第9話 覚悟
雲ひとつない青空。暑すぎて蝉すら鳴いていない。上から降り注ぐ日差しと、コンクリートから跳ね返った熱で、体が360度ジリジリと焼かれている感覚に陥る。拭いても拭いても出てくる汗。汗を拭うことさえ億劫になってきた。偶然口に入った汗がしょっぱく感る。運動部に入ったことのない盃都は生まれて初めて体から塩が出ているのを実感した。
先日、盃都は神戸を訪れていた。田舎から帰った後、
教えてもらった神戸の住所へ行ったが、結局、桜太の遺族に合わせてもらうことはできなかった。想定内ではある。あんな事件の被害者たちに簡単に合わせる身内はいない。神戸は桜太の父の実家だ。玄関先で断られたわけだが、その時に得た情報を元に盃都は今ある場所へ向かっている。
実に盃都らしくない。一か八かの賭けに出ているのだ。盃都は意味のない行動はしない。何事にも無気力で、基本、なるがまま、されるがまま。大人からしてみたら扱いやすい子供かもしれない。高校生にもなって反抗期という反抗期がないのだから。今回のこの行動が初めての反抗かもしれない。誰の指示でもなく意思を持って盃都が主導で動いている。
そんな盃都は自分の行動を早くも後悔しつつあった。電車から降りてまだ10分も経っていないというのに。
──帰りたい。もしくはクーラーがガンガン効いているスーパーに入りたい。
そう思いながらスマホの地図を見て歩く。後5分。ナビアプリはそう言うが、なかなかカウントがダウンしていかない。暑すぎて歩くペースが遅いのか、猛暑でスマホもバグっているのか。疑心暗鬼になりながらナビが示す場所へと進む
──男でも日傘が必要かな。
すれ違う女性が皆、日傘を持ってアームカバーをつけているのを見るとそんなことを思った。
盃都はあるマンションのエントランスに入り、インターホンの前で立ち止まる。カバンからハンカチを取り出して首と顔の汗を拭いてからスマホのメモに書いてある部屋番号を押してインターホンを押す。無機質な音が響いた後、プツッという音と共に男の人の声がした。その声を聞いてインターホンのカメラであろう黒い球体の部分に一礼して盃都は口を開く。
『あの──
盃都の申し出に家主は返答をせずに、インターホンを切った。
──やっぱり断られたか。
盃都は思わずため息をついた。せっかくここ数日悶々と考えに考え抜いてここに来る決意をしたというのに。夏は余程のことがないと家から出ない東京の夏を心得た盃都が、わざわざ真っ昼間に汗まみれになりながら出向いたというのに。
こうもあっさり門前払いされるとは。想像よりも心にくることに盃都は気づいた。
──こんなに傷つくくらいなら、悩まず行動してさっさと玉砕しておけばよかったな。
ここ数日の悩める日々はなんだったのか。
──愚か者は経験に学ぶとは、こういうことか?
もしくは、本当の愚か者は経験にすら学ばない──ということなのか。自分はどっちなんだろうかと自虐に陥ってる時だった。
エントランスの自動ドアが開いた。周りを見渡すが誰もいない。自分が通されたのかわからない盃都は戸惑いながらゆっくりと中へ入り、先ほど入力した番号の部屋へと向かう。一呼吸置いてドア横のインターホンを押した。自分の鼓動がうるさく感じた盃都は天井を仰いで気を逸らす。
間も無くして中から出てきたのは、盃都が覚えているよりもしわの数がうっすら増え、白髪も増えた桜太の父──
「盃都くん。大きくなったね」
「お久しぶりです」
盃都は頭を下げた。弥生斗は盃都を拒むことなく中へ招き、リビングへ通した。盃都はソファに座るように促され、麦茶を出された。盃都が桜太の家に遊びに行った時にもこうして弥生斗がお茶やお菓子を用意してくれた。
暑い中歩いてきたため、盃都は早速一杯いただくことにする。麦茶を口に含んだ途端にー盃都は違和感を覚えた。だが何が違和感なのか分からない。普通の麦茶だ。
──なんだ?
麦茶の違和感に気づいて盃都が顔を上げると、目の前の棚には桜太の写真があった。
盃都が見たことのないユニフォームを着た桜太。大粒の汗が額に滲んでいる。試合の後の写真だろうか。おそらく高校生の時の写真だろう。盃都が覚えている桜太よりも少し顔が大人びていた。桜太の写真を見ていると、なぜか麦茶の違和感の正体がわかってしまった。弥生斗が今目の前に出した麦茶は田舎で盃都が入れてもらっていた麦茶とは違う。
──塩気がない。
盃都は思わず手元の麦茶をじっと見てしまう。その様子に気づいた弥生斗は悲しそうに笑っている。
「麦茶、もう塩を入れるのはやめたんだ」
「……どうしてですか?」
「もう、この家には汗っかきの人はいないから」
桜太の家に行って塩入麦茶を出された時、はじめは飲みづらいなと思っていた。それは当たり前だろう。あの麦茶は体から出た水分だけでなく、塩分も補充するための麦茶だったのだから。桜太と違い盃都は汗を大量にかくような運動はしない。そんな盃都にとっては、桜太の家の麦茶はちょっと塩気のする変な麦茶でしかないのだ。
だが気づくとその味は、桜太の家に遊びにきている──と実感させる美味しい味に変わっていた。桜太の家では“あの麦茶”が出てくる。体が覚えていたのだろう。だから今目の前に出された普通の麦茶に違和感を覚えてしまったのだ。
この前田舎に行った時に春如の家で飲んだ麦茶となんら変わりはない。違和感の謎がわかってスッキリしたにも関わらず、あの麦茶はもうここにはいない桜太のために作られた味だったと知り、得体の知れない悲しみが目の奥から湧いてくる気がした。
しかし盃都はセンチメンタルになるためにここに来たのではない。目的を果たすために、込み上げてくる悲しみを捨て去って盃都は弥生斗にお願いをする。
「あの、桜太に線香をあげたいのですが」
弥生斗は微笑んでから無言で立ち上がり、廊下へと出る。盃都はその後ろをついて行くと、畳の部屋が見えてきた。田舎で訪れた桜太の家に比べるとずいぶん小さい座敷だ。畳の縁を踏まないようにそっと歩いて、仏壇の前に膝を折って座る。
弥生斗が蝋燭に火をつけてくれている間に、ここにくる途中に買った桜太の好物である資生堂のチーズケーキを仏壇の横に置いた。線香に火をつけて香炉の中央にさし、おりんを鳴らす。鐘の音が凛と響き、この空間が澄み渡るような気がした。目を閉じて両手を合わせた盃都。
──遅くなってごめん、桜太。
盃都は心の中でそう呟いた。
鐘の音が消えた頃、目を開けて両手を直す。仏壇を見ると、中央に桜太と桜太の母親──
──先祖の仲間入りをするにはまだ早すぎるだろ。
遺影の写真を見て盃都はそう思った。
ひとまず目的を果たした盃都は蝋燭の火を消してリビングへと戻ると、向かいのソファに座る弥生斗に向かって盃都は頭を下げた。突然のことに驚く弥生斗。
「すみません、来るのが遅くなって」
「いや、いいんだよ。あの後色々あって、僕らもそれどころじゃなかったからね。本当は盃都くんに僕が直接伝えるべきだったんだけど」
「いえ──俺が、日本で何が起こっていたのか全く気にもしなかったせいで」
「違うんだ、僕が頼んだんだ。
弥生斗は悔しそうに膝の上で拳を握った。その様子を見るのが辛くなった盃都は思わず目を逸らしてしまう。
盃都は他人に感情移入するタイプではない。だが桜太の家族は別だ。他人事と思うには距離が近すぎた。
盃都が逸らした視線の先には桜太が野球の大会位で優勝したトロフィーを持って笑っている写真があった。今もどこかで生きているような気がする。桜太が亡くなった実感が持てないのに、悲しさに似た悔しさが溢れ出す。仏壇に手を合わせたら何かが変わると思っていたが、盃都は桜太の死を受け入れるなど到底できなかった。
盃都は弥生斗の向かいのソファに座り、意を決して口を開いた。
「今回俺がお邪魔したのは、桜太に手を合わせるためだけではありません」
弥生斗の眉間に皺が寄る。不快な表情ではない。ただ、分からないのだ──桜太に手を合わせる以外に盃都がわざわざこの住所を調べて尋ねてくる理由が。
盃都は数日前、新幹線の中で決意したのだ。時間がかかっても桜太の身に何が起こったのか調べよう──と、その手がかりを探しにきたのだ。
「俺は調べるために来ました。桜太の死の真相を」
弥生斗は目を大きく見開いて驚くも、すぐ首を横に振った。
「関わらない方がいい」
「なぜですか?」
「……もう2年も前のことだ。僕らは前に進むと決めたんだ」
弥生斗はまるで、桜太や茜に降りかかった出来事から目を逸らして、二人の死だけを無理やり受け入れてるかのようだった。
──これじゃ桜太も茜さんも浮かばれないだろ。
盃都はそう思った。弥生斗は無理やり前に進んでいるが心の整理は未だついていない。ガス欠のバイクを押して進んでるようなものだ。それが盃都には手に取るようにわかった。なぜ弥生斗がガス欠なのかも、盃都はおおよそ想像がついていた。春如から聞いた、弥生斗たちに降りかかった悪夢。それが弥生斗からエネルギーを奪い続ける。盃都は怒られる覚悟で自分の思いの丈を弥生斗にぶつける。
「俺、納得できないんですよ。桜太が死んだのも、桜太のお母さんが死んだのも。あの田舎に問題があるんですよね?桜太が
盃都のほとんど事実とも取れる内容は、弥生斗にとっては耐え難いものだった。一文字に結んだ弥生斗の唇が歪み、目からは大粒の涙が溢れ出てきている。乗り越えようとしている遺族に2年越しに辛い思いをさせるのは気が引けたが、盃都は黙ってはいられなかった。
──桜太たちに起きた悲劇はなかったことにしちゃダメだ。
畳み掛けるように弥生斗に言葉を投げていく盃都は、側から見ればただの鬼のように見えるのかもしれない。
「俺は何があっても桜太は人を殺すような人間じゃないと思うんです。桜太のお母さんだって、息子が亡くなったとはいえ、自殺するような人じゃないですよね?強く、生きる人ですよね?だって、
盃都が東京のこの家にたどり着くまで数日かかった。春如を半ば脅して突き止めた桜太の遺族の引っ越し先は神戸だった。春如が毎年送っていたお米も神戸に送られていた。
神戸にいる弥生斗の両親は玄関までは通してくれたものの、盃都を警戒して玄関から先へは入れなかった。盃都は弥生斗の両親とは面識がない。突然、桜太の友達です──と言っても信じてもらえなくて当然だ。自分の孫とその母親が田舎で酷い目に遭ったのだから。
なんとか話を聞き出そうとしている時、盃都は見覚えのあるものを見つけた。玄関口に置いてあった米袋。間違いなく春如がいつも使っている袋だった。“桜“と鉛筆でやや粗末な字が書かれている。
春如はいつもそうだった。桜太の家にあげるお米はいつも袋にメモをして寄せておく。“桜“と書いて──桜太の桜だ。
その袋の上に貼られた宅配便の伝票の住所に春如の住所はなかった。春如は神戸の住所しか言わなかった。それしか知らないからだ。つまり、この米袋は春如から神戸の弥生斗の家に送られ、この後、弥生斗の両親がどこかに転送しようとしているということ。高齢夫婦が息子宛に来たであろうお米を転送する先は、息子が今住んでいる住所だ。そう思った盃都は必死に伝票に書かれた住所を目に焼き付けた。弥生斗の両親に追い出された盃都はその場でスマホを取り出して目に焼き付けたばかりの住所をメモに打ち込んだ。
弥生斗はその背景を知らない。きっと、自分の両親が訪ねてきた盃都にこの住所を教えたのだろうと思っている。弥生斗が思っているよりも自分の両親は警戒していることを知らずに。そこまでして必死に隠そうとしていることを、こうして暴いていることに少し罪悪感を覚える盃都。それでも突き進むしかない──と思った。
これは今まで何事にも本気で向き合ってこなかった自分へ突きつけられた課題だと思った。兄弟のような親友を殺した犯人を見つけることさえできない自分が、この後の人生で何かを成し遂げられるとは思えなかった。これだけ動くべき動機がある物事にさえ無気力なのであれば、きっと、自分は何にも興味を示せずに廃人のように生きてしまうだろう。もう迷ってはいられないのだ。来るかも分からない何年も先を見据えた進路よりも大事なことが目の前にあったのだ。
これは盃都にとっては何としても乗り越えなければならない障壁──盃都が覚悟を決めた夏の始まりだった。
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