第5話 金木犀



 その日、下城の途中で平井と会った。

 平井とは三人で酒を飲んで以来で、会うのは五日ぶりだ。

 江戸から辰之助が帰って来てもう五日も過ぎたのか。


 平井は貸本屋を捕まえて立ち話をしていた。

 なんだか嫌な予感がしたので知らぬふりをして通り過ぎようとすると、すぐに気付かれた。伊織、こっちへ来いと大きな声で呼ばれた。仕方なく平井に近づいた。


「なんだ、なにをしている」

「お武家さま勘弁してください」


 貸本屋が泣きついてきた。


「なにがあったんだ?」


 貸本屋の困り果てた顔を見て、伊織は顔をしかめた。

 聞けば平井が、今持っている滑稽本を全部貸せとむちゃなことを云ってきたと訴える。


「平井、ちと参れ」


 貸本屋を待たせておいて、平井の肩を引き寄せた。


「なんだよ」

「なんだよ、じゃないぞ。俺が誰だか知っているのか」

「伊織だろ」

「伊織だろ、じゃない。俺は目付役だぞ。目付の俺を呼んでおいて、滑稽本を出せなんてむちゃを云うな」

「たかが貸し本じゃないか」

「あのな……」


 二人でこそこそ云っている間に、貸本屋はしめたとばかりにいなくなっていた。


「お前のせいで逃げちまったじゃないか」

「行くぞ」


 歩くよう促した。武士二人が道の真ん中で云い争うなどみっともない。

 平井は組頭くみがしらの家柄で、四男の彼は生涯冷飯を決め込んでいる。跡を継いだ長兄に養われているが、末っ子として可愛がられていたせいか、暢気に書物を読んだり、冷やかしに道場へ通ったりするような男だった。


「なにか面白いことはないかの」


 きょろきょろと顔を動かし、落ち着きがない。


「みっともないからやめろ」

「辰之助と仲直りしたかの」

「ほっとけ」


 辰之助の名前が出ると、胸がざわざわしたが表には出さず飄々と答えた。

 町を抜け川の橋に差しかかると風が吹いた。ほのかに甘ったるい匂いがした。懐旧かいきゅうの念にかられ、伊織は足を止めた。


「どうした?」


 平井の問いには答えず、匂いの元を探そうと空を見上げると、金木犀が小さな橙色の花をたくさんつけて甘い匂いを発していた。

 伊織の視線に気付いて、平井が納得したように頷いた。


「金木犀か、もう、そんな季節なのだな」

「なつかしい匂いだ」

「そうなのか」


 平井は不思議そうに云ったが、この場に辰之助がいないのが残念であった。


「一枝、頂こう」


 平井が腕を伸ばして、しなる枝をつかんで折る。ぱきんと音がすると花房が揺れて地面に散らばった。


「お前もどうだ」


 返事もせぬうちに一枝取ってしまう。


「受け取れ」


 渡された金木犀は小さくて可憐であった。


「俺は暇だから道場に寄ろうと思う」


 貸本屋から本を借りることができなかったためか、伊織を軽く睨んで金木犀を振りまわしながら歩いて行ってしまった。

 伊織は寄り道をするわけには行かず、思わぬところで刻を過ごしてしまったと早足に帰り道を急いだ。

 武家町に入り、ようやく屋敷が見えるところまで来ると肩を叩かれた。


「伊織」


 袋竹刀を持った辰之助だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る