第3話



(昔から黙って出て行くのは癖だ)



 家にいるのが無性に嫌になった少年時代のある日、徐庶じょしょは家を出た。

 狭い家だったので母親は近くに寝ていたが、気付かれないように音を立てず。


 寂しさなどは全くなく、


 村が見えないほど離れた時振り返って、そこに広い草原だけが広がっているのを見ると、


 ――心が晴れた。


 母親にも、

 村の人々にも、

 二度と会えないかもしれないなどと感傷的になることは少しもなかった。


 

 二度とあそこへ戻るものかと思って、強く歩き続けた。

 幸か不幸かそのあとも人生は続き、

 色々な人間と出会い、別れて来た。


 徐庶がきちんと出て行きますと告げて出て来たのは、

 水鏡荘すいきょうそうを離れる時、司馬徽しばきにだけは礼儀だと思い「お世話になりました」と言いに行った、その時だけである。


 蜀から去った時も、母親が洛陽らくようにいるという報せがもたらされてから、劉備達と話はしたが最終的には「貴方の望むようにしてほしい」と劉備りゅうびが言って、それからしばらくして何も言わず劉備の許からは去った。


 徐庶が去ったことを知った張飛ちょうひが怒って追って来たが、無理に引き留めるのは劉備の本意ではないと関羽かんう趙雲ちょううんが張飛を止めに出て来て、結果として彼らとは最後に話したが、別れをちゃんと告げたわけではない。

 

 その時に自分の代わりの軍師を探すなら、諸葛孔明しょかつこうめいを訪ねてほしいと知らせただけだ。


 剣を振るっていた時も、その時々に依頼人の許に身を寄せたりしたが、徐庶は去り際は自由気ままに振る舞って来た。


 依頼が成功すると腕を見込んでの報酬や、更なる依頼を受けることはあったけれど、徐庶が一つの居場所に留まることを疎むのはもはや染み付いた習性のようなもので、引き留められたりするのは不都合で嫌いだったから、好きな時にその場を離れた。


 だが確かに陸議と司馬孚しばふは彼らの言葉を肯定するように二日間も、自分の不在を軍に告げずにいてくれた。

 彼らが徐庶に不信感を抱き、司馬懿しばい賈詡かくに報告するような人間ならば、とっくに知らせている。


 黄風雅こうふうが――【馬岱ばたい】は、必ず馬超ばちょうの許に帰してやらねばならない。

 黄巌こうがんは今、傷がまだ癒えておらず動けないからそのままにされている。


 動けるようになれば自ずと選択は迫られる。

 動くならば逆に今なのかもしれない。


 その為にはどうしても黄巌自身の協力が不可欠だった。

 もう一度だけ彼と話さなければならない。

 

 自分はすでに警戒されている。


 陸議ならば黄巌の部屋に入れるが、安易に文を届けてくれなどと預ければ、何も知らない彼を利用することになる。

 しかし秘密裏に黄巌に文を届けてほしいと言えば、陸議はどうするだろう?

 さすがに黄巌が馬超の唯一の親族と知れば、魏軍における利用価値が彼には分かるはずだ。話を持ちかけても司馬懿を明確に裏切るような行為は、彼は拒むはずだった。


 しかし陸議が今、言ったのは、

 自分が拒むか拒まないかに問わず、何も言わず行動しないでほしいということだ。


 陸議は拒んだからといって、単純に司馬懿に密告に行くとは限らなかった。


 信じること。



(それが俺には、出来ない)



 人を、信じ切ることが出来ない人間になってしまった。

 

 かつてはもっと容易く人を信じていたはずだったが、

 人を信じることは、

 自分の運命をその人間に委ねることと等しいのだということを知ってからは、

 信じることは何もいいことにはならないのだと徐庶は思うようになった。


 自分が損をするというだけではない。

 相手にも、場合によっては害が及ぶ。



 一度眠ったが明け方近くに目を覚ますと、ずっと起きて勉強をしていたらしい司馬孚もさすがに寝台に戻り眠っていて、

 頼りなくなった火が、暖炉で淡く光っていた。

 徐庶は静かに、陸議の寝台に近づいた。


 深く目を閉じて眠っている表情は二十歳だという実年齢よりもっと幼く見えた。

 側の椅子に腰掛け、陸伯言の寝顔を見下ろす。

 彼には黄巌の苦しみが理解出来るはずだ。



『私の養父は戦で死にました。

 自分自身より生きて欲しいと思ってた人です』



 ――そう。


 黄風雅こうふうがも多分、馬超に同じことを願って離れたからだ。


 だから陸伯言りくはくげんには彼の心が分かる。

 

 黄巌こうがんを自由にして、涼州の人々の許に戻してやりたいと願う徐庶の想いも、彼ならば分かってくれるはずだ。


 それは、

 そう、思えた。


 多分自分は信じているのだ。

 そのことは。


 なら、あとは陸議が助力を拒むかどうかであって、

 話すこと自体は、そうするべきだと心は決まった。


 郭嘉かくかと相対することばかり考え、覚悟を決め、この天水砦に戻って来た。


 郭嘉は司馬懿や賈詡かくよりは大きな状況を変える可能性を握ってはいるが、

 同じくらい、徐庶の四肢を封じる決断をして来る可能性もある。


(何より彼を信じることは危険だ。

 彼がまず、俺を信頼していない)


 それが砦に戻った時――窓辺で灯を掲げる陸議の姿を見た時に、全く違う道を思いついた。


 郭嘉に賭けるより、

 自分と黄巌こうがんの命運を賭けるならば、

 陸伯言に賭けた方が、成就しなかった時にも危険が少ない。


(陸議殿が目を覚ましたら、話してみよう)


 そのまま彼の寝台の端に頬杖を付き何となく、その寝顔をずっと眺めた。


 整った容姿に、非凡を感じさせる輝く瞳は今は閉じて、

 安心しきって眠っている表情は少年のようにすら見える。

 

 血腥ちなまぐさい人生を歩んで来た自分とは、恐らく背景も全く相容れない青年。


 だけど。


 傷の手当てをしている時に見えた、彼の体にある剣傷を思い出した。

 今や、左腕にも重い傷が刻まれた。



(彼は傷や痛みを全く知らない人間じゃない)


 

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