう……」


 嗚咽が混じるキョウスケの言葉に孝政は穏やかに笑みを浮かべ、もう一度しっかりと肩を抱き寄せた。


「この際だからもう一つだ。」

「……はい。」

「私は共にありたいから、お前を選び、息子としたいほどにお前の持つものを大切に思っている。」


 キョウスケは言葉を飲み込んだまま、静かに頷いた。それを一瞥してから、孝政は再び口を開いた。


「お前に私を尊敬するという気持ちがあるのだとしたら、私の中の一部に、お前がいることを忘れるな。お前が自らを蔑めば、私の一部を蔑むのに同じこと。」


 キョウスケは目を見張った。


 尊敬する人が、自分を選び、共にありたいと願っている——そんなことがあるなんて、考えたこともなかった。


 その人を尊敬することは、その人の選択も尊重するということも意味し、選択したものを蔑むことは、その人の一部を蔑むに等しい。孝政はそう言いたいのだろう。


「自分が認めて選んだ者が、己を卑下する姿は、見ていて辛いものだ。私が選んだことを、否定されているようにも見えてな。」


 キョウスケは再び瞳に涙を滲ませて静かに頷いた。なんの涙か、もう自分でもわからなくなっていた。


 嬉しさはある。だが、孝政の気持ちも知らずに自分を卑下した申し訳ない気持ちのような、やっと心許せる人に巡り会えた安堵、認められた喜び——色々なものが混ざり合っていた。


「……無力感にも苛まれる。私が選んだだけでは、お前は救われぬのか……と。」


 キョウスケは首を横に振りながら、腕で両目をしごいた。


「泣きすぎだ。目玉が押し流されるぞ。」と言って孝政は朗らかに笑いながら、キョウスケの背を優しく叩いた。


 何も言えないが、とてつもなく、孝政に抱きつきたい衝動に駆られていた。流石にいきなり飛びつくのは気がひける。だが、わがままを言っても大丈夫な気がした。


 キョウスケは恥ずかしそうに目を伏せて、少しだけ体を孝政に向けた。


「父さん……」

「ん?」

「……抱きついて……いい?」


 孝政はキョウスケの方に体を向けると、「いつでもいいぞ。」と言って両腕を広げた——。


 キョウスケは勢いよくその腕の中に自らの身を投げ込んだ。孝政の首にしがみついて肩に顔を埋めた。孝政もしっかりとキョウスケの体を両腕で包み込んだ。


「これからは、いちいち確かめるな。親子はそんなことを聞かぬものだ。」

「はい。」


 キョウスケは両腕に力をこめた。


 その日。朝の白い光の中。二人は本当の親子となる初めの一歩を踏み出した——。

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