第9話 小園との秘密



 辰之助のいる道場にはわずかの門弟しかいなかった。

 その中で、異彩を放つ人物がいる。

 辰之助だ。


 門弟の一人に稽古をつけていて、防具をつけての打ち込みをしており、すさまじい音が響いている。

 以前とは見違えるほど精力に溢れ、圧倒的な強さを見せていた。

 打ち込まれた相手の竹刀が震え、弾き飛ばされる。拍手が入り混じり、他の門弟たちが憧れのまなざしで見ているのが取れた。


 伊織は、道場の隅に座ってしばらく待っていると、辰之助がようやく気がついて防具を外して来た。


「めずらしいな」

「顔が見たくなって」


 素直に云うと、辰之助が一瞬、言葉をなくしたように見えた。


「そうか……」


 それからくるりと背中を向けた。


「しばらく打ち込みをするぞ」

「待っていてもいいか」

「好きにしろ」


 それだけ云うと、行ってしまった。

 何か余計なことを云ってしまったのだろうか。

 いつもと違う様相に伊織は戸惑った。



 半刻(一時間)ほどすると稽古が終わり、門弟に片付けを頼んだ辰之助が行水をするために、井戸のほうへ向かった。伊織は後を追いかけた。

 辰之助は、井戸の水を汲み上げて手拭いで汗を拭き始めた。すると突然、怒った調子で云った。


「伊織、たまには道場のほうへも顔を出せ」

「怒っているのか?」

「怒っていない。ただ、体がなまっているのじゃないかと思っただけだ」


 先ほどからこちらを見ない。何かあったに違いなかった。


「辰之助、俺を見ろ」


 ぐいと肩に手を乗せて強引に向かせる。辰之助の目は釣り上がり、なにか云いたげな目をしていた。

 伊織が黙って見つめていると、辰之助が観念したように息をついた。


「小園と云う名だそうだな。お前の許婚は」


 孫四郎が来たのだ。

 辰之助は、伊織をじっと睨んでいる。孫四郎がなにを云ったのか知らないが、小園の話はしたくなかった。


「その話をするのなら、俺は帰る」

「谷村孫四郎を知っているか」

「……小園の兄だ」

「その兄がどうして俺に会いに来る。あの男、俺たちのことを勘繰っているんじゃないか?」


 辰之助が、伊織の手首をぎゅっと握った。

 伊織は、孫四郎の冷たい目を思い出して体を震わせた。手を振り払い、踵を返して逃げるように道場を飛び出した。


 孫四郎は何を話したのだろう。

 小園との縁談はとうに切れている。自分は自由の身だ。しかし、孫四郎は、伊織の動向をずっと窺っている。

 一体、何を考えているのだ。もう、小園はいないのに。


 伊織は口を噛んだ。

 小園がかわいそうだった。

 だが、小園の気持ちを孫四郎に伝えるわけにはいかない。


 ――広一郎さま。


 そのとき、ふと、小園のかよわい声を思い出した。彼女はいつも兄のことを口にした。


 ――兄上さまは、今どこにおいででしょうか。わたくし、生まれ変わったら兄上さまのお嫁さまになりたいんです。


 小園は誰かと、好いている相手の話題をしたかったのだ。

 伊織は婚約者ではあったが、唯一、秘密を打ち明けることのできる相手だった。


 ――いやじゃありませんか? 小園はいつも兄上さまのことばかり話すから……。


 遠慮がちで優しい小園は、常に伊織の気持ちを窺いながら話をした。


 ――広一郎さまの想い人もきっと、あなたのことを好いておいでだと思いますよ。


 小園は、辰之助が江戸へ立つ前から、伊織が、辰之助を思っていることを知っていた。小園が、孫四郎に頼んだのだ。

 旗本の三男、佐竹広一郎と結婚したい、と。

 

 伊織は後悔していない。

 自分は、ずっと辰之助を愛していた。冷飯の三男でよければもらってくれと半ば自棄やけにはなっていたが、小園は静かで思いやりのある娘だった。


 今の自分たちを小園が見たらどのように思うだろう。

 伊織は、走るように屋敷へ戻った。


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