第2話 父さん

 腹の中で何かが蠢いた。違和感でキョウスケは目が覚め、息を呑む。寝ぼける間も無く、その動きに全神経を集中した。


 それは、若干の痛みを伴いながら徐々に腹の下の方に移動していく。


——まずい!!


 背中に寒気を覚えた。納屋の中で用を足すわけにはいかない。


 立ちあがろうとするが、左足の添木に邪魔された上、ズキリと痛みが走り、それ以上は怖くて動けなかった。足以外にも、全身に走る痛みは昨晩と大差ない。一日で良くなるものでもないだろう。


——どうしよう……


 キョウスケはなす術もなく、ただ冬眠中のリスのように丸まる。腹の動きを気にしないようにして、別のことを考えれば、便意を遠ざけることができるだろうか。


 キョウスケは必死に違うことを思い浮かべようと目を閉じた。しかし——、これまでの出来事はどれも思い出したくないことばかり。何を思い浮かべていいのかわからず、むしろ心がざわつき、腹の動きも良くなったように思えた。


 別のことを想像することを断念し『ごめんなさい孝政様……俺、もうムリ……』と心の中で静かに謝り、涙目になったその時——


「ただいま戻った。」


 カゴいっぱいの青竹を背負った浪人が納屋の扉を開けた。


 ただならぬキョウスケの様子にカゴを納屋の隅に放りやると、うずくまるキョウスケの近くに駆け寄った。


「どうした?大丈夫か?腹が痛むのか?」


 よく響くハリのある声が矢継ぎ早に質問を繰り出す。キョウスケは苦しそうに浅い息を吐きながら、うっすら目を開けた。


「すみませぬ。は、腹が……動いてて……あの……薮に行きたいのですが……立てなく……」


 押し寄せる腹のうねりに言葉を続けることができない。キョウスケは再び目を瞑り必死に腹の蠢きを逃そうと、違うことを意識する。今しがた目にしたせいか、孝政が背負ってきた青竹が脳裏に浮かんだ。


 その時、背と膝の後ろに腕がスッと入り、ふわっと中に宙に浮く感覚を覚え、思わず目を開いた。


「そんなものは、我慢せずにすぐに言うんだ。薮に連れていってくれと言えばいい。わかったか?」


 キョウスケは恥ずかしそうに、視線を逸らせたまま小さく頷いた。


 だが、キョウスケは孝政に、体を完全に預けることができない——。


 その言動から、孝政が今まで出会ったどの大人よりも格式高いことは子供の目から見ても明らかだった。


 そんな人を、自分のような孤児の大便に付き合わせてはいけないとキョウスケは思った。それに、昨晩は粥を一人で平らげてしまった上、最近背も伸びて体重も増えている。


 腹が空いているところに、重量のあるものを運ばせるようで申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 キョウスケは全身から力が抜けず、体をこわばらせて、岩のようになった。そして両腕を胸の前で合わせると、できる限り全身を縮ませる。それを見て、孝政は微かに眉間に皺を寄せた。


——人に頼るということに罪悪感を覚えているのか……


 大人に心を許せる環境に身を置いて来なかったのだろう。浪人は、一つため息をつくと、優しく目を細めた。


「キョウスケよ……もっと力を抜いて、私の胸に体を預けてくれ。首に腕を回してしがみつくんだ。抱きにくくて仕方ない。」


 それでもキョウスケは言われた通りにはできず、首に腕を回すことなく、できる限り全身を孝政の胸に押し当てた。


 孝政はやるせない笑みを浮かべながら、キョウスケを外に連れ出し、藪の中に連れて行くと用を足させた。


「すみませぬ、孝政たかまさ様。こんなことも自分でできなくて……後始末までしてもらってしまって……」


 孝政は処理を終えると、藪の入り口に座るキョウスケの元に戻った。そしてにこやかに頬を緩めた後、彼を抱き上げて、そっと立たせた。


「少しそのまま立っていろ……」


 そういうと、キョウスケの前に背を向けてしゃがんだ。


「ほれ、背負うから、乗ってこい。遠慮は要らぬ。これなら顔も見えぬゆえ、緊張せず乗りやすかろう?」


 いくら着物が疲れていても、その佇まいや立ち居振る舞いから、高貴な家柄の出であることが滲み出ている。孝政が浪人に身を落としていなければ、一生顔を合わせることがないほどの上の身分だったろう。


 そのような人の背に乗るなど、どうしてできるだろうか——。例えまだ歳一桁であっても、その頃のキョウスケには既に、身分の前に無邪気になれない階級意識が全身に染み付いていた。


「ほら、早く。」


 一歩も引かない様子の孝政に何度か促され、キョウスケはようやく、渋々と彼の肩に手をかけ、ゆっくり足を開いてそっと両膝で背を挟んだ。


「よし!」


 そういうと、孝政はキョウスケの両腿を腕で抱えるようにして、立ち上がった。そしてゆっくりと散歩するような速度で、納屋とは反対の方向に歩き出した。


「た、孝政様?……納屋に戻らぬのですか?」

「少し散歩をしよう。散歩はいやか?」

「い、いえ、好きですが……歩けるようになってからでもいいのでは?これでは、申し訳なくて……」


 キョウスケの言葉は聞こえているはずだが、孝政は納屋に背を向けたまま、歩みを止めることはなかった。


 孝政はゆらゆらと体を揺らしながら周囲を森で囲まれた田畑の農道を行く。朝靄でうっすらと煙る中、コロコロとした水路のせせらぎの音が鳴っていた。


 これは、人の匂いなのだろうか——。キョウスケは両腕に少し力をこめると、孝政の首元に顔を埋めた。


 香や線香が焚かれる寺の環境の中では嗅いだことのない匂いだった。


 竹藪の匂いとともに微かに感じる汗と今まで馴染みがないのに不思議と懐かしい温もりを感じる匂い。それが森林から漂う朝靄の匂いと共に、キョウスケを優しく包んでいた。


 その匂いを全身に行き渡らせるように、もう一度大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。癖になりそうな匂いだ。キョウスケはうっすらと微笑んだ。


 少し前からキョウスケに匂いを嗅がれていることに気づいていた孝政は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。


「臭うか?」


 孝政の言葉に、キョウスケは勢いよく顔をあげた。


「い、いいえ!そうではないです。どちらかといえば、気持ちがゆったりするような……」

「そうか?ならいいが……」


 優しい笑い声が彼の背中から全身に伝わってくる。振動と歩みの揺れが心地いい。キョウスケはもう一度、顔を孝政の首に埋めた。


 何か落ち着く——キョウスケの体から次第に力が抜けていった。


 安心するというのは、こういうことなのかもしれない。孝政の肩に頬を添え、静かに目を閉じた。ゆったりとしたあゆみの揺れが続く。あまりの心地よさに目の奥がじんわりと緩んだ。


 しばらくの間二人は、せせらぎの音に戯れる雀の囀りを耳に、朝霧に包まれぼんやりと広がる景色の中、柔らかな光に包まれて、ゆらりゆらりとどこ行くあてもなく進んで行った。不意に孝政が独り言のように呟いた。


「人は……温かいのう……すっかり忘れておったわ。」


 孝政の脳裏には、江戸にいる別れた子供たちの顔が浮かんでいた。


 藩を出る時に幼かった子供らも、だいぶ大きくなったろう。


 別れ際「父上と離れたくありませぬ!」と言って抱きつき泣きじゃくっていた一番上の子はどうしているだろうか。あの年の春に生まれた末娘は、そろそろ書の手習が始まる頃だろう。不意に鼻を啜る音があたりに響いた。


 ——孝政様、泣いているのだろうか……。


 背負われているキョウスケに孝政の顔は見えなかったが、そんな気がして、思わずそっと両腕に力を込め、孝政の肩に頬を擦り寄せた。


 キョウスケの気遣いに、孝政は穏やかに目を細めた。


「キョウスケは、優しいのう。良い子だ……」


 それからしばし、孝政の草を踏み締める音だけがあたりに響いた。


「私には、三人の子がおってな……上が娘、次が息子、末っ子は娘……皆、江戸に住んでおる……息子はキョウスケと同じ年ぐらいだ……」


 キョウスケは突如、胸にチクリとした痛みを感じた。胸の中に季節外れの木枯らしが吹くような感覚に襲われ、背中に寒さを感じる——。


 自分に家族がいないから、すっかり孝政もそうだと思い込んでいた。


 しかし、そのようなこと、あろうはずもない。彼は武士。家も家族もあったと考える方が自然だろう。彼には自分と違って、家族がいるのだ。


 この温もりも優しさも、本当は自分のものではないことに気づいてしまった——不思議な感覚だった。悲しいのに、腹立たしさも感じるようで、キョウスケは思わず口をつぐんだ。


「私が藩を出て…もうすぐ五年になる。あいつはキョウスケぐらいになっているのだろうな。」

「……会いたいの?」


 胸は痛むが、孝政がどう思っているのか気になった。


——どうしよう、変な気分だ……。


 自分と同じように身寄りがないと思っていた孝政には家族がいる。


 そう知っただけで、何か違う世界の人のようにも感じられて、悲しさを伴う苛立ちが膨らんで、気持ちがトゲトゲしていくようだった。


「……とうに気持ちを断ち切っておる……いや、そのつもりだった。だが……」


 孝政の言葉に、キョウスケは急に不安に襲われた。同時に、今まで感じたことのない、得体の知れない何かが胸の奥に広がっていくのを感じた。


 寺では散々教え込まれた。人のものを取ってはいけない。ズルをしても、嘘をついてもいけない——そう教えられてきた。


 孝政は、他の子供の大切な父親だ。絶対に奪っていいはずがない。頭では、そう理解している。そんなふうに思うこと自体、いけないことだ。


——だけど。


 キョウスケは、思い切り両腕に力を込めて孝政にしがみついた。離れたくなかった。


 初めて触れた人の温もり。優しい声。包み込むような眼差し。与えられたことがなかったから、知らなかった。


 けれど今、これがなければ生きていけるかどうかすらわからない。


 キョウスケにとって、ようやく心が落ち着く場所が見つかった。だからこそ、手放したくない気持ちが、どうしようもなく強くなっていた。


 頭と心が別々になってしまったような気持ちに襲われ、どう処理していいのかわからない葛藤が、キョウスケの中で渦巻いていた。


「……キョウスケをおぶっていたら、もう二度と触れ合うことのないと思った人の温もりを、思い出してしまった。嬉しいような、厄介なような———」


 孝政は苦笑いしながら呟く。


「…厄介?」


 キョウスケの声は掠れ、震えた。喉の奥が張り付くような感覚を覚え、思わず唾を飲み込んだ。


 自分が厄介者なのはよくわかる。母親と過ごした六歳ごろまでの間に何回「お前さえいなければ」と言われたことか。


 しかし、物心着く頃には、そんなふうに母親に言われるのは慣れっこになっていた。むしろ「俺なんかが息子で気の毒だ」と、申し訳ない気持ちと共に、どこか割り切っていた——。


 だが、孝政に「お前さえいなければ」と言われたなら「もう消えてしまいたい」とすら思うかも知れない。キョウスケは孝政の気持ちを探るように息を潜め、彼が続けるのを待つことにした。


「ああ、お前の足が治って、しばらくして……私の元を去る日が来ると思うと、去った後の気持ちの処理が、辛いだろうな。」


 孝政の言葉が染み込むように、キョウスケの心に流れ込んできた。目の奥が焼けるようにチリッと痛み、ぎゅっと目を閉じる。まぶたには涙が滲んだ。言葉にならず、孝政の肩にキョウスケは顔を埋めた。


「諦めていたはずの人の温もりを……私は、求めていたのだな……。」


 半分独り言のようにそう孝政は呟くと、そのまま口を噤んだ。辺りは再び、孝政が草を踏み締める音だけになった。


 キョウスケは思い切り両腕に力を込めて、孝政の首に額を擦り付けた。溢れ出すものを堰き止めることができない。胸の奥底から湧き上がる何かに、呼吸が乱れ、吸うことも吐くこともままならず、ただ全身に広がっていく何かに身を震わせた。


 今までどんなに辛くても涙を必死に飲み込んできた。罵られても、厳しく叩かれ、蔑まれても。裏切られ、寺で厳しく扱われても。


 泣いても何も変わらない、泣くのは甘えだ、泣いたら負けだ、自分が悪いのだから泣く道理などあるはずがない。だが——、孝政に疎まれてなかった。たったそれだけで溢れ出すものが止められない。


 漏れ出す声も抑えきれず、何もわからぬまま、いつしか大声をあげて泣いていた。


 孝政はそれを静かに背中越しに聴きながら、ゆっくりと歩む。草を踏みしめる音をかき消すようにしばらくの間、キョウスケの泣き声は山林に響き渡った——。


  再び、草を踏む音が聞こえるくらいにはキョウスケの気持ちが落ち着いてきた頃、孝政の穏やかで深くよく通る声が、彼の背中を伝い、キョウスケの全身に静かに流れ込む。


「キョウスケさえ良ければだが……」


 孝政は少し言葉を切った。再び彼の脳裏に、いずれ訪れるであろう別れがよぎる。


 愛しい者たちと袂を分けたあの日のように、別れる日がやがては来るのだろう。心にずきりと痛みが走り、一瞬、臆病になった。


 だが、それを今考えたところで仕方ない。今、一番どうしたいのか。どうするべきなのかを自らに確かめた。


——背中に感じる温もりを出来る限り守ってやりたい。


 その気持ちだけは、何よりも強く、確かだった。


「しばらく一緒にいる間……私はお前の父になれるだろうか?」


 キョウスケは目を見開き言葉を失う。聞こえてきたことに耳を疑った。


 孝政の今の生活で、子供を養うことは負担になるはずだ。おそらく今のは聞き間違いだと、期待しないよう、自らに言い聞かせた。


 しかし心とは裏腹に、孝政の言葉を待つ胸の鼓動ははっきりと聞こえ、全身に拍動を感じるほど、期待と不安が高まりを見せていた。


「私は、キョウスケの父親になりたい……そう思ったのだ。どうだろう?私を、父とは呼んではくれまいか?」


 周りの音が一瞬で失われた。そして再び、溢れ出すものに襲われ、見開かれた視界が一息にぼやけた。キョウスケは先ほどよりも強く首元に顔を押し付け、嗚咽を必死に押し殺した。


「い、いいんですか?お、俺なんかが……孝政様の……ほ、ほんと……に…」


 孝政は前を向いたまま、しっかりと大きく頷く。キョウスケの呼吸は再び大きく乱れた。


「とはいえ、浪人風情ゆえ……辛い思いもさせるやもしれぬが……」


 孝政の自嘲に、キョウスケは頬を濡らしながら頭を勢いよく横に数回振った。


——もう、いい……


 キョウスケは自らの内側から吹き出すものに抗うのをあきらめた。胸の中から全身に広がる温もりと共に、彼は声を限りに、心の赴くままに身を任せた。


 キョウスケの泣き声を背に感じながら、孝政の中にも全身に温かなものが広がっていく。彼の笑顔にも涙が滲んでいた——。


 納屋が近づいてきた頃には、二人の笑い声が山林に響いていた。


「孝政様は親父とか父ちゃんって感じじゃないですよ?」

「だが、村の子供達の多くは父親をそのように呼んでいるようだぞ。」

「でも……孝政様は、父上とかお父様って感じですよね。」

「私はかまわぬが……お前が呼びづらいのではないか?」


 キョウスケは少し身体をじっとさせて考える。頭の中でいくつかの場面を想像した後、照れくさそうに笑った。


「確かに、孝政様のいう通りだ……皆振り返りそうで、呼びづらいですね。」


 二人の笑い声がしばし山林に響く。


「それよりお前、敬語はやめろ。我らは親子。余計な遠慮やよそよそしい言葉遣いはなしだ。」

「それも……敷居が高いな……」


 キョウスケは苦笑いしながら頭を掻く。


「お前がそんなでは…お前の父になれた気がせぬ。村や町の子供らが親と話すようにしてほしい。」

「で、でも…」


 二人の間でふと沈黙が訪れた。楽しそうに戯れる小鳥たちの囀りが、せせらぎの音を縫うようにして聞こえる。


「寂しいのう……」不意に孝政が呟いた。


 キョウスケは「寂しい」「悲しい」の言葉や空気に弱い。孝政の首に回した両腕と、腰を挟む両膝にも力を込めて、思い切り抱きついた。


——心がよく動く子供だ。優しくて、可愛らしい。


 孝政は鼻で「ふふっ」と笑った。その時、いいことを思いついたかのように「じゃあ……」と言って、キョウスケが体を起こし、孝政の顔をのぞき込むようにして、後ろから顔を出した。


「父さんは?」

「……うむ、今まで呼ばれたことはないが、良い響だ。」

「本当?」キョウスケの声が明るく響く。


「ああ。キョウスケにはそう呼ばれたい。呼んでくれるか?」


 キョウスケは全身の力を込めて孝政にしがみつく。


「………父さん…」

「ん、いい響だ。」


 孝政の声がキョウスケを優しく包み込むように響いた。


「ふふっ……父さん。」

「そうだ……お前の、な。」


 二人とも、互いの顔は見えないが、自然と笑顔になっていた。


 畦道をゆっくり進む歩みに戯れるように、白や黄の蝶がふわふわと行き交い、春の柔らかな風が時折二人の髪をゆらす。


 納屋までの間、二人はさほど言葉を交わさなかった。ただキョウスケは『父さん』と、透き通る優しい声で、何度も何度も繰り返し呼び続けていた。



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本編の長編小説アイデンティティはこちらです。

よろしければ本編もよろしくお願いいたします。


https://kakuyomu.jp/works/16818792436757224399

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